帰還と水棲馬の夢
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水しぶきが上がる音が聞こえる。
飛び散った水の雫は球状になって散らばり、再び泉の中へと沈んでいく。しかし、沈んでいった先の泉は少しだけ、赤い色に染まっていた。
一番最初の起点となった泉へと戻ってこれたらしい。まあ、体中がボロボロで血まみれで、酷いものなんだけどね。
また双子やシルラーズさんには怒られそうだなぁ。
「それよりも………ここからあがらないと………」
残念だけれど、俺の意識ももう長くは持たない。
気絶する前に水蓮を岸へと拠点へと運ばないといけないのである。
今度は流石に、逃げないようにちょっとしたおまじないを掛けないとダメそうですけどね。
やりたくはないけど、意識がないうちにどこかへと消えてしまっては困るから。俺もだけれど、水蓮も重症なのだ。
これ以上傷を増やさせるわけにはいかない。
「ぅ………ふ、う」
棘のようなものが身体に刺さるのは初めてではないから、まだ耐えられるけど………痛いのに変わりはないんだよね。
これはまた、治るのに時間がかかりそうだ。
水の底をゆっくりと歩いて、まずは俺が外へ上がると杖を弱々しく地面へ当てる。
本来の美しい姿へと戻った水蓮を、魔法によって生み出された水蒸気が優しく包み込み、水上から身体を浮かび上がらせた。
アハ・イシカともなれば水面なんてベッドのようなものだろうけど、あのままでは魔法使いとはいえ人間である俺が何もできないからね。
彼女にとっては、一番安らぐのは泉の上だろうけれど、今回は我慢してもらおう。
「服は、あとでで、いいかな」
どうせ今着ても血だらけになってしまうだけだから。
帽子だけ摘まんで頭に被せると、自分の足と杖の合計三足で滞在地へと向かう。痴女丸出しみたいな格好だけど仕方ない。
いや、痴女と思われる前にまずは重症患者として扱われるか。
或いは殺人事件の関係者か………とにかく、現代だったら警察沙汰になることは変わりないね。
「………やっぱり、俺の血はちょっと、変わってるんだなぁ………」
鉛の入ったような重い足を引きずっている最中、後ろを振り向くと俺の血が垂れたところから草花が生えていた。
魔法によるものではないし、普段の俺ならこんな事もないだろう。
生命力というか、高密度の魔力の塊である俺の血液が、意識が朦朧としているせいでまともにに制御できていないため、こういった現象が起こっているのである。
あちらさんの中にも移動するだけで緑を増やす力がある子がいるけれど、それと同じだ。
俺の場合は普段、魔力をばら撒くといろんな方面に迷惑をかけるので抑えているんだけど、今は無理………うん、本当に森の中でよかったと思う。
「暫くは森が随分と元気になるかもしれないけどね………」
なにせ泉にも血が随分と流れてしまったし―――と、さて。
なんとか意識が消えてしまう前に辿りつくことができた。実は何か思考を巡らせていないとすぐに眠くなってしまいそうだったのだ。
水蓮はまだ意識がない。あれだけの暴走をした後だ、魔力も随分と消費しただろうし精神的にも大きな疲労が溜まっている筈。
いくら膨大な魔力を生み出すことのできるあちらさんでも、限界というものはある。
千夜の魔女のように、本当に無限の魔力を生み出せるというわけでは無い。
真っ赤な己の手で、水蓮の横顔を撫でる。
「まず、謝っておくね。………君の中へと立ち入ることを」
目は醒めていないから返事は聞けないけれど、それだけは最初に謝っておく。
どうやら、この呪いはただ正道の手段で治すというわけにはいかないようだからね。
胸元に手をやる。
傷痕は、塞がり始めていた。流石は半分人外の身体だ、千夜さんに感謝である。………でも、中身までは治っていない。
見た目だけを取り繕っているだけで、内臓とかはスカスカのボロボロのままなのである。
張りぼてというか、見掛け倒しというか。
「張り子の虎、かなぁ」
中身がない、という所とか特に。
「………は、ぁ。ちょっと、眠るかなぁ」
どうも最近、独り言が多い気がしてならない。元から発するタイプではあったけど。
指先に付着した血を使って、魔法を使う。
血液は先ほどと同じく煙霧を生み出し、それはクローブの苗を形作った。
色だけは赤い血の色のその苗は、瞬く間に成長して、俺と水蓮を包み込む巨大な樹へと変容する。
この樹木は百里香と呼ばれるほどの強い香りを持っていて、そしてその香りは………家族を亡くした人への慰めになると信じられていた。
せめて今だけは、安らいだ気持ちでいることができるように、この樹を残す。
そして、もう一つ。
俺と水蓮の足をその根で結んで、ウィローの樹が生えた。
セイヨウシロヤナギ。和名ではそう呼ばれるこの樹木は、死との結びつきが非常に強い物なのだ。
例えば。イギリスの湿地帯、或いは泉の近くにある埋葬塚は、必ずこのウィローに覆われているという。それだけ、死の象徴として扱われてきたのだ。
まあ、呪いとしては別の使用法もたくさんあるけれど、ね。
そして、もう一つだけ謝らないといけない。
ごめんね、水蓮。君の善意を利用する形になってしまって。
「命を、結んだ………死によってしか、別れない………」
俺が魔法を解除するまで、この魔法は俺たち二人の命を結ぶ。
―――まあ、無理やり剥がせば俺が死ぬだけなんだけど、きっと優しい水蓮はそれをしないから。
だから、ごめんね。
森の香りを含んだ風が頬を撫でていく。二つの樹木に見守られた中で、俺と一人のあちらさんは暫しの眠りに落ちていったのであった。
***
「―――!今日はどこへ行くの?」
「さて。どこへ行こうか」
「人は食わないの?」
「私は遥か昔に人を食うのはやめたのだ」
「そうなんだ。美味しくないの?」
「基本的にはおいしいさ。だが………まあ、昔―――人間に恋をした。それからどうも食べれない」
目に映るのは、二人の美しい白の水棲馬。
俺の身体がある場所とは全然違う、大きな泉が特徴的なその場所。
森の香りも妖精の森とは多少差があるようだ。妖精の森は古い、人の手の入っていない香りがするけれど、こちらは多少人間の手が入っているようであった。
伐採などの人間的活動が多少存在するのだろう。
樹木の採取は人間にとって必ず必要な物。何かの建造物を作るのにも、ただ生きていくだけでも樹は必ず使うのだ。
寧ろ、まったく人間の手が入らない妖精の森や翠蓋の森の方がおかしいのである。
「ふむ、また人間が入ってきたか。相も変わらず、森を削るのが好きなことだ」
「………僕たちは人間と一緒には暮らさないの?」
「ああ。我らは力が強い。何より、人と共存する理がない。楽しくもない」
「昔、恋をしたって言ってたのに………あいたっ!?」
小さい水棲馬が、大きい大人の水棲馬―――水蓮に小突かれていた。
これは、彼女の記憶。
彼女が幸せであった頃の記憶。即ち、子と共に在れた時の思い出。
誰かの思い出に入り込むのはこれまた初めてではないけど、あれはあくまでもオネイルズがシェーンを助けるために見せたものであり、俺が自分から潜り込んだわけでは無かった。
でも、今回は俺が俺自身の意思で潜り込んだもの。
………君の奥底を知りたいから。知らないと、何もできないから。
それにしても、そうか。水蓮、君は人間に恋をしたことがあるんだね。
人間の姿になるのが巧かったけれど、あれは初めてではないからなのだろう。
水蓮の場合は、恋は恋のまま終わってしまったようだけれど。
「昔のことだ。所詮は人間、我らとは生きる時間が違う」
その目には少しだけ寂しさが宿っているようだった。
小さな水棲馬はそんな水蓮を不思議そうに眺めていた。
あちらさんの子供―――うーん。そもそも、彼らの生活というか、命の連鎖は謎が多い。
そもそもが存在そのものが普通の生物との違いが多く、彼らと近いところにいる魔法使いですら深くは知らないこともたくさんある。
命の次元も在り方も違うから、星の生物が普通に行うような行為だけで子を為すわけでは無いのだ。
例えば、取り換え児。
人間の子供をあちらさんが取り換えて、それに親が気が付かなければあちらさんがそのまま育ててしまうというもの………これもまた、あちらさんの子供と言えるだろう。
彼の場所、妖精の国で幼少期から育てられれば人間とは違う存在として成立してしまう。まあ、それは正確にはあちらさんでもないからそうなってしまった人には別の苦難が迫るのだけれど。そして取り残され、人間として育ってしまったあちらさんにもまた同じように。
ピクシー達なんかは、洗礼を受けずに死した子供の魂が変じたものだから、自然より生まれる。
急にふわりと生まれるのだ。あの子達の中でも長く生きたものは深い知性と強い力を得るけれど、そうなっても番いを持つことはない。
じゃあ、水蓮のようなアハ・イシカやプーカはというと、彼らはどんな手段でも子を為せるのだ。
番いを持つことも、自然の力を胎の中へと宿して産むのも、取り換え児を作ることもできる。
人間と交わった場合だけはあちらさんではなく半分人間の存在が生まれるけれど、それ以外では様々な手段をとることができるのだ。
番いがいなくても、自然を夫として、或いは妻として己の愛すべき子を産み落とす―――手段はどうであれ、産んだ子は彼らにとって間違いなく愛の対象だ。