月夜を歩く
水蓮の深い記憶をいつまでも覗いているのも、やっぱり悪いからね。
二人の水棲馬は美しいまま湖上にある。うっすらと水面に波紋を落とし、小さな仔馬は水蓮を追っていく。
これはあくまでも記憶だ。既に変えられない過去であり、あの死神が異常なだけで本来は干渉できず、干渉してくることもないものなのだ。
だからこれから起こるであろう人間を憎む原因になった悲劇に対しても俺は何もできない。それは分かってはいるんだ。
………でも、これが何にも変わらないというのであったとしてもせめて。この幻想の中だけは美しく幸せなまま彼らにはいてほしいから。故に、俺は魔法を編むのだ。
「『育てや育て 大きな葉と根をめいいっぱい 葉の香煙り 夢を見て』」
セイヨウトウキ。アンゼリカとも呼ばれるハーブの香りが水蓮の夢の中を漂う。
この葉の煙には幻覚を見せる効果がある。せめて、眠りの中だけは良い夢を見てほしいからね。おやすみ、水蓮。
また目覚めたら頑張ろう。君の傷を癒し、呪いの全てを解くまで。
ああ、でも。俺も少しだけ休みたいな。流石にちょっと疲れてしまったから。目を閉じて、それと同時に俺の身体は霧になって消えたのだった。
***
「………おはよう、水蓮」
不機嫌そうに顔を背けるのは人間の形態をとった水蓮だった。
相変わらず水蓮の人間体は、俺の身体を成長させたかのようなものだった。きちんと成熟した女性の身体である水蓮は、大人の美しさを持っていてちょっと羨ましい。
俺はそこまで成長できないからなあ。魔法で幻影を見せたりちょっと変身したりすれば見かけだけはそうできるけど結局内面が追いつかないのだ。
見かけと精神が見合っていないと外から見られた場合違和感を大きく感じるので、魔法としてもよくはない。何かを欺くためにそういった魔法を使うのであれば下策も下策だ。
演技の天才でもない限りは魔法を使用してすら、人を外見だけで完璧に欺くことはできないのである。
「そろそろこれを解け。いつまでたっても動けない」
「だぁーめ。ふふん水蓮。仕方ないからちょっと荒治療だよ。それまでそのウィローは解かない」
まあ流石に動きにくいのは事実なので、細工はしておくけれどね。
指先でウィローの樹を軽く弾いて、魔法の形を変える。物質を為していたそれはその性質はそのままに、魔的な拘束力だけを持つ霧の縄へと変じた。
「と。動けるようにはするけど、あんまり離れ過ぎたらだめだよ?」
「知らぬ、断る」
「ちなみに離れすぎると俺が死にます」
「………お前やはり馬鹿だな?」
ええまあ、否定はしませんよー。でも打算とかもしているし、馬鹿なだけではない。筈、だけど、まあ多分?
ちょっと曖昧になってしまった。実際元の頭がいいわけでは無いし、俺自身が馬鹿なのは確実に正解なんですけどね。
溜息を吐いた水蓮はそのまま、ほぼ全裸のまま寝ころび続けている俺の横で、樹に寄りかかった。
俺の場合はまだ動けないだけなのだけれど。地味に身体や精神に負った傷が深くて完全回復まではまだまだ時間が掛かりそうだ。
「私をどうしたいのだ、マツリ」
「うん。一緒に街に行こう。ここが一番の療養地なのは間違いないけど、ここだけでは君の呪いを完全に解くことはできないからね」
「………人間に会えというのか、この私に。お前諸共殺すだけだぞ」
「んー。駄目ならここから離れるだけでいいよ。今の俺はかなり弱ってるからそれだけで殺せる」
いつもの俺ならウィローの死の契りも、自分でかけた魔法であることを加味したとしても、無理やり破ってすら即死することはないだろうけど、肉体的にも精神的にも傷の深い今なら多分呆気なく死ぬ。
どうしても人間に会うのが嫌なら、そうしてくれればいい。
俺の目測違いで水蓮がそういう手段を取るのであれば、まあ―――仕方ないし。
あ、ちなみに即死しないだけで重度の呪いのようなものにはかかるので放っておけば死にます。その前に解呪を試みるけどね。
「人など醜いだけだ。会いたくもない………」
「本当は好きなのに?」
「黙れ嫌いだ。おいマツリ、お前私の中に入っただろう」
目を細めて睨みつけてくる水蓮はどうやら、寝ている間に俺が何をしていたかを察しているらしい。うーん、ばれてましたか。
普通の人間なら記憶や精神の中に入ったところで気が付かれることはないだろうけれど、水蓮のような力のあるあちらさんとなれば気が付くだろう。
とはいえどこまで見られたのかは分からないし、自身の記憶の中で自由に動き回れるような存在がいるということも知らないだろうけど。
死神については語らないでおこう。水蓮自身はあれに出会ってはいない筈だし………多分、出会っていない、よね?
確証は持てない。水蓮に施されている呪いはあまりにも厄介で厳重なモノだ。他人の過去の記憶として確立されていてすら自在に動ける存在が直接水蓮にかけたとしても、おかしなことはない。
「次入ったら殺す。その身体を食い尽くす。覚えておけ」
そういいながら水蓮の指が俺の頬をつついた。少し痛いです。いや水蓮の指がというわけでは無くて。
ちょっと無理をしたからね、いつもの如く身体が痛いのだ。今回のは少し休めば回復するだろうけど、傷を負ったのが肉体だけではないというのは問題かなあ。
見かけは治っていても本調子とは言い難い。
「ところで水蓮。もうすっかり夜なんだけどさ」
そんな内心の不安はとりあえず心の奥底に仕舞い込んで、空に上がっている月を見ながら水蓮に問いかける。
沐浴しようと思っていたのにね。色々あったせいで、気が付いたらこんな時間だよ。俺たちは結構長い時間眠っていたらしい。
俺は記憶の海に潜っていたし水蓮も暴走のせいで疲れていただろうからある意味これだけの睡眠時間に膨れあがるというのは仕方ないことではあるけれど、はてさて。
人間のお昼寝の最適時間は十五分程度と言われている中で余裕で数時間以上寝てしまった俺たちは………いや、正確には”俺は”だけど………全然眠くないのです。
千夜さんに身体を作り替えられたときは寝ても寝足りなかったけど、あのケースの方が例外。流石に今は覚醒状態なのだ。
「君は寝れる?」
「………本来我らには睡眠は必須ではない」
「でも眠くなれば寝るでしょう?逆に寝たくなければ寝ない。つまり俺たちと同じだよね」
「欲として睡眠を持っている人間と一緒にするな」
ピクシーたちは寝たいときに寝て遊びたいときに遊んでいるけどなあ。
あれはあの子たちが奔放なだけか。元もとピクシーとはそういうあちらさんだ。プーカは行動が人間に近いから何とも言えないかも。
まあ。あれもあれでプーカというあちらさんの特性が影響しているけれどね。近い時と近くない時があるのだ。それはこの世界で暮らしていれば嫌でも知るだろう。
「うーん。あちらさんはこういう時ってどうするの?人間だと本読んだりするけど」
元居た世界だとゲームしたりネットサーフィンしたりするけどね。この世界にはどちらもないので。
「………私たち、は。そうだな。歌を歌ったり、森を駆けたり………」
懐かしそうに月明かりに照らされている木々を見て目を細める水蓮。その記憶は何を見ているのだろう。
あの子供の水棲馬のことだろうか。或いは―――かつて恋をしたという人間だろうか。
どちらにしてもこの仔には懐かしむだけの過去があり、それが出来るだけの心がある。それを黒い泥のような悪意に染まらせてはいけない。
髪の先を手に巻きつけつつ、痛む身体を叱咤して立ち上がる。
うーん膝が痛い!太腿も痛い!けど我慢だ。
座っている水蓮に手を差し伸べて、無理やり立ち上がらせると俺は言った。
「じゃあそうしよう!朝まで歌って踊って森を駆けて、そして日が昇ったら人の街へ行こう!」
「だから私は街には行かないと………」
「むぅぅぅぅ………」
「―――暴走しても知らぬぞ」
「大丈夫、その時は命を懸けて止めるから」
でも今の君はきっと暴走なんてしないよ。人を食うことをやめたあちらさんである水蓮は、本当は優しい仔なのだから。
この世界でも変わらず、月の兎が見守る夜空の下を一人の魔法使いとあちらさんがゆるりと歩く。
黒いローブを靡かせながら。白い髪を風に揺らしながら。
二人の歌声が森全体に子守唄のように響き、その様子を他のあちらさん達が覗きに来る。
ピクシーたちが輪を描いて踊りだし、地面の草花も弧を描く。静かな優しい、月夜の宴。
まだまだ解決するべきことはたくさんあるけれど、この時間を大切にするのは正しいことだから。ああ、でも。いつの間にか集まっている彼らを見て水蓮自身は嫌そうだったのはご愛嬌。
仕方ないよ、君の歌声は素晴らしいのだから。
………月下の元、湖上で舞い。そうして夜は明けていく。