第4章 愛する人
第4章 愛する人
「...お父さん...?」
小さくだが、息をのむ感覚が、寄りかかっている体に伝わった。
どうやら私はまた、眠ってしまっていたらしい。
私は体を起こし、お父さんを見る。
お父さんの眼鏡には、海が映っていた。
私も、車窓へと顔を向ける。
海は広かった。
空との境界線が溶けて、どこまでも限りなく続いていた。
海は青かった。
日の光を受けた波は、まるで私達を追いかける
ようにして、生き生きとした色を届ける。
それを見た瞬間、私はその美しさと一緒に、少しの
息苦しさを感じ、何かを思い出しそうになる。
ふと、向かいに座るママが、お父さんを見ているのに気づいた。
つられるように私も、お父さんへ顔を向ける。
視線に気づかないまま、お父さんは、海を見つめていた。
その横顔は、昔のことを思い出し、ずっと遠くに、
想いを馳せているようだった。
ママの表情はそれとは対照的で、すぐ近くにお父さんがいるのに、
とても寂しそうで、私はその時初めて、ママは本当に、お父さんの
ことが好きなのだと知った。
お父さんは鞄から計測器を取り出し、時間を確認する。
「予定よりも早い。」
計測器を仕舞い、お父さんが立ち上がると、
周りの人々も同じく立ち上がった。
お父さんがママに目を向けると、ママはそれに頷いた。
そして、私とママだけを残して、全員が隣の車両へと移動する。
ママは席を立ち、私の隣の、お父さんが
座っていなかった方の席に座った。
そして、そっと私に頭に触れ、自分の肩へと引き寄せる。
ママの肩は、柔らかくて、温かい。
電車が揺れる音の隙間を縫うようにして、
隣の車両から、「干渉」、「神」、「歪み」、
「危険」といった断片的な言葉が聞こえてくる。
「大丈夫」
ママは落ち着いていた。
思い返すと、ママが泣いている所を、私は見たことがない。
あの日、私が気を失って倒れた時も、ママが冷静で
いてくれたから、私はお別れを告げることができた。
弱い私を、いつだって、強いママが支えてくれた。
ママのふんわりとした髪が、私の頬に触れる。
私達は肩を寄せ合って、ずっと、海を眺めていた。
ざわめくような森の中を電車は進み、木々が時折、海を隠す。
海を見失わないよう、電車は走り続ける。
「...ねぇママ、聞いてもいい?」
「いいよ」
すんなりと、ママは言った。
それはどこか、私に尋ねられることを、ずっと前から
予期していたかのようだった。
「...ママはさ...お父さんのこと、怒っていないの?」
すぅっと、ママは言葉を言いかけて、止めた。
そして、深く息をつくと、諦めたように言った。
「...『怒る』というよりも、どうして?って気持ちが
強かった、かな。...でも、今は全然、気にしないわね。」
「...本当に?」
「本当。...だって、あの人のこと、好きだから」
私達は、お互いの顔を見なかった。
ただまっすぐに、それぞれが、同じ景色を見ていた。
海の深い青と、草木の深い緑は重なるが、
混ざり合うことはなかった。
「...ねぇママ、ひどいこと、聞いてもいい?」
「いいよ」
「...お父さんのことが好きだから、自分の子ども
じゃなくても、私のこと、愛してくれたの?」
こんなくだらないことを聞くのは、きっと、間違っている。
それでも、聞いておきたかった。
たとえ、お互いを深く傷つけたとしても、どんな答えであったとしても、
私は、それで前に進める気がした。
窓には幾つもの緑が映り、通り過ぎていく。
海だけはずっと、変わらずそこにある。
「...大切な人が大事にしているものは、自分にとっても大事なものよ。
......でも、それだけじゃない」
ママは寄り添っていた体を起こし、私と向かい合う。
私を見つめるその瞳には、様々な私が映る。
ママは私との記憶を、ひとつずつ、思い出していく。
そして、まるで気持ちがそのまま零れてくるように、自然と微笑んだ。
「だって、あなたは私のこと、一生懸命、ママって呼んで、
愛してくれたでしょう?私はそれだけでも、あなたを、
ずっと愛していける気がするの。...母親って、
思っている以上に、不思議で、幸せなものよ。」
「...ごめんね、ママ」
「ごめんなんて、言わないでいいの。」
ママの瞳から、涙が溢れていた。
ママが泣くのを、その時、初めて見た私もまた、泣き出してしまった。
こんなにも、私は幸せなのに、それと同じくらい、
別れを想うと悲しくなる。
ママは、私の涙を指で拭う。
「大丈夫。あなたはいつだって、私の大切な娘なんだから。」
そう言って、ママは微笑んだ。
ママが笑っているなら、私もそうしたい。
私達は肩を寄せ合い、遠くの海を眺める。
ママが陽気な鼻歌を歌って、ふんわりとした髪を揺らす。




