長い日の幕開け
「いっ………あ………、ぅ」
ナウィルさんの呼吸が荒くなる。下腹部を抑え、痛みに耐える姿勢を取っていた。
「は、始まったみたい、です………あ、はは、でもこのくらいの痛みなら、何とか耐えられそうです」
「陣痛発作ですね、痛んだり痛みがやんだりを繰り返します………もっと出産のピークになると痛みが増すので、覚悟を」
「わ、わかりまし、た」
「水蓮、俺が前に買ってきた布団用意して!」
「………ああ、分かった」
陣痛が始まった―――初期の陣痛の特徴は痛みが微弱であることと、断続的に襲い掛かる陣痛の間隔が長く、痛みがない時間の方が多いというものだ。
もちろん個人差はあるけれど、この時はまだお母さんにかかる身体的負担も少ない。
けれどこれは始まりであって、ここからが本番だ。痛みの間隔もそして、痛みそのものもどんどんつらくなっていく。
いや、それよりももっと大きな問題があるのだ―――まだ、ナウィルさんは逆子が治っていない。
つい先ほど、俺はナウィルさんのお腹に触れて、下腹部近くから蹴られた衝撃を感じている。ナウィルさん自身も痛みをその部分から感じているため、まだ胎内の赤ちゃんは骨盤位のままなのだ。
肩を支えながら、水蓮に引いてもらった布団の上に横になってもらう。そして服も脱いでもらうと出産に備えた。
「”火蜥蜴 火蜥蜴 お前の力を貸しておくれ。私の心が凍てつく前に”」
呪文を唱えて宙に向かって息を吐く。一瞬赤い体躯を持つ蜥蜴が揺らめき、家の中がゆっくりと温まっていった。
まずは母体第一だ、冷えては差しさわりがある。
「………さて、逆子は現代ですら、十%近くが通常分娩で亡くなってしまう………この時代にどこまでその確率から逃げられるかな」
一瞬迷ったけれど、死産になるよりはずっといい。魔法であちらさんの力を借りて透視を行う。
エコー検査などで胎内を見るのは現代では普通のことだった。科学で到達できる奇跡なら、この場で前借りしても正常の範囲だろう。
手をお腹に当てつつ、いつもよりも翠の色を増した瞳で”内部”を覗く。
「ど、うです、か………?」
「逆子は治ってないですね、しかもこれだと………」
後半の方は声には出さなかった。あんまり心配させるものじゃないからね。
でも、放置も出来ない。もともと初産というものは産道が細く、広がりにくいため出産に時間が掛かるのだ。その上に逆子であり、体勢的に通常の分娩では頭蓋骨が引っかかってしまう可能性が高い。
………帝王切開が出来ればいいのに。魔法使いであっても医者ではない俺には、流石に無理だ。知識があっても技術が足りない。
逆子の場合に限っては、緊急の帝王切開でも赤ちゃんの生存率は飛躍的に上昇する。でも、そのかわり、前にも言ったけれど帝王切開して産んだ後はもう帝王切開しかできない。
継続的にその手段を取れるならば十分に選択肢に入る施術だけど、この時代には難しい。お金も馬鹿にはならない。
「痛みのタイミングで息を強く吸ってください。もう、呼吸の音が出るくらい思いっきり!」
「は、い………!す、………はあ………すぅ………」
「良い調子です―――ぬるま湯とタオル、冷えた飲み水をお願い、水蓮」
「用意した」
「流石、手際いいねお母さんっ!」
痛みの逃がし方は大切だ。特に初産なら。
まあ出産は何度経験しても大変なことに変わりはないというけれど、気分としては一番最初が一番怖いものだ。
知らない痛み、知らない感覚を味わうことになるのは、ほら。どうしたって恐怖が付きまとうでしょう?
「お、おねえちゃん………わたしはどうすればいい?」
色々と準備を進めていると、服の後ろを弱々しく握られた。
ハレアちゃんだ。まだ幼い少女は、心配そうに俺を見上げていた。
「ハレアちゃんは………」
どうしよう、出産の様子を見せていいのだろうか。ナウィルさんの方を振り返り、確認を取る。
………頷いた。そっか、分かりました。
「お母さんの手を握っていてあげて。知っているかな、手を握られると勇気が出るんだよ。ハレアちゃんの勇気を、お母さんに分けてあげてね」
「―――うんっ!」
「ふふ、いい子いい子」
頭を撫でると、俺ももっと動きやすく清潔な服に着替える。これも予め買っておいたものだ。
下着以外を脱ぎ去ると、上は殆ど無地のリネン生地であり、首元まである半袖のもの。下は麻でできた短めのパンツだ。本当なら足全てを覆うものを着たかったのだけど、質の良いものがなく、毛羽だったものやあまり清潔ではない古着ばかりだったのでこれで妥協した。
とにかく、汗を吸ってくれて布自体が清潔ならもう何でもいい。
着替えたら無駄に長い髪も頭の後ろの方で丸めてしまい、間違っても垂れて来ないようにきっちりと結んだ。
「ふと疑問に思うのだが、ナウィル。この街にはマツリ以外の産婆はいないのか。逆子であるのならば呼ぶべきだろう」
「俺は正確には産婆じゃないけどね、魔法使いだし」
いや、昔からその二つは似たようなものだけど、確かにその疑問は残る。
お医者さんとなればお金がかかるけど、中世では産婆は経験豊富なお婆さんがやるものであり、街や村の器用な年長者が善意でやってくれるものである。
「いる、とは思いますが………こ、この街は、広すぎて………文化も、発達して、いますから」
息を吸いながらの途切れ途切れの言葉でナウィルさんがそういった。
そうか、産婆の歴史は古く、古代エジプトにはその記述があるけれど、日本などを例にすれば戦後あたりからはもう専門の職業として扱われるようになっていた。
十九世紀にはもう、完全に出産時に立ち会う産婆は助産師と名前を変え、資格を持ち、雇用されることで賃金を得る形になっていたわけである。
この街でも産婆はもう資格制の職となっているのであれば、産婆を雇うのにもお金がかかるし、これほど大きな規模の街となれば産婆は常にあちらこちらに引っ張りだこである。
ただでさえ中世という時代は子供をたくさん産むのだから。
多分、魔術を筆頭とした秘術と科学の混合したこのカーヴィラの街は特に、他の都市に比べて文明や文化が先行しているのだろう。それ故に、古来の意味の産婆はもう絶滅寸前で、それこそ俺みたいな魔法使いにお鉢が回ってきたわけだ。
ちなみに出産にかかる費用は現代日本だと平均して四十万円を超える。そのうち助産師さんを雇うお金も内約として入っている分娩料は二十万強となっているので、出産には多額のお金がかかることが分かる。産む人が少なくなるわけだよ、そりゃあ賃金が少なくなれば少子化も進むさ。
いや、話を戻そう。大事なのは、今更他の人に頼るなんてことは出来ないって事実だけだ。
魔法使いとして、全責任と力の限りを尽くして、赤ちゃんを無事に取り上げるよ。もちろんナウィルさんも問題なく、ね。
「今は赤ちゃんの通り道が広がり始めた潜伏期と呼ばれる状態で、これが数時間続きます。短くても九時間くらいでしょうか………痛みはまだ弱いと思いますが、それでも大変ですからね。何か必要なものとか、やってほしいこととか、気になったことがあったら言ってください」
「ふ、ふふ………ありがとうございます」
痛みの間隔はこの時期だと十分に一回程度。一時間以内に最低でも六回は陣痛が襲ってくる。
痛みが弱いとはいっても、他の時期の陣痛に比べればというだけの話で、痛いことに変わりはない。………出産経験のない俺にはその痛みを完全には理解できないけれど。
水蓮ならわかるだろうか。冷静に動いて、必要なものをそろえてくれている水蓮を流し見してみると、目を細めてナウィルさんの大きなお腹をじっと見ていた。