水蓮とナウィルさん
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「ハレアもすぐ懐いて………ふふ、でもマツリさんはちょっと変わった方ですね。一人称も”俺”ですし。とても女性らしい身体つきの方ですのに」
「そうだな」
「えっと、スイレンさん。マツリさんはスイレンさんとよく似ているのですが、血縁関係があるのでしょうか?」
「ない。私はあれの姿をまねているだけだ」
「まねて………?」
大きな腹をあまり動かさないようにしながら、ナウィルという女は傾げた首をこちらに向ける。
………ただの人間は私の姿をこの姿でしか見ない。見えるものだけがすべてではないというのに。
「私はお前たちが妖精と呼ぶものだ。人ではない」
「―――まあ!妖精さんなんですね、初めて見ました」
両手を合わせて驚く女。いや、どちらかと言えば喜ぶに近いか。何故喜ぶ。人の子の心理はよく分からない。
「妖精さんは綺麗だって噂は聞いていましたが、本当なんですね」
「………だから、この姿は真似たものだといっているだろう。本来の姿は別のものだ」
「そうなんですか?じゃあ、本当のスイレンさんはどんな姿をしているのでしょう」
「どんな、いや。む。馬のような姿、と人には良く言われたが」
人間の私に対する扱いは水棲馬というものだった筈だ。
つまりは馬の姿である。そもそも我らにとって姿かたちなど、特別意味を持たないのだが。それこそ水のように流動的に変化させることが出来るものだ。
「お馬さんなんですか。きっと、良い毛並みを持っているのでしょうね、ふふ」
「お前、マツリと同じくらい能天気だな」
「え、そうです………か?」
あれも大概能天気だが、しかし。人を食うこともある存在を前にして物怖じもせずに会話を続けるなど余程何も考えていない証拠だろう。
こんな調子で子を産めるのか、こいつ。出産は当然のように面倒なものなのだ。
………そもそも、この人間は何歳くらいなんだ?私には人の年齢というものが判別できないが、それでも相当若く見える。そうだな、少女と言い張れば好事家の悪龍は食すだろう。
そんな風にして呆れていると、女が私の目を覗き込んできた。
「スイレンさんスイレンさん。出産って………痛いですか?」
「何故私に聞く」
「マツリさんがスイレンさんは出産経験があるからついて来てもらったって言ってたので。もしよければ、教えていただけると嬉しいです………魔法使い様が付いていても、怖いものは怖いですから」
右手が柔らかく、腹の上に載せられた。女の目の中にあるのは、生まれてくる子への期待と不安、慈しみと愛情、そして少々の恐怖感か。
かつて、私もあの子に対して向けていたであろう、母親の視線だ。
どろりとした感触が心の奥底に垂れていく。黒く澱んだ、粘ついた液体が溜まって溜まって、私を染めていく。
私の大事な子を奪った人間に対しての憎悪が際限なく増殖していく。ああ、羨ましい、何よりも妬ましい―――私からは奪うのに、お前は手に入れるのか。
「スイレンさん?」
「………なんだ」
「いえ、あの。………いいえ、大丈夫ですか?ちょっと、辛そうなお顔です」
「辛い?私が?」
「はい、とっても。あ、そうです、少し頭をお借りしてもいいですか?」
「………首を取れと?」
「そ、そういう意味ではないです………え。取れるんですか?」
「やろうと思えば」
「妖精さんってすごいんですねぇ」
首の取れたものに変身すればいいだけである。特に難しい事ではない。
まあもちろん、今の状態で首を刈り取られれば流石に痛いが。だが、マツリと同じでそれだけで即死するわけでは無いだろう。
多少、魔力や肉体能力に制限が掛かるだけだ。さらに追加でそこから殺されでもしない限りは、私たちのようなこちら側でも強力な部類の存在は消滅しない。
問答無用で幻想の果てにいるモノを消せるのは、千の夜を降ろす魔女のみである。
「そういうわけではなく。ええっと………私の前に膝立ちになってもらえますか」
手で示された場所に移動して言われた通りに膝立ちになる。
マツリにはこの女に何かがあったのであれば知らせろと言われただけで、本来ならば特に従うこの言葉に理由はないのだがなんとなく、そう。
―――気が向いたのだ。我らに相応しくな。きっと、それだけのこと。
「こうか」
「はい!では、頭を失礼しますね………」
両手が私の頭に回され、優しく膨らんだ腹の上に置かれた。
なんだ、この状況は。私は何をされているのだ。何故人間の妊婦の腹の上に頭を置かれている、意味が理解できない。何の理由があってこのようなことをする。
拒否して動こうと思ったが、この腹の下には子がいる。となれば、不用意に動くことは出来ない。
「落ち着きませんか、これ。よく私も、辛いときにはお母さんにこうしてもらったんです………問題がこれで消えてなくなるわけじゃないですけど、それでも立ち向かう気力は湧いてくると思うんです」
「よく、わからないが」
「ふふ。―――心音に耳を傾けてください。体温を感じてください。とくん、とくんと聞こえませんか?仄かな温かさが伝わりませんか?」
「………それなら、分かる」
「ずっと、そっと。そのままの状態で、目を閉じてください」
「………ああ」
鼓動は、二つ聞こえた。
女のものと、もう一つは子供のものか。二つの心音は重なり、同じリズムで振動を伝わせる。
触れている頬から段々と身体の奥に熱が広がっていく。マツリの姿をまねただけの肉体でも、それは変わらずにじんわりと温められていく。
女………ナウィルの手が、私の髪を撫でた。
「多分、スイレンさんの方が年上なんでしょうけれど、それでも。辛い人は放っておけませんから」
「そうか。そう、か」
そういう思考回路になるあたり、お前は本当にマツリに似ているな。
あいつも、困っているモノは何でも手を伸ばしてしまう質だ。その結果として自身が辛い目にあっても何も気にせずに、笑顔を向ける。
例えば、今回の私のように。傷を負わせても「仕方ない」と笑って、また懲りずに手を伸ばすのだ。
………馬鹿な者たちだ。人間とは、本当に馬鹿な生き物だ。
そう思う、その度に。心の奥にあった黒い油のような液体はどこかへと消えていった。
ああ、どうにも人間というものは様々なものがいるな。悪いモノ、汚いモノ―――可憐なモノ、優しいモノ。
馬鹿なモノ、愚かなモノ、ふわりと心の中に触れてくるモノ。
何が正しい人なのか、私にはもうわからない。あまりにも、姿の奥の心が読めない。見極めるのも。疲れてしまった。
良き人、悪しき人………よく在ろうとする人、悪に落ちてく人。すぐに裏返り、反転し、時に浮かび上がるお前たち。人とは、なんだ。分からない―――分からない、が。
「………子を産むことだけは………助けてやる………だから」
「はい」
「もう少しだけ、こうしていてくれ………」
―――今度、マツリにもやらせよう。
あいつならばきっと喜んでやってくれるはずだ。あいつは全ての存在に対して、甘いからな………。
瞼は重く、もう上がらない。流石に腹の上には眠れない、少しだけ身体を倒して、ナウィルの座る椅子に寄り添う形で腰を下ろす。
ナウィルから離れても、伝わった熱はまだ、私の中にじんわりと灯されていた。