波乱の沐浴
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「水蓮ー?行くよー、ほら。身体起こして。手伝うからさ」
「いらぬ。触るな………触るなと言っているだろうが、おい撫でるな顔を擦り付けるな」
いえ、お馬さんの時もそれはそれで触り心地がよかったけれど、人の形態もとても柔らかい肌をしていたもので………。
髪からもいい香りが漂っている。別に直前までお風呂に入っていたわけではない………お風呂は今から入る………ので、単純にこの香りは水蓮自身が発しているものなのだろう。
森の香り、泉の香り、小川の香り。
複数集まった自然の芳香は人間の懐かしい部分を刺激する。もともと嗅覚は人間の脳が持つ古い記憶に強く働きかける特徴を持っているけれど、自然の香りとなればその効果も非常に高いものだろう。
難点は、自然環境によって生み出されている香りであるために、持ち運んだり香水として配ることができないという点だろうか。
だからこそ森林浴なんていうものがあるわけなんだけれど。
………この世界にもあるのかな、森林浴。ないなら是非とも推奨したい。ああ、でもあちらさんとの兼ね合いもあるか。
皆が、普通の人間が入ることを許すかどうかである。妖精の森に、というのは難しいかもしれないね。
普通の森なら或いは―――。
「離れろ、いいな?離れろ」
「痛い痛い、ごめんほっぺつねらないで………」
そんなことを考えていたら、細い指が俺の頬が両方から摘ままれていました、痛い。
むにーっと伸びる感触を若干気に入ったらしく、水蓮は数分の間引っ張ったり、潰したりを繰り返していました。痛い。
ようやく解放されると、頬が熱を持っていた。うん、これは別に照れているとかじゃなくて普通に痛みによるものである。
腫れるまでとはいかないにせよ、少しのぼせている、或いはお酒に酔っているような状態になっているんじゃないかな。
「じゃ、行こうか。泉の場所まで案内するよ」
「………匂いで分かる」
「おー、流石アハ・イシカ」
本来では湖や泉を住処とする水蓮を始めとしたアハ・イシカは、あちらさん達の中でも特に水に関しての嗅覚が鋭い。
他にも水を好む、或いは水中に暮らすあちらさんはいるけれど………水を探し出すという点ではアハ・イシカが一番だろうね。
彼らは水を介して移動することができる。水は住処であり、通り道であり、狩場であり―――彼らの領域なのだ。
「そういえば、そっちの身体でいいの?元の姿に戻らなくていい?」
「嵩張る。森の中を歩くのであればこれでも問題はない。汚れは等しく落ちる」
「ま、君が言うならいいんだけど………嫌だったら言ってね」
「………ふん」
幻術ではないので、姿を変えても汚れはそのままだ。
それは逆にいえば変身した状態でも体を洗えば、元の姿に戻った際にもきちんと汚れが落ちているというわけである。
あくまでも肉体をそのまま変化させているあちらさんだからこそだね。魔法使いや魔術師たちは毛皮を着たりと、ようは別の姿という服を着ている状態に近い変身方法を取るため、変身した後の姿が汚れても元の姿が汚れない、なんてことも多々あるけれど。
ちなみに、汚れではなく傷を受けた場合は魔術師たちでも同じように傷を負う。当然といえば当然だ。
そんなわけで。雑談、本当に他愛ない話をしながら俺たちは、キャンプ地点から十分ほど歩いた。
方角に表すとすれば、カーヴィラの街とは真反対方向になるかな。
街には妖精の森から流れてくる大きな川があるけれど、ここはその川に繋がる支流の一つ、水源の泉だ。
地面の底までしっかりと見えるほど透き通った泉の地下からは、冷たい水が湧き出している。
「良い水だな」
「でしょう?」
自分のことのように誇ってしまったけれど、流石は妖精の森という意味ですよ。
人の手が入らない古くからある森は、清らかなものは清らかなまま存在する。
あちらさんを始めとした彼らたちがそれとなく、無意識的に手入れをしているのもあるし、リーフちゃんのような樹木の精やスプリガンたちは森を守る一環で環境の整備と維持も行うだろう。
人間がくればあちらさん達は基本的にはどこかへと行ってしまうから、文明が発達する代わりに自然的な維持機能は、通常の星が持つ物程度に戻ってしまう。
星の維持システムも確かに素晴らしいものだけれど、あちらさん達の力に比べれば数段劣るからね。
………んー。というか、リーフちゃんにまだお礼をしに行っていないんだよねぇ。
なかなか機会がないというか。うん。今度無理にでも会いに行こうかな。
とと、それはともかく。
「さーて、服を脱ぎますかー」
帽子を置いて、ローブは近くの木の枝に引っかけておく。杖もその木に一緒に立てかけた。
そして衣服を纏めて脱いで、沖に置くと、冷たい水の中に足をそっと差し込んだ。
「うう、冷たいっ!………あれ、すいれーん。早くこっち来なよー」
「………ああ。………」
意外と深い泉に、おへそあたりまで浸かりながら泉の手前で何かを考え込んでいる水蓮を、片手で手招きする。
もう片方の手には柔らかい木綿の布が。それを手に持っている理由はもちろん彼女を洗うためである。
なので、水蓮が泉に来てくれないと俺は何もできないのだが―――あれ。ちょっと嫌な予感がするぞ?
「ここから………さて」
「あの、水蓮?変なこと考えてないよね、大丈夫だよね?とりあえずこっち来なよー?」
ぴくぴくと、水蓮の鼻が小さく動いているような気がした。
鼻が動くという動作は何を現しているのか、それは同じように鼻が利く俺だからこそよくわかる。あれは匂いを判別しているのだ。
―――先程、自分で思い浮かべたアハ・イシカというあちらさんの特徴を思い出す。
………彼らは、水への嗅覚が非常に鋭く、そして。
そして、水から水へと移動ができる………?
「ちょ、君?!まさかっ!」
魔法使いの感はよく当たるものだ。未熟者とはいえ、千夜の魔女の身体を持っている俺であれば尚更に。水蓮が本格的に行動を始める、その前に身体が動いていたのは運がよかった。
「さらばだ、マツリ。私は私の復讐を為す」
「………もう、このお馬鹿!!」
人の姿を取っていた水蓮の見た目が蜃気楼のように揺らぎ、歪む。
水を含んだ風が水蓮を包むと、人の姿はどこかへと消え失せ、本来の水掻きを持った白馬という姿を俺の目に見せつけた。
………これはまずい、ものすごく。急いで手を伸ばすと、先程立てかけたばかりの杖と、木にぶら下がっているローブを取る―――その瞬間、泉から大きな水しぶきが上がった。
服を着ている暇なんてないよね、これ!というかもうこの水しぶきでびしょ濡れだよもう!
心の中で文句を言いながらも、全裸にローブだけ羽織って、俺は杖にまたがる。
「………ひぅっ?!」
………こほん。うん。ちょっと、あの、失敗した。ものすごく急いで横向きに座りなおすと、渦巻く泉の上空へと飛び立って、
「『片手に黄色の花束一つ、なれば其方は九輪束なる鍵の花』!!」
そう、魔法を唱えた。………これはカウスリップの魔法だ。
和名で表すならば黄花九倫桜と呼ばれるこの植物は、北欧の美の女神にして豊穣をつかさどるフレイヤや、聖ペトロとの逸話がある薬草である。
単純に薬草としても効能があるこのハーブは、魔法的には”鍵の花”と呼ばれることが多いものだ。
その理由は、この花がフレイヤの宝物殿の扉を開ける鍵となっていたからである。ちなみに十字教的見解ではまた逸話が異なり、聖ペトロが天国の門の鍵を誤って地上に落とした際に、そこから生えてきたとされている。
うっかりさんだよね、うん。
と、それはともかく。そういった理由と逸話から、このカウスリップという薬草は宝を探し当てるという力を持っているのである。
今回はその力を借りることにしたよ。なにせ、お転婆でじゃじゃ馬な困った患者が逃げ出してしまったからね!
手を振ると煙霧が輪生する花を生み出し、それが俺の周囲を飛び回る。指を下に向けると、煙霧で作られた鍵の花は閉じようとしている泉の中央の渦を押しとどめ、なんとか俺が通り抜けられる程度の隙間を残した。
「―――待ちなさーーーい!!!」
迷わずその泉へと飛び込んだ。もちろん、当たり前のことです。
ふふふ、君がそのつもりなら俺はどこまでだって追いかけて連れ戻すからね?というか怪我人が何無理しているの?
帰ったらお説教コースだよ、水蓮。
………あられもない姿であるのは自覚しながらも、それよりも大事な彼女のために俺は杖を走らせた。