美しき水棲馬
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―――純白のヴェールのような毛並みだった。
自然の香りが未だ残る客車の中に横たわる、美しい白馬に対して、俺は一番最初にそう思った。
次に視線が向いたのは、彼女のお腹に巻き付けられた、赤色が染みついた包帯。
幾つかの薬効を持つハーブの香りと、焦げたような、或いは硫黄のような異臭が混ざった匂いが鼻を付く。
「アハ・イシカだ。まだ眠っているがね」
「………綺麗な仔ですね」
それだけに傷痕が痛々しいとも言えるのだが、それでも。
それでもなんとこのアハ・イシカは美しい姿をしているのだろうか。無駄の一切ない体躯に、その身に纏う清流の気配。
本来ならば馬が持っている筈の蹄の代わりに水掻きをもつ彼女は、俺が知る限り、最も強力なあちらさんである妖精の森のプーカに近い力を感じさせた。
手を伸ばし、触れる。
しっとりとした質感が伝わってきた。次いで眠ったままのその顔に自分の顔を近づける。息を吸い込めば、この仔本来が持つ清らかな泉の香りが鼻孔の奥底へと混ざりこんだ。
「さて、問題はこの巨大な隣人をどうやって運ぶのか、だが」
「おい学院長、考えていなかったのか」
車両の手前で剣の柄に手を乗せたままのミールちゃんが呆れたようにシルラーズさんに問いかけた。
それに対して「しかたないだろう」と顔の前で手を振って応えると、
「私も実物は初めて見るのだ。幾つか候補の手段は用意しておいたが、そのどれもが役に立ちそうになくてな」
「候補ですか?」
「ああ。幻惑、不可視、浮遊に転移。転移以外はこれほどの大きさとなると難しく、転移は魔力を食いすぎる。第一に、魔術式の門ではアハ・イシカは通らないだろう。この客車に押し込むのだって相当に苦労したようだからな」
本来あちらさんたちは、特にこのアハ・イシカなどは姿を大きく変えることができるのだけれど、眠りに落ちている現在の状況では本来の姿をどうしても晒してしまう。
いや眠りというか、正確には気絶なんだけれど。
という訳で、あちらさんは人間の前に現れた姿が必ず本来の姿というわけではないから、実際に見てからじゃないと対処のしようがないのは本当のことなのだ。
本当の事、なんだけれど………。
「シルラーズさん、もしかして最初から俺に移動手段を用意させるつもりでした?」
「うん?―――どうかな」
転移は魔力を食いすぎる………とは言ったけれど、シルラーズさんほどの魔術師ならばそんな程度のことは気にもならない筈なのですよ、はい。
元よりそれくらいの魔力のストックはあるはずだし、そもそもシルラーズさんは魔力の生成量が並みの魔術師よりもずっと多い。
あちらさんが生み出す魔力量には当然及ばないが、人間の中では相当のものである。
あ。ちなみに魔女とはまた別だ。根本的な話、あれらは人間ではないから。まあそんなことを言うのであれば俺も大概ですけどねぇー………。
「実際に手段に詰まっていたのは事実さ。いざとなれば街の大通りを通行禁止区域にでもして通る、などということはできるがね。やるかい?」
「いえちょっと待って、今日は安息日ですよねっ!」
確かにその手段を取りたがらないのは分かります!
………安息日、つまりは何もしてはならない日。と、そこまで言い切るのは少しばかり厳しいが、ようは大衆にとっての休日なわけで。
接客業種にとってはかき入れ時、普段農作業や製造業に勤める人にとっては一週間で唯一の体を休めることのできる日。
そんなタイミングで街の大動脈である大通りを封鎖してしまうのはいろんな人にとって迷惑になる。
そうそう、このセカイの安息日は日曜日に設定されています。だから俺のセカイの十字教的にいえば礼拝日なのだろう。
このセカイにはこのセカイの文化があって、歴史があるわけだから呼び名の違いなんて気にしない方が正しいのだけれどね。
俺はそもそも、無神論者というほどではないけれど、都合のいい時にしか神様に頼らないというスタンスなので熱心な信仰者にはなれない。
魔法使い―――半分が魔女の人間が神様に祈るというのもどうかと思うし。いたら面白そうとは思うけれど。
神に近しい旧き龍という存在がいるのだから神々もいそうだけどねー。十字教のいうような唯一にして全能の神がいるかどうかは置いといて。
ま、そんな話はともかく。
「んー。では俺の家まで道を作りますか」
「おお、やってくれるか。いやなに、助かるよ」
「うわこいつ白々しいな」
思わずといった体でミールちゃんがそんな言葉を零していた。
うん、まあ。シルラーズさん、最初から俺だったらそう言うだろうってことは分かってましたよね、俺の性格とか既に見抜いてますもんね。
ミールちゃんにミーアちゃんといい、割といろんな人から性格を理解されてしまっているのは何故なのだろう。
自分の精神性がそこまで複雑ではないという自覚はあるけれど、そんなに分かりやすいかなぁ。
あと毎回変わっていると称されるのは不本意なのですよ?
つい浮かんだ遠い目をごしごしとこすって振り払い、杖を構える。
流石に列車ごと転移させるのは面倒くさい………そもそも場所がない………ので、ここにいる四人だけで移動することにしよう。
「ああ、車掌か。気にしなくていい、もうすぐに移動する。ああ、あとは通常運行に戻ってくれ、この客車はここに置きっぱなしでいい」
集中しているとシルラーズさんによる業務連絡が聞こえてきた。
この地下通路そのものには俺たちしかいないけど、当然蒸気機関車が無人で走っているわけではないから機関室があったり、車掌さんがいたりするのは当たり前のことである。
「いつでもいいぞ、マツリ君」
「はい。わかりました」
軽く息を吸い込み、アハ・イシカに手を触れつつ、杖で軽く………こつん、と客車の床を叩く。
「『煙りくゆるタイムの小枝、霧に交わるセージの葉香』」
杖の先、パイプの火皿のような形状になっているそれから霧のような、或いは煙のようなどちらともとれるモノ………煙霧が広がる。
うっすらと翠色を帯びた光を微粒子のように織り交ぜながら煙霧は徐々に違う形を成し、やがてタイムの枝葉を形作った。
再び床を叩く。今度は少しだけ強めに。
トン―――ッ。
その音が響いた直後、幾総の蔓はそれぞれが結び合い、円環を為す。
「『結べ、繋げ、深く落ち往く兎穴。手を繋いで踊りだせ、輪を描いて舞い上がれ』」
俺とアハ・イシカ、シルラーズさん、そしてミールちゃん。それぞれを円環で囲った煙霧は、俺のその呪文によって廻りだす。
時に広がりながら、あるいは狭まりながら。
そして。急に浮遊感が身体を襲う。浮遊感といっても、別に落下というほどではない。
強いて言うならば、跳躍後の身体が最高高度に到達してから地面へと落ちるまで。その程度のとても軽いものだ。
そんな軽いもので、気が付けば―――俺たちは、街の郊外にある俺の家へと転移していた。
「………ふう!」
良かったー、成功した。
流石にこの魔法を使って複数人を送るのは初めてだから、少しだけ緊張したよ。
地面を見れば、草花が折れ曲がって円のようになっていた。
「ほう、妖精の通り道か。………如何に魔法使いとはいえ、普通そんなものを易々とは作れないものだが」
「そうなんですか?」
「魔法使いもあくまで人間だからね。妖精が通るための道を安全に、しかも絶対に渡り切れるのかと聞かれれば否と答えるのがほとんどだ」
「そういうものなんですねぇ」
魔女の知識があるため割と無理も押し通せるのは、俺の身体の唯一の便利点だよなあとは思う。
呪いに塗れた体ですが、一応役に立つこともあるのですよ、ええ。こうして魔法が使えるのもその一つだし。
「っ、ん」
一緒に転移をして、未だ眠ったままの彼女に手を触れると少しだけ指先が痺れた。
無理をしたからその反動が体を襲っているのだろう。きっと左半身に刻まれているトリスケルの紋様も広がっているはずだ。
本当のホントに無理を続けるとあれは全身にまで広がるから、今はまだまだ軽い方である。………ほんとだよ?
「マツリ。手を出せ」
「え、うん」
剣を置き………多分アハ・イシカに対しての配慮だよね………俺の近くにやってきたミールちゃんが俺の手を取る。
そして、一切の躊躇なく黒色のローブをばさっと捲った。
「あっ!」
「………さっき指を引っ込めるそぶりを見せたからな、もしやとは思ったが」
「あ、はは。うん、そっか。ばれてたかあー」
ちょっとばつが悪いなー。思わず帽子を深く被りなおしてしまう。
そんな俺を見てミールちゃんは溜息を吐くと、
「あまり無理はするな。いいな」
と言い残して―――シルラーズさんを殴りに行った。
「ちょ、痛いのだがおいまてまて、剣を持つのは洒落にならん落ち着けミール」
「うるさい黙れ」
うん。殴りにじゃなくて斬りにだね、あれ。
一応鞘は付けたままなのは良心………なのだろうか。めっちゃ痛いことに変わりはなさそうだけど。
「さってと。いい天気だなあ」
逃げる白衣の美女と、それを追う青髪の少女を眺めつつ、傍らで眠り続けている白き水棲馬の隣に座り込んだ。
既に魔術の香りは薄くなり、この仔の目覚めはもうすぐだろう。
まだまだ未熟な魔法使いである俺では、この仔を完全に癒すことは難しいのかもしれない。けれど、それでも。
力の限り君に寄り添おうと決める。
異世界に来たばかりの俺に、そして千夜の魔女の呪いに侵された俺に。寄り添い、見守ってくれたあの人たちと同じように、君にも同じことをしよう。
「だから、早く目覚めよう………美麗なるアハ・イシカ」
慈しむように、遠い我が子を愛おしむように。その首元をゆっくりと撫でたのだった。