とにかく⇒りゅうがく
「お前の奇策で新規顧客の注文が増えたのは事実だ。その功績は俺も認めている」
親父がオレの意見に対して肯定的な言葉を返すなんて珍しいこともあるもんだ。
たぶん明日は雨どころか槍が降る。外出するときは鉄傘を用意しないと。
「視野を広げたいとか言ったな」
「ああ、言った。なにせ家族旅行とは無縁の生活で、県外への旅なんて修学旅行の日光と京都しか知らない身だからな。せめて次の大型連休に旅行の一つぐらいさせてほしいもんだよ」
「本当にソレは家業を継ぐときの肥やしになるんだな」
「モノによる」
いいぞ。親父にも負い目があるのか、家庭問題をダシにしたら喰い付いてきた。
これでオレの過密スケジュールに僅かながらの自由時間が生まれれば幸いだ。
なにも妹たちみたいに村を出るとか無茶を言っているわけじゃない。
これでも最低限クラスの妥協点を見繕って控えめな交渉をしたほうだよ。
可能ならもっと無理難題を押し付けたいぐらいだ。
「むぅ」
一通りの作業を終えてから一分、二分、三分。
親父は黙って腕を組んで思案している。
なんとも嫌な沈黙だ。
「……個人的には、俺のほうで握り潰しておきたかったんだがな」
およそ五分の長考の後、親父は不穏な言葉を吐きながら振り返り、作業着の内ポケットから一枚の茶封筒を取り出した。
「天城英雄の名前は憶えているな?」
「そりゃ憶えてるよ。小等部からの付き合いの恩師なんだから」
天城先生は母校の小学校で教鞭を振ってたオレの担任教師だ。全校生徒が40人の田舎の学校だったため、六年間オールストレートで担任という一種の腐れ縁だ。
こういう狭い村社会ではよくあることなんだけど、親父と先生は小学校時代からの同期の桜らしく、個人でも我が家との交流が長年続いている。
そんな恩師も三年前に母校が生徒不足を理由に廃校が決定したのを切っ掛けに、オレが中学生になろうとする時期に校長の推挙で遠い西日本へ転任してしまった。
この名前を聞いたのも随分久しぶりだ。
「その天城が、自分の学園に留学生を一人迎え入れたいと手紙をよこしてきた」
「もしかしてオレ宛に?」
「その『もしかして』だ」
「わぁお」
これはなんという想定外の展開。
つうかこのクソ親父……オレが何かしらのアピールをしてなかったら、間違いなくその手紙を闇から闇に葬ってたな。
いや、この一週間の隔離自体、何が何でもこの件のことをオレの耳に入れさすまいと山奥に閉じ込めていたフシがある。とんでもない野郎だ。入学式まで下山禁止のわけだよ。
「天城直々の推薦状だ。お前を是非ともウチの学園に招聘したいんだとよ」
「留学のお誘いってことは、つまり家を出ていいってこと?」
「ああ。俺の中学時代の母校が母体の学園でな、かれこれ四半世紀前に天城と一緒に留学生として一年間通っていた。なんでも今年から進学校になるらしく高等部が新たに設立されることになったらしい」
それは初耳だ。この親父に留学経験があったなんて驚きの一言だよ。
なにせ自分の過去を子供に語らない寡黙な男だから、キャラクターにそぐわない意外性にビックリした。
「俺としてはお前みたいな未熟者をあんなとこに送りたくはないんだがな……」
「なに言ってるんだよ親父。可愛い子には旅をさせろと昔の人も言ってるだろ」
「可愛い……?」
なぜそこで疑問符を付けるのか。
「即決って顔だな」
「宇宙怪獣モチロンよ」
仏頂面の鉄仮面にしては珍しく神妙な面持ちになっている親父に対して、オレのほうは早くも上機嫌だった。
このお誘いを断る理由なんてオレにあるわけがない。
恩師の推薦で留学。なんて素晴らしい響きだろう。
やっとオレにもツキが回ってきた。
これは鍛冶場に閉じこもっているだけでは決して体験できない何かを得る千載一遇のチャンスだ。旺盛な好奇心を満たしてくれる未知がオレを待っている。
留学先はドイツかイギリスか。はたまたカナダかアメリカか。
何処であろうと夢は広がるばかり。
なにより一時的でもクソ親父の呪縛から逃れられるというのが一番デカい。
ただ妙な違和感もある。
なにしろ留学というカタチでの高校入学なのだ。
つまり行き先は日本国外の学園ってことになる。
天城先生は西日本の私立校に行ったって聞いてたけど──
そのあと海外にでも渡ったのだろうか。
「一度でも頷けば取り返しはつかんぞ。本気で留学を希望するんだな」
「語るに及ばずだよ」
オレは頷いた。
それはもう後々疑惑の判定だったと言われないようにハッキリと。
「ならいい。止める理由は無い。天城には俺から連絡を入れておく」
結論は思いのほか早かった。オレが一度こう決めたことは絶対に曲げないことを親父も分かってるんだろう。ここで猛反対をしたところで無駄だってことも。
息子のことを誰よりも理解してくれてありがとうよクソ親父。
このクソ頑固なところは純度一〇〇パーセントでアンタの血のおかげだよ。
「アイツのことだ。許可が下りたと分かればトントン拍子で留学の話を進める。向こうの新学期は明日だ。今日中に荷物をまとめておけ。日の出前には家を叩き出すからな」
「明日かよ!」
あぶねぇぇぇぇぇぇっ。
ホントに締め切りスレッスレじゃねーか。
もうちょっと発言が遅かったらタイムオーバーになってるところだった。
それにしても旅立ちが明日の朝ってのは急かされる。実家を長期間離れるとなると発見されたらヤバそうなものは即刻ブラックボックスに隠さないと。
具体的にはエロ本とかエロ本とかエロ本とか、あとエロ本とか。
あと自前のノートパソコンもそのまま留学先へ持っていこう。万が一でも他人に中身を見られでもしたらオレは社会的に余裕で死ねる。
「言っておくが行き先は遠いぞ。それに三年間もの滞在になる。場合によってはしばらく故郷の土を踏めなくなる覚悟はしておけ。あとで泣き言を口にしても俺は知らん」
「むしろ数年ばかり実家に帰れなくなるくらいの遠方のほうが個人的には助かるんだよ。それで留学先の国の名前は? アメリカ大陸か? アジア圏か? 欧州か? 北欧か? それともどこかオレの知らない小さな国か?」
そうやって早くも明日への期待に胸を膨らませるオレに対し、
親父は一言こう告げた。
「留学先は『出雲の国』だ。パスポートもいらんからさっさと荷物を纏めろ」
「…………あの」
もしかしてそれって『島根県』って言わね?