水蓮の記憶
「そっかー。でも、僕はお母さんの傍にずっといるからね。安心して!」
「………ああ。私もお前の傍にいよう。お前が一人で生きていくその日まで」
湖上で二人の水棲馬は身体を寄せ合う。
確かな親子の形が、そこにはあった。
………ああ、なんとも―――嫌な臭いがするなぁ。
美しいその形を穢す匂いだ。悲しみと呪いに塗れた、残酷な運命を形作るそれ。
「………ッく、そ!!」
口の中だけでそう吐き捨てたのは、水棲馬達を樹の影から狙う、外套を頭からすっぽりと被った男であった。
震える手で構えているのは、鉄の鉛玉を撃ちだす近代兵器。そう、銃だ。
とはいえ、俺の知っているものからすれば骨董品もいいところの古銃。装填数は一発だけで、撃ったらその都度弾を込めないといけない。
そんな鉄の塊の中に、どろりと鼻に纏わりつくヘドロのような匂いが籠められていた。
呪いだ。あれこそが水蓮を蝕んでいる呪いそのものなのだ。
「おや。誰か私を見ているな?」
「うん。まあね」
男は手を震わせ、水蓮とその子供を見て涙を零していた。
当然、声など発してはいない。水蓮という強い力を持つあちらさんを前にして、魔術という恩恵があれど声など出せば即座にその姿を認識されてしまうから。
ではこの声を発したのは誰か。
―――それは、男の背に張り付く、死神のようなそれだった。
「見て分かったよ。彼に………彼自身には水蓮とその子を殺すような力も理由も、定めも本来はなかった。でも、それを歪めたものがいる」
「ふむ、そこか。やれやれ、どんな魔法使いかは知らないが、こんなところまで覗きに来るとは命知らずもいたものだ」
「俺は俺が接した人たちに幸せが訪れるなら、自分の命なんてわりとどうでもいいからね」
死神は男を囲む。瘴気のような黒い霧で。
姿を正確に認識することはできない。こいつもまた、過去の亡霊だから。
………過去の亡霊なのに、魔法で過去を覗いている俺と会話をしているという時点で相当なバケモノであるんだけどね。
「無理だ………俺には無理だ、ごめん………ごめん、イエーシュ………」
「やれやれ、意気地なしめ。そのままでは娘が死ぬぞ?」
「―――お前」
結局、銃を降ろした男は脱兎のごとく、泉から離れていった。
その時、死神は黒い手で男の頭を包みながら、そう呟いた。
なるほどそういう事。妖精の心臓は不治の病すら治すという妙薬になると信じられている。それが強力なあちらさんであるのであれば尚更に。
実際そんな効果があるのかは置いておくとして、これでやっと、どうして魔術師が水蓮の子供を狙ったのかが理解できた。
「駄目だな、やはりあいつは無能だ。それ故に使えるのだが。さて」
霧の身体を通り抜けて逃げた男を追いかけず、死神は俺を見る。
いや、困ったなー。ものすごい圧力だ。過去に染みついているだけの亡霊なのに、ここまで力があるとはね。
「次は蛮勇を示した魔法使いに、その道のりの結果を授けなければならないだろう」
「結果かぁ。どんな結果を授けてくれるのかな?」
「なに、君が認識する必要はない―――なにせ、もう目覚めることはないのだから」
死神の手が俺の額を叩いた。優しく、けれど致命的に。
額から流し込まれた黒色の呪いは俺の体中を巡って、廻ってそして爆ぜる。
身体の内側から、血管という全身に存在する管から黒い霧が噴出した。
「い………ッ?!」
「正直驚いたよ。ここまで深い過去にまで潜り込める魔法使いがいるとはね。あの妖精の奥底に立ち入るのは骨が折れるだろう」
「―――………」
「早めに殺せてよかった。万が一障害にでもなれば困るからね。あの愚かな妖精には、存分に世界を呪う怪物になってもらわなければ困るのだ」
霧は柱となり、記憶の中の地面へと突き立って俺を張り付けにした。
やれやれってやつだね、外側の身体もボロボロなのに精神体も傷だらけにされてしまったよ。
血が口から零れて地面へと落下する。しかし、この記憶の中には本来存在しない俺の一部はそこに引っかかることはなく、どこかへと消えていった。
そんな俺を見ると、死神は満足そうに頷いて走っていった男を追おうとした。どこ行くんだ、お前。
俺はまだまだ話をしたいんだけど。
「………二重の呪い」
ぴたりと、死神の歩みが止まる。
「あの魔術師には、二つの呪いがかけられている。説明はいるかな?」
「なるほど、言ってみたまえ」
答え合わせをしてあげよう、といった感じかな?
本物ではなく、写し身でしかないのに何とも生者らしい存在だ、まったく。
「一つ。それは魔法的な呪いだ。恐らくお前があの魔術師の娘にかけた、死へ向かう呪い」
魔術師の纏う匂いには、銃から発せられる幾つかの匂いや魔術師そのものが持つ匂いの他に、消毒液などが混ざった病人の匂いと、そして―――この死神と似た、錆のような匂いが存在していた。
流石に俺も魔法使いだからね、普通の病気と魔法の病気の差は認識できる。魔術師や稀に普通の魔法使いも見過ごすだろう、或いは医者にとってはそうもいかないものだけれど。
「なるほど、正解だ」
「そしてもう一つは………っぐ」
血が喉まで上がってきたので、遠慮なくぺっと吐くと話を再開する。
「言葉による呪い。魔法でも魔術でもなく、心の隙間を狙った話術による行動と手段の強制。つまり、ただの悪意ってやつだね。お前は、それでしょう。ねぇ―――”悪意の塊”?」
「魔法使いならば、魔術師ならば神秘しか見ないと思ったが。ほう。その答えに辿りつくとは驚いた」
いや別に何にも凄いことじゃないけどね。シルラーズさんとかならもっと早く、それこそ一瞬で気が付いていたと思うよ。
「あの男の、そして水蓮の運命を明確に歪ませた………うん。俺はお前を許さないよ、絶対に」
男もまた被害者だ。水蓮を攻撃するように、子を殺すようにと強制されたのだから。
だから、故に。
俺は死神に対してにっこりと笑いかけて。
「いつか、お前の本体を滅ぼそう。それが世界のためになるなら、より幸せになるのなら」
探偵の祖。最も有名なるかの解き明かす者、シャーロック・ホームズは小説の中でジェームズ・モリアーティー教授に対し、”君を確実に破滅させることが出来るならば、公共の利益の為に僕は喜んで死を受け入れよう”といったけれど、俺にとってこの死神は………いや、死神の元となった何者かはそういった存在であるらしい。
「お前の振りまく悪意を全て正し、救う。そして、いつかお前を滅ぼす。まあ、さ。写し身でしかない君に言っても無意味なんだけれど―――せいぜい、覚えておくといいよ?」
なんでそんな存在なのかは、多分………俺の身体が関係しているのだと思う。
つまるところ、この死神は千夜さんの関係者ってことだ。うん、当然半分が千夜の魔女の身体である俺にとっては他人事と割り切ることなんて端から出来ないわけである。
「それは楽しみだが、そのためにまずは君が………お前が生きて帰れればの話になるだろう?まあ、せいぜい祈っておこうか、頑張るが良い」
霧の身体を揺らし、死神は今度こそ記憶の中の男を追って消えていく。
水蓮の精神を辿る綱としてここに降りてきた俺はその背中を追いかけることはできない。残念だけれど見送るだけだ。
まあ、仮に追える環境にあったとしても、精神体へのダメージが大きいので追跡して数分で倒れ込むだろうけどね。
あの残滓にすら一矢を報いることも出来なかったのは残念だけど、心技体のうち精神と肉体の二つが傷ついているので仕方ないだろう。
うん。本当はこんな事を言っていても攻撃なんてしたくないんだけどね。敵対とかあほらしいのですよ。
それでも必要な時もあるのが、この世界のちょっとだけ面倒くさいところだ。
………では、呪いの詳細なども分かったところで、そろそろ戻るとしましょうか。