目覚めたる白き妖精馬
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―――私が目を覚ました時、一番最初に感じたのは懐かしい旧き森の香りだった。
もうこの世にはない原初の森林。星々の黎明期、千夜の魔女が世を喰らいつくす前に存在していた我らの居場所。
楽園と呼ぶ者もいた。特に最も遅き者たち………人間はそう呼んでいることが多かった。
多くの人間はその楽園に足を踏み入れることは出来なかったが、そう。極一部の、人間たちから魔法使いと呼ばれているモノ共だけはその楽園にも入ることができていた。
「………れ?………目、………した………?」
重い瞼を押し開ける。
その楽園の記憶は私にはない。私そのものはその時代に存在していなかった。
しかし、見せてもらったことはある。遥か遠いその記憶を。
「―――おはよう、アハ・イシカ」
その記憶にも在った、滑らかな白髪。それを持つ少女が、優しく母のように目覚めの言葉を発する。私の知っているものとは違い、白い髪に癖があるのが不思議だ。
最も古い魔法使い………いや。違うなこいつは。これはあくまでも似ているだけ、か。
思考が乱雑になっている。何故だ。考えがまとまらない。その理由はこの腹の痛みか。
「ア………ああ」
億劫だが首を起こす。最も古い魔法使い、それに似ているこの人間を一目見なければならない。
「まだ身体は動かさない方がいいよ。一応ここに来てから傷の方は手当てしたけど、その呪いはかなり深い」
「貴様、は?」
「んー。あまり声も出さない方がいいんだけど………」
ようやく焦点の定まってきた目で、声を発した人間を見る。
困ったような表情を浮かべる、美しい少女。否、ただ美しいという言葉だけで表現することなどできようはずもない。
その見目は我らが女王にも匹敵する美貌。最早人間としての美しさの範疇にはないものだ。幻想の少女と言い換えてもいいだろう。
………それは、人間というよりはどちらかといえば我らの方に存在が近い気がするが。
いや、間違いなくこちら側か。しかしどういうことだ、我らの同胞と同じ匂いを発しながら、人間としての匂いも感じる。
ただ人と触れ合ったから身に付いた物以上の匂いだ、普通ならばそんなことはあり得ない。
ん。待て、これは。
根底にある、少女の身体の奥底に何かを見つけた。そして、その瞬間に納得した。
「えっとね、俺はマツリ。まあ、一応魔法使いやってます」
「―――成程。千夜の魔女の肉を持つ人間か。どうりで変わった匂いがしたはずだ」
こいつは元はただの人間であったのだろう。しかし、それが千夜の魔女に呪われ、半身だけ………即ち、魂を残したまま千夜の魔女という殻だけを身に纏うに至った擬き。
それこそがこれの正体だ。
魂は人間であり、肉体は魔女でありそして我らと同質もの。そして在り方は魔法使い―――なんと継ぎ接ぎの人形か。
「え。………え、俺臭いかな?毎日入浴しているんだけど、臭い?え………くさ、い………?」
まあ、そんな継ぎ接ぎではあるが。少なくともただの人間や魔術師よりはまだ良い。
何事か心に衝撃を受けている様子の………何だったか。そう、マツリとやらを放って置き、再び目を閉じる。
傷を癒すために眠らなければ。そして力を蓄え、あの魔術師を殺す。
ドロドロとしたそんな欲望がごく自然に胸の内から湧いて出たが、たいして違和感とも思わずに私は眠ることに専念しようとして、
「うう、またお風呂はいろ………。とと、待ってアハ・イシカ」
首元に添えられた小さな右の手によって、その意識が散らされたのを自覚した。
毛並み越しからでもわかるほど繊細な細い指。
なんの脅威も感じない無手であるのに、何故かどうしようもなく、浮かび上がってきた眠気と―――憎悪が解けていった。
「眠るなら子守歌歌ってあげる。君を治すのが俺の仕事だからね、色々と準備してきたんだ」
無駄に膨れている胸を若干張りつつ、擬きの少女………マツリは背後のテントを指さして笑う。
恐ろしく無邪気に、しかし触れるのが惜しい程綺麗に。
名前の通り茉莉花のような存在だと思った。それと同時に、人とは決定的に感性が違っている場所もあるのだということを理解する。
今このタイミングで初めてまともに見たマツリという少女。
黒く、そして長いローブに変わった形の杖。瞳は翠玉色に光り、背は低いが胸や尻は育っているというその人間の左手は―――真っ赤に濡れていた。
当然それは血液だ。今私の手に触れている右手は白い綺麗な肌のままなのに、左手だけは大量の血液に塗れているのである。
「………眠気なら今醒めた。お前の手のせいでな」
「あ、ごめん。触っちゃったからかな」
「そうだな。ところでその左手は、お前の血か?」
周囲には誰か別の人間の匂いや、他の生物の匂いがない。
ということは、必然的にあの左手を塗れさせている血液はマツリのもので間違いないということだが。
「そうだよ。何のリスクもなく無条件に傷を治すのは難しいからね。俺の血を使ったんだ」
「傷。私の傷か」
「そう。まったく、そんな傷でよく暴れまわったものだよ。下手しなくても死んじゃうような傷だったんだけど?」
説明しながらマツリがローブの袖を捲ると、血によって少々だけが見えている、蔓草のような模様が刻まれたその肌に、真新しい傷跡が一筋、奔っていた。
見た目以上に深く切られているらしい、今も傷口からは新鮮な血液が溢れ出ている。
………その血液は地面へと落ちる瞬間、紅い色をした霧の葉へと変化し、周囲の空間へと舞う。
その赤い霧によって形作られたのはセージの葉。即ち、救世主の異名をとる薬草へと転じ、私の周りをゆっくりと漂っていた。
「どうかな。まだ痛むだろうけれど直りは早い筈だよ。環境も整えてあるし」
「………環境。ここは妖精の森か、成程。魔力が濃いわけだ」
「皆で君をここまで運んだからっていうのもあるけどね」
ぺたりと座るマツリが、そのまま私の傷口に手を伸ばす。
薬草の香りが染みついた包帯は、私の血とマツリの魔法によって傷口部分が真っ赤に変色していた。
痛む腹がマツリの手に触れられた途端、すっと痛みが遠ざかった。手そのものに治癒の力があるわけでもないだろうに、流石は千夜の魔女の肉を持つモノか、体内にて生み出し循環している魔力の量が桁違いである。
―――それは最早呪いにも等しい。後天的になったとすれば、よくもまあそれだけの変質をもたらされておいて自我を正常に保っていられるものだ。
もしかすれば元から少々狂っていたのでは、と頭を過るが、人間の思考回路などどうでもいい事だと思いなおし意識の埒外へとその思考を飛ばす。
そして、優しく私に触れる魔法使いに対してこう告げた。
「私に構うな。魔法使いといえど人間、私にとっては敵でしかない………殺さないという保証はないぞ」
「そっか。んー、俺はまだ死にたくはないけど、でも」
脅したにも拘らず、その幻想的な少女は淡く笑う。
「君を治し、癒すのが俺の仕事だから。殺されてもやり遂げるよ」
「………変わった小娘だ」
「―――んぅ!」
最後の私の言葉に少し頬を膨らませたマツリは、別に変わってないんだけどなぁ、とぼやくと帽子の向きを治して再び笑顔を浮かべ、そして。
「とにかくですよ。これから暫くの間、よろしくね?」
真っ白な手と真っ赤な手、双方を私の方に出し、そんなことを言ったのであった。