第2章 子どもな人
第2章 子どもな人
「もう!お父さんって私の言うこと、全然分かってくれない!」
私は苛立ち、朝食のパンを勢いよくかじった。
隣では、友達のりっちゃんがクスクスと笑っている。
向かいに座るママが、段ボールから
白い瓶を取り出すと、私の方へと投げた。
「ゆっくり食べて、牛乳も。はい、りっちゃんの分」
頬を膨らませて受け取る私とは反対に、楽しげなりっちゃんは、
「ありがとうございます、ママさん」と、美味しそうに牛乳を飲んだ。
ママは陽気な鼻歌を歌って、ふんわりとした髪を揺らす。
ママの茶色のパーマ頭は、まるで子犬がはしゃいでいるようだった。
ちっとも気にする素振りもないその様子に、私は自分の中で、
不機嫌な感情が増していくのが分かった。
「...ママはお父さんのこと、怒ってないの?」
自分の気持ちが正しいことを確かめるように、私はずるい質問をした。
「全然。だってパパのこと、大好きだからね」
「...そっか。」
私は瓶の蓋を開けると、まるでお父さんへの文句を
飲み込むようにして、勢いよく牛乳を飲む。
私も、我慢しよう。ほんの一瞬だけ、ママが悲しそうな顔をしたから。
ママが我慢しているなら、私もそうしたい。
不意にりっちゃんが、私の頬をツンツンとつついた。
そして、私に、にこりと微笑むと、「可愛い」と呟く。
悪戯っぽく浮かべたその笑みは、なんだか優しくて、
怒っていたはずの私もつい、笑ってしまった。
「「行ってきます」」
私とりっちゃんはママに見送られて、家を出る。
家の外は、真っ白。
それは雪のせいでも、太陽の強い日差しのせいでもない。
ただ、白い「箱」の中に私達がいるだけだった。
見上げれば、白く光る天井が高くにあり、周囲には
真四角の白い建物が、遠くまで並んでいる。
私はいつも着ている黒のセーラー服で、
りっちゃんは、お気に入りの青のブレザー。
真っ白で、色のないこの世界に出れば、私達だけがカラフルな存在だった。
この世界は、人間が「神」を造り出して、できた世界。
賢い人間達はずっと恐れてきた。
自分達が理解できない事象が、この世に存在することを。
人間の持つ知識が、圧倒的に足りないことを。
何年も繰り返し、世代を繋いでは、その恐怖を克服しようとした。
そうして得られたものは技術となり、世界を豊かにした。
「科学が全てを可能にする」
いつしか、そう考える人間が増えた。
天災で、多くの人間が死んだ。資源を巡る戦争で、もっと多くの人間が死んだ。
過去の過ちを繰り返さないよう提案された、
「自然の干渉を受けることなく、人工物で代用できる世界」の実現計画は、
苦しんだ人々の目に、
「安全で満ち足りた、人間にとって理想的な世界」に映った。
その試みを始めた頃に、「それ」は生まれたのかもしれない。
不確かなものを、確かなものに。大きな理想を実現させるには、
不安定なファクターを解明し、技術に取り込むことが必要だった。
「それ」は革新されていく膨大な技術の全てを
記録した、とある記憶媒体の一つだった。
記憶を得るごとに「それ」は少しずつ、進化していった。
そして長い歴史を重ねて、「それ」はあらゆる
自然物を咀嚼し、飲み込んでは、自分の力にしていった。
人間の力を証明するための「それ」は、
いつしか人工の「神」へと形を変えた。
この世界は神にとって、未だに不完全なもの。
神の研究のため歪められたのが、この真っ白な世界だと、
私はママに教わった。
今、私達が存在するこの白い世界では、人間は2つに分かれている。
神を信仰する人間と、しない人間。
この白い箱に住むのは、信仰しない側の人間。
つまり私達は、「それ」を神として認めない、
革命を行う者達だった。
信仰する人間は、神と同じ場所にいる。
「colorless human(色のない人間)」
自らの意思を持たず、神に服従する
人間のことを、革命側はそう名付けた。
そして、まるで自分達とは異なる生き物だとでも言いたげに、
「CH」と、無機質な呼び方をした。
CHの思考は神とリンクし、まるでマスゲームの
ように、その指令に従う。そうすることで、神は
人間をコントロールしながら、それらの持つ膨大な
データを共有し、「人間」の解析を進めている。
神がその研究を終えた時が、人間が、人としての尊厳を
失う時なのだと、そうママは教えてくれた。
そして、お父さんは、かつて信仰する側の人間、CHだったことも。
その話をしてくれた時の、ママの瞳が忘れられない。
怒っているような、泣いているような、哀れむような、憎むような色の瞳。
ツンツンと、りっちゃんに頬をつつかれて、私はハッと顔をあげる。
彼女はそっと右手を伸ばすと、ふわりと、私の頬に触れた。
そして、もう一方の手も伸ばし、優しく私を包む。
その仕草はまるで、私の存在を確かめているかのようだった。
その手から伝わる温度は、私の温かさと近い。
りっちゃんの左手の、小指につけた銀色の指輪が、そっと、私に寄り添う。
彼女の瞳は、「愛おしい」と言っていた。
「あぁ、CHになんて、なりたくもないわ」
りっちゃんの口が小さく動き、呟いた。
風も吹くことはない、閉ざされた絵画のような
真っ白な世界で、彼女は微笑む。
なびくことはない髪が、その輪郭をはっきりとさせる。
私の瞳に映るその姿は、何よりも美しかった。
「さぁ、行きましょう」
りっちゃんが私の手を取り、私達は手を繋いで歩き出す。
毎日通っている学校は、生まれたばかりの子から、私達くらいの
年齢の子どもが集まり、様々なことを学ぶ場所だった。
そして、私達はもうすぐ卒業し、大人の一員として働く。
りっちゃんの両親や、私のママ、そしてお父さんのように。
私のお父さんの仕事は、CHから別の時代、あるいは別世界を
守ることだった。タイムトラベラーとして、いくつもの世界線を飛び、
神から命令を受けたCHのエージェントを止める仕事。
お父さんが来てから、その阻止率は飛躍した。
それは、お父さんが元エージェントであり、それまでの
神の意向や、CHの動きが分かることが、大きな要因だった。
つまり、お父さんは、信仰していた神や元同胞を裏切って、革命に
協力していることになる。
その理由を、私は知らない。
「...最近、考え事が多いですね」
隣を歩くりっちゃんは、私の顔を覗き込み、心配そうに見つめる。
慌てて謝ると、彼女はクスクスと笑う。
温かなその手と繋いでいると、気持ちが安らいだ。
「今朝のことを、まだ怒っているのですか?」
歩きながら尋ねられ、私は目を伏せて、考え込んでしまう。
お父さんのことになると、なぜか、気持ちが重くなる。
「...別に、お父さんのことを怒ってるんじゃないんだ...
多分私、寂しかっただけ」
「なぜ、寂しかったのですか?」
「それは...」
りっちゃんの問いに答えようと、私は、朝の出来事を思い出していく。
「待ってお父さん、どこに行くの?私も一緒に行くって言ったのに!」
一人、家から出て行こうとするお父さんの姿を
見つけ、私は慌てて引き留めた。
スーツ姿のお父さんは、眼鏡を直す仕草をしながら、
私を見据えた。眼鏡の反射で、その瞳は見えなかった。
「仕事はまだ早いと、私は言ったはずだ。」
淡々とした口調で、お父さんはそう答えると、
私に背を向けようとする。
「待ってよ!」
私は思わず、お父さんのスーツの袖を掴んだ。
だが、お父さんは何も言わず、私の手を振り払うこともしない。
私はうつむき、たどたどしく言葉を紡ぐ。
「...私、不安なんだよ。なんだか最近、胸の奥がザワザワするんだ。
...お父さんと、会えなくなるような気がして...そんなの、嫌だよ」
「私のことを気にすることはない。」
突き放すような言葉に、ぐらりと、視界が揺らぐ。
胸の奥が、ズキンと痛んだ。
「...そう...だね。そうだよね...お父さんは、いつもそうだもんね」
違う
お父さんは、何も答えなかった。私は手を離してしまう。
違う、違う、違う。
私はお父さんに、こんなことを言いたいんじゃない。
「行ってくる。」
私の後ろで、ママが静かに頷いて、お父さんを見送っていた。
私は口をぎゅっと結び、立ちすくんだ。
お父さんの靴があった場所を、じっと見つめる。
悲しい。何もできない自分が悲しい。
側にいたいのに、それすらできない自分が悲しくて、悔しかったはずなのに。
それなのにどうして、お父さんを責めるようなこと、私は言ったんだろう。
( 甘えて いたかった )
暗い、声がした。胸の奥でザワリと、何かが騒いだ。
この声に、耳を傾けてはいけない。
私はぎゅっと、声が聞こえた場所に手を当てる。そして、押さえた手で、
固く、蓋をした。何も聞こえていないと、自分に言い聞かせる。
気を取られてしまうと、じわじわと、息が苦しくなっていくような感覚が
襲ってくる。
「ほら、朝ご飯にしよ」
ポンと、ママに頭を撫でられ、私の意識は声から逸れた。
胸から手を離し、恐る恐る、もう聞こえないことを確認する。
深く息をつき、私はお父さんのことを思い出しながら、ママと
りっちゃんの待っているキッチンへと向かった。
「寂しかったのは、なぜですか?」
答えを待っているりっちゃんと、そっと、視線が重なった。
私は少しうつむいて、繋いだ右手の力を緩めると、諦めたように呟く。
「...私、お父さんに、甘えてたんだ」
そう口にして、私は、やっと、分かった気がした。
「私、お父さんに甘えているから、こんなに寂しくなったんだ」
言葉にした後で、私は唇に、手を当てた。そして、込み上げてくる気持ちを
紛らわそうとして、変に笑った。
りっちゃんもそれを見て、小さく笑う。
そして私達は、とても可笑しそうに、とても楽しそうに笑い合った。
あの時聞こえた声の、言っていた通りだ。
お父さんが、私の側からいなくなってしまうことを考えたら、
眠れないほど怖かった。我儘を言って困らせてしまうくらい、
私にとって、お父さんは大切な存在だった。
そう認めてしまうと、決して悪くない、不思議な気持ちになる。
素直に笑える私達は、キラキラと、光を放っているかのような気さえした。
白い箱の中で、私達は些細なことで悩んでは、
声をあげて笑い、自由な蝶のようにはしゃぐ。
眩しい彼女の瞳には私の姿が映り、私達はいつものように、
楽しそうにスカートの裾をひるがえしながら、学校へと向かう。
( 私は ひどいね )
私はふと、後ろを振り返る。
黒い何かが、私の後ろに立っていた。
それを目にした瞬間、私は理解した。
声だ。これは、声だ。
私は咄嗟に、自分の胸を見る。
ドロドロとした、黒い液体が、流れ出す。
これは、あの時の声だ。
( ひどいよ 私だけ 夢をみて )
私はりっちゃんの手を離し、両手を、自分の胸へと当てた。
止まれ、止まれと押し込むが、黒く、色のついた声は、
ボタリボタリと流れ落ちる。
( 夢の中は 私 独りじゃないから 幸せ? )
「...やめて」
にたにたと、黒い人影は、私を見て笑っていた。
澱んだ色、私達を、汚す色。
( 幸せだから わたしと 違う? )
止まらない。黒い色をした声が、指の隙間から溢れ出す。
「やめて!」
叫んだはずなのに、声が、出ない。
私の口は、動いているのに、声にならない。
りっちゃんに腕を掴まれる。
りっちゃんが何かを言っている。
呼吸が、うまくできない。
りっちゃんが、不安そうな顔をしている。
息が苦しい。
ぐるりと、人の形をした影が、黒い影が、私の顔を覗き込む。
真っ黒な瞳が、私の瞳を覗き込む。
( ひどいね わたしだけ ずっと 独り )
声、声、声、ぐるぐると、私の中で、声が巡る。
( でも ほんとに 私 幸せ? )
「怖い」
本当のことしか言わない、その声が。
( わたしも 私も 夢が覚めれば 独り )
「恐い」
( 私は 全部 分かっているのに ひどいね )
正しくて、どこまでも正しくて、私の
見ていないふりを許さない、その声が恐い。
( わたしと 私は ほんとは ずっと )
「もうやめて!」
( わたし 嘘つきは 大嫌い )
黒いそれは、体がぱちんと弾けて、地面に落ちた。
落ちていく間も、その真っ黒な瞳は、私を見つめていた。
影と一緒に、自分の体が崩れ落ちるのを感じる。
視界の端で、りっちゃんが叫んでいる。
ぐらりと、私はそのまま気を失った。




