黒い雨を纏う者
「開け」
杖に座りながら、片腕を前へ出す。
俺の発した言葉によって、煙霧が立ち上り円環を描く。
俺の門はいつもこの形だ。それというのも、この円というのが結局一番扱いやすい形というのが大きな理由であったりする。
円とは循環を意味し、魔力を均等に同じ速度で奔らせることができる―――それは継続的に魔法を行使し続けなければいけない門の作成にはもってこいのものなのだ。
だから水蓮が泉に開けたものも円形をしているし、一番有名な妖精の通り道なんかも草の根は円を描いている。
………もともと円形には力が宿ると考えられていたのもあるし。
ソロモン王の魔術なんかでも、円を基本として他に図形を加えることで悪魔の召喚をするから。
「―――………」
泉を潜る瞬間、水蓮が流し目で俺を見ていた。そして、彼女は門へと飛び込んでいってしまった。
「まだ妨害魔法を展開したままか。あれは無理だなぁ」
やはり自前で門を作っておいて正解だった。今から水蓮の門に飛び込もうとしても、もう追いつけないほどに離されてしまうだろう。
しかし、だよ。俺は後手に回った状態でさらに先回りをしなくてはならない。
………ならば門だけでは足りないというものだよね?
あくまでも門は移動手段でしかない。魔法の腕は俺の方が若干だけれど、一日の長があるけれど、まあ似たようなものだ。
一番簡単で、尚且つ単純な手段である、このアイブライトの魔法で水蓮の姿を追ってそこに飛ぶ、なんてことをしていては間に合わない。
本当は良くないけれど背に腹は代えられないからね―――未来を見させてもらうよ。
「『性愛の神、三日月の菓子。響く陽気な足音は、決して愚者には非ずなり!』」
………体を覆うトリスケルの紋様が、度重なる魔法の行使により面積を増す。
元々、高度に未来を見る魔法というのは負荷が多い。占い師の水晶玉の魔術よりもずっとずっと、ね。
あの場合は道具を使用していることによって負荷を軽減しているのもあるし、そもそもが俺の場合は魔法使いとしても肉体が変だから、普通の魔法使いよりも多くの魔法が使える代わりに身体に反動が大きくかかるというのもある。
そもそも千夜の魔女の身体とは言え、別に肉体としてとても強いわけでは無い。結局はもとからあった、俺の男の身体を改変したものだし。
再生能力は高いし、魔力すら生み出すし、頭の中には”魔女の知識”があるため人間離れしているのは確かだけど、風邪だってひくし傷だって負う。死ななければ大抵の傷は治るが、殺されれば死ぬのだ。
だからといって、どれもこれも俺が足を止める理由にはならないんだけどね。我ながら困った性格である。
「―――見つけた、水蓮」
唱えたるはサフランの魔法。
古代フェニキアからペルシャに至るまで幅広く使われていたこの薬草は、煎じ薬を飲むと未来を予測できるようになるという。
他にも安産祈願やら風起こしの魔法やら使い道は無数にあるけどね。ただしサフランの食べ過ぎにはご用心。
なにせこれを食べ過ぎれば浮かれも過ぎて死んでしまうからね。
………門である煙霧の輪に入り、空間を跳躍する。
未だ発動しているアイブライトの魔法により、俺の目は妖精の通り道の中にいても現実世界を目視することが可能だ。
また先ほどの泉から大きく離れた、地面の窪みにたまった小さな小さな水溜。水蓮の門はそこに開いた。
「………なにっ!?」
「やあ、水蓮」
そして、俺の門はその水蓮の門の真上に開いていた。
「未来視………いや、未来予測か!」
「その通り!未来を直接見るよりは、未来を理解する方がまだ自然だからねっ」
「どちらも同じことだろう!!」
水掻きの蹄が、地面を叩く。
ぴしゃり………水もないところで、そんな音が響いた。確かに水はないさ。物質的な水はね。
お尻の下の杖を一旦手に持つと、空中でくるりと回した。
杖から溢れた煙霧が形を変え、そして色すら変えて現実にタイムの枝を作り出す―――俺のタイムは、巻き付くようにして見えない水を縛り付けていた。
「やっぱり傷のせいで弱ってるね、水蓮」
「―――ッ!!!!」
人間の言葉では理解できない鳴き声が発せられた。空気が焦げる匂いが微かに俺の鼻を掠める。
それに気が付いて空を見上げれば、空を水の飛沫が覆っていた。
その飛沫は徐々に黒色となり、綿あめのような形へと変わってやがて雷雲を作り出す。
………水を使った魔法は水蓮たちアハ・イシカは得意だけれど、まさか雷まで扱うとはね。
ちなみに、知っての通り雷の速度は音より早い。普通の人間には躱すことすらできないものだ。いや、躱す気は最初からないんだけれど。
空気の焦げる匂いとは別に、何かが灼ける匂いがする。
「墜ちろ!」
音を置き去りにした落雷は、俺へと一直線に向かって、そして―――俺の身体を焼くことはなく、呆気なく逸れて地面へと消えていった。
「シスルの煙!?」
「………ふふ」
水蓮がネタ晴らしをしてくれたから早々に説明すると、オオアザミ科の植物であるシスルは、暖炉の火の中に放り込むと落雷から身を守ってくれるという逸話があるのだ。
これはその魔法というわけです。
「さあ、大人しくしなさい!」
タイムの枝の煙霧を生み出しながら、俺は水蓮に近づく。これ以上は水蓮の身体のためにもどこにも行かせない。
彼女のお腹に巻かれた包帯は既に意味を為しておらず、真っ赤な鮮血が壊れた蛇口のように流れ出していた。
実際、早く治さないと命にかかわる。それが分かっているため、割と今の俺は焦っているのである。
こうして魔法を惜しげもなく使用する程には、ね。
「く………煩い、煩い煩い!!」
「っ!?だめ、死んじゃうよ!!」
―――癇癪を起したかのように。千切れるような音を発しつつ、水蓮は己の姿を変えた。
白い水棲馬の形から巨大化し、骨のように見える肉体パーツを備え付けた異形へと。
否。異形と表現するには、まだ彼女は美しいままであった。
確かに人間の記す美しさからは逸脱しているのだろう、しかし自然のありのままを示す今の水蓮の姿は、遥か数千年の間生き続けた老古木のような、形状の複雑さと、壮大さを纏っていた。
しかし、その骨の下の腹からはまだ、血が滴っている………!
「邪魔をするなアアアア!!!!!」
「………!!!」
黒い雨が俺の身体を叩いた。
―――肌が灼ける。ローブ以外纏っていないのが災いして、全身にその呪いの雨を受けることになった。
「これ、は」
「何もするな、マツリ―――でないと、私はお前を………」
”殺すだろう”、と。
そう言い残して、水蓮はもう一度吼えると、黒い水によって円を描き始めた。
俺と同じような形状の門を開くつもりだ。しかし今の君の状態は、その姿を取っていられるほどのものじゃないだろうに。
本当に死ぬつもりなのかい、水蓮………?
―――あちらさんたちは、自在に姿を変えることができるのは周知の事実だ。水蓮がそうしたように。プーカが、そうできたように。
そんな数多くの姿を持つあちらさんは、時と場合によってその形が変わることがある。
それは己の意思によるものであったり時には月光など、自然のものや人間の行動が引き金となるものもあるのだが、水蓮の場合は能動的に、本当の姿へと戻ったのである。
本来の姿ではなく、本当の姿だ。或いは、戦闘形態と言い換えてもいいかもしれない。ようは、あちらさんにとって最も魔法を扱いやすく、動きやすい一番強い身体の形というやつだ。
あちらさんの誰しもがそういった姿を持っているわけじゃないけれど、古くから生きる強いあちらさんというのは大体がそのような姿を持っている。
でも、当然のこととして身体の深くに呪いを負った状態でそんな姿を取れば、俺の身体と同じようにとんでもない負担がかかるのだ。
一度俺を睨みつけた水蓮は、自らが生み出した黒い水の門を潜ってどこかへと飛んで行ってしまった。
………あのねぇ、水蓮。
君を治すという仕事を完遂すると決めた俺が、そんな言葉だけでこの歩みを止めるわけがないだろうに。
杖で地面を叩き、生じた煙は菩提樹の樹木を作り出した。呪いの雨を、守護と不死の樹である菩提樹に受け止めてもらうと、俺は暴走に近い形で飛び出していったあの仔の未来を予測する。
「ああ、ちょっと見てはいけないところまで見ちゃったかも」
けれどまあ、仕方ないでしょう。
痛む覚悟だけはしておかないと、と。それだけ考えて、もう一度だけ門を開いた。
追いかけるために開くのはこれで最後だ。だって、次に開くときは帰るために開くからね。
苦みの強い黒い雨を舐め取って、息を整えて。
………よし。さて、じゃあもう一度―――行きますか!