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日なたの転校生

作者: 泡曽根準

 教室の隅、一番日の届かないところが僕の席。

 四十人分の席が用意されたこの部屋の中に、僕の居場所はこの机と椅子のみ。他にはいらない。必要のない他人との関わり合いは例え挨拶でさえも避ける。僕のことなんて、誰も見ようとはしない。四角い不可侵領域を作り出し、外界と暗黙の相互不干渉。それで良かった。

 高校なんて結局そんなものかと失望するのに、一ヶ月も掛かりはしなかった。もともと社交的な性格ではない自分のことを誰も知らないここでなら、所謂高校デビューなんてものが出来るかもしれないと思っていたのだ。そうでなくとも気の置けない友人の一人や二人、出来るものだと思っていた。けれど高校に入学しても僕は僕、持ち前の人見知りをいかんなく発揮して口を開けず、誰からも相手をされない僕は中学時代よりも孤独に過ごす時間が長くなった。徐々に心が冷めていくにつれて、高校生は道化に見えていったから。この輪には入るまいと一歩退いたあの時の選択を、今は後悔していない。

 クラスの人達は僕のことをまるで腫物に触るように扱い、次第に眼中にさえ入れなくなった。ならばと僕は、極力存在感を薄くするように努めた。結果手に入れたのがこの席。ここはここで心地が良い。暗く冷たく、たった一人だから。


 一学期も半ばを過ぎたある日のこと。教室の扉を開けると、僕より早く登校している女子グループが一斉に、友人が来たかと期待してこちらを向く。だが動作の主が僕だと分かると、露骨にがっかりしてみせてからまた輪をなして話し出す。それを尻目に、僕は扉のすぐそばにある角の席に腰を下ろす。

 授業の開始までの二十分以上を、動きもせずに待った。暇つぶしは人間観察。女子たちの嬌声混じりの会話が聞こえる。入室した男子がオッスと女子に向けて手を挙げる。続々とやってくるクラスの面々は、しかし誰一人として僕を見やしなかった。いつも通りのつまらない日常だ。何をどうしたらつまらなくなくなるのか見当もつかないが。

「皆、転校生を紹介するぞ」

 一時限目の先生の代わりに担任がやって来て、前触れもなしにそう告げた。『転入生』と表した方が相応しいのではなかろうか。いや、意味は分かるし気にしないでおこう。しかしどうしてこんな中途半端な時期に。疑問に答える者はなく、担任に呼ばれた転校生は教室に通された。自信と期待に満ちた表情の男子だ。

「――です。よろしくお願いします」

 どうせ高校生なんて皆同じだ。きっと僕のことなど気にも留めず、他の奴と仲良くなっていくのだろう。ほら、何を話しているか聞く気もないが、たいそうウケているようじゃないか。良かったなお前、そうやって初めから物怖じせずに積極的に関わっていけば、自ずと日なたに受け入れてもらえるんだ。

 ……入学したての僕と同じ顔。なのに、今の僕とは正反対だ。

「僕は――。君は?」

 突然声が降ってきて驚いて首をもたげると、すぐ目前に件の彼が立っていた。誰もがわいわい騒ぐ中で一人だけ無反応でいる人間が、逆に注目されない訳が無い。彼の瞳は少し気の抜けたようであったが、僕のことをしっかりと見つめている。久しぶりの感覚に震える思いがした。

 彼の名は完全に聞きそびれていたのに、つい反射的に自分の名は返答してしまった。乾いた喉で発した名が届いたどうかは定かではない。それでも満足したのだろうか、よろしくねと笑顔で言い残して教室の奥、彼のために用意された窓際の席へと向かっていった。僕の席から最も距離のあるところだ。

 それから彼は瞬く間に、クラス内に構築されていた人物関係の中心へと吸い込まれていったのだった。彼の破顔は誰にとっても小気味よく、他人と積極的に関わっていく姿は好印象を与えた。彼に掛かればどんな些細な話でも落語のようにオチが付くように、人を楽しませることに天賦の才を持っているとしか思えない彼がはみ出し者となる道理はなかった。もちろん彼はあの日のように、僕に対しても何度もアプローチをかけてきた。しかし僕は彼の背後にいるつまらない視線に気付いていたために、頑としてそれを拒否してきた。正確には、その視線は彼に注がれていた。「そんな奴に構う必要はない」目は口ほどに物を言うとは、まったく正しい諺である。

 彼に対する風当たりを強めないようにと思いやる意図があっての行動かと問われれば、否定は出来ない。僕は今までの自分と決別しようと決意し、しかし夢破れた存在。彼は僕の理想によく似ていた。いや、不思議なことに理想の姿そのものと言ってもいい。僕はあんな風に皆に囲まれて充実した青春を過ごしたかったのだと、彼が陽気に振舞う度に思われるのだ。そんな他人とは思えない彼の立場を悪くさせかねない行為は、出来なかった。

 彼は、今まで出会ったようなつまらない人間とは何かが決定的に違った。あたかも都会の夜空に忽然と現れた太陽の如く圧倒的な存在感を放ち、そこにいるだけで景色を一変させ、他の星々を従わせるのだ。


 転入から時は過ぎ、二学期に入る。その頃には体育祭や文化祭などの行事を経て、一人を除いたクラス内の結束はより強固になっていった。彼は、初めからこのクラスにいたのだと錯覚するほどに完全に馴染んでいた。余所者は僕だけだった。

 唯一、彼だけは変わらず接してくれた。行事の決め事などでグループを作るとき、当然のようにあぶれた僕を拾ってくれたりもした。弁当を一緒に食べようと誘ってくれたりもした。その度に首を振ることが心苦しい。笑いながらも残念そうに去っていく彼を待ってましたと言わんばかりに呼び止める人物がいて、彼はその輪の中に腰を下ろす。こんなことではどちらも良い気分がしない。いっそ僕を諦めてくれよ、一人にしてくれよ。願いは通じない。

 彼を思う故の矛盾した拒絶は僕の中でゆっくりと婉曲し、どす黒く染まっていく。加減も知らないで影さえも塗りつぶすかのように周囲を照らし続ける太陽が、疎ましくて仕方ない。近寄るな。話しかけるな。僕は日陰に居たいんだから。

 僕は彼からの声を無視するようにした。文字通り、見ることも避けた。それでも、彼はしつこくつきまとってくる。僕に無視されるのがそんなに愉快か。僕は不愉快だ。

 なぜこうも思い通りにいかないんだと苛立ちは募るばかり。どうしたら彼は僕から離れてくれるんだ? ……熟考の結論。彼から太陽の輝きを奪えばいい。彼を精神的に参らせ、他人に不信感を持たせれば、いつしか自ずから話しかけるなんて不可能になるはずだ。その為に。

 まだ教室には誰も来ていないはず。教卓の陰、掃除用具入れまで注意深く確認する。朝日が注いで温くなった彼の机の中を覗き込めば、想定通り目的の物がたくさん詰まっていた。僕は手汗を滲ませながら、そこから数冊の教科書やノートを無造作に取り出す。乱れた配置を丁寧に整え直す。それらを両腕で包み、急いで自分の鍵付きロッカーの奥に仕舞う。この一連の姿――あからさまに挙動不審に周囲を警戒し、足取りはかちこちに緊張していた――を客観視したならば、どれだけ怪しまれたことだろうか。だが幸い、目撃者は無い。下準備は完遂した。あとは彼を待つだけだ。

 荒い息を必死で押し殺し、あくまで平静を装って自分の席でその時を待つが、そう早くは来てくれない。焦れったさが頂点まで達した始業間際、ようやくクラスメートと共に姿を現した。後ろの様子をそっと窺うと、彼は机をまさぐっては不思議そうに首をかしげていた。どうしたんだ? と彼の隣の席の男子が問えば、教科書忘れちゃったみたいだ、と大袈裟に肩を竦めてみせる。実に晴れやかな気分だ。家にもどこにもお前の教科書はないさ、誰かが奪って隠してしまったんだよ。さあ、一体誰がやったんだろうなと心の中で高笑いをする。

 直後、僕の密かな虚栄心は音を立てて崩れ去る。隣の男子の何気ない一言によって。

「じゃあ俺が見せてやるよ」

「本当? 助かるよ、ありがとう」

「貸し一つ、な」

「分かったよ。今度埋め合わせるから」

 ……何だよ。僕のしたことが台無しじゃないか。ふつふつと沸き上がるのは怒りか悔しさか、いやそれ以上に――恨みだった。

「お。おはよう」と不意に目が合ったとき思い出したように挨拶をしてくる彼に、負の感情は一切見当たらない。「いやぁ、今日は教科書を忘れちゃったみたいでさ」ちくしょう。どうしてくれるんだ、この気持ちを。「君も気を付けなよ。うっかりすると大変だから」

 彼のその言葉に悪意があったのかはこの際どうでもいい。ともかく僕は、彼に何としても一泡も二泡も吹かせてやらないと気が済まなくなった。

 次の日にしたのは、彼の机やノートへの落書きだった。握り締めた赤い極太ペンにありったけの苛立ちを込めて彼の持ち物へぶつけた。初めこそミミズが這ったようなぐちゃぐちゃな線で文字を上書きしたり、『死ね』などの汚い言葉を連ねていたのだが、途中から気分が高揚して、偉人の肖像画に髭を蓄えさせたり、血を噴出させてみたりした。後に振り返るに、それがいけなかった。彼の取り巻きは彼を心配し誰がやったのだと憤慨するのだが、僕には彼以外の感情など知ったことではない。その彼は「まだ読めるから、大したことないよ」と逆に周囲を諌めるほどの余裕を見せる。気に食わない。昼休み明けの歴史の授業の冒頭で、彼は盛大に吹き出した。突然大笑いしだすものだから、クラスの皆も教師も、勿論僕も大いに驚愕した。「この落書き、センスあるなぁ」と涙まで浮かべて称賛されては、言葉以上にひどく侮蔑されているようにも感じ、訳が分からなくなった。

 今度は脅迫文。サスペンスドラマにありがちな新聞の切り抜き文を作ろうと思いついたのは、廃品回収の直後で素材が枯渇していた日だった。それでもなんとかなるだろうと考えて作成を始めたが、これが意外と骨の折れる作業であることはすぐに思い知らされた。目当ての文字が含まれる見出しはなかなか見つからないのだ。結局当初想定していた文面とは全く異なってしまったそれを、彼の下駄箱へと投函する。ラブレターか否かと隣の男子と話しながら封を開けた彼の前には、『ずっとオ前を見ているゾ』というどう捉えるべきか判断に苦しむ文が現れた。

「ひょっとして本当にラブレターなんじゃないか?」

「いや、そんなまさか」

 ここ最近血なまぐさい事件がなかったせいで――それ自体は歓迎するべきことなのだろうが――、『死』『殺』といった文字が新聞に踊らず仕方なく路線変更した結果であった。ちなみに語尾が『ゾ』などとおどけているのは『オゾン層』から切り抜いたためである。結果を見れば判る通り、この作戦も不発に終わった。


 そんな空回りだらけの僕の次なる一手は財布の奪取。これで困らない人間はいないはずだ。体育の直後にいち早く教室に帰ってきた僕は、他の何にも目もくれず彼の鞄の中をまさぐった。荷物が少なかったおかげですぐに見つけられたオーソドックスな黒い財布を、素早く懐に仕舞い込む。そして何食わぬ顔で着替えをし、膨らんだポケットを内側に隠すように体操服を畳んだその頃に彼がやって来る。自分の着替えが少し乱れていることに違和感を覚えたようだが、さして気にすることなく自らも制服に着替えだした。

 事件が発覚したのは明くる日。ホームルームにて担任の口から告げられた。何でも財布の中にはお金の他にバスの定期券なども入っており、帰る手段を失くした彼は仕方なく一時間半の道のりを歩いたのだという。更に臨時で全校集会が開かれて、全生徒は生活指導の教師からキツい戒めの言葉を頂戴することとなった。

「本人の過失か盗難かはまだ分からない。が、状況からして恐らく後者だ。それもここにいる誰かの手による、な」とばっちりを受けた生徒たちは小声でグチグチと文句を言っていたが、僕に限っては決してそんな気分にはなれなかった。「これは歴とした犯罪だ。許されざる行為だ。犯人は一刻も早く、名乗り出なさい」

 この時になってようやく、僕の心の中に罪悪感という名の感情が生まれた。これまで僕が考えていたのはひたすらに彼を苦しめ、疑心暗鬼の状態に陥れることだけだった。その手段について、僕は何ら省みることはなかったのだ。今、教師の言葉によって自分の行為が如何に低劣で、意地の悪いことだったかを思い知った。

 しかし、教室でクラスメートから慰められても気丈に振舞う彼の態度を目にしたとき、罪悪感はまたしても別のものへと変化した。作戦自体は成功しているにも関わらず、彼の心を砕くどころかかすり傷一つ付けられていない。お前がいるせいで、お前が困り顔一つ見せない聖人君子のせいで僕は、犯罪者になってしまった。対照的にお前は皆の中心から動くこともなく、優しい言葉をかけてもらえる。財布は返さないし、僕が犯人ということは僕だけの秘密にしてやる。

 少しだけ後悔はあった。それでも、止まれなかった。止まれない僕自身を、嫌いになった。太陽が明るければ明るいほど、同時に影もまた濃くなっていくものだ。もう手段を選ぶつもりはない。僕のために、そして彼のために、僕は彼を憎む。 


 ある時、廊下での交錯ざまに、わざとらしく肩をぶつけてみようと思い立った。

「悪いな」

 上辺だけの謝罪は、衝突の瞬間よりも先に発せられていた。彼はバランスを崩して尻餅をつく。のだが、

「あはは、僕の方こそ悪かったよ」

 全く意に介さない様子で立ち上がると、そのまま歩いていってしまった。何故だ、何故ああも笑っていられるんだ。僕はこんなにも息苦しいのに。

 またある時、僕の席の横を彼が通ろうとしたので、その進行方向に足を少しだけ伸ばしてみた。当然、見事な音を立てて彼は床に倒れた。

「痛ってぇ……」

 お付きの男子――以前彼に教科書を貸した隣の席の男子である。あの一件以降彼らはより一層親睦を深めたように思える――は状況が理解出来ず、半ば笑い半ば焦りながら彼に手を伸ばす。

「おいおい大丈夫か? 何でこんなところで」

「よくあることだよ、僕はトロいから」

 呆れられながらも、彼は手を掴んで立ち上がる。膝が痛むのか軽くさすっていたので、足掛けの成果は上出来だなとほくそ笑んでいると肩ごしに振り返った彼と視線がぶつかった。

 信じられないくらい冷たい目がそこにはあった。およそ太陽の温かみとかけ離れたそれに僕は怯え、瞬時に目を反らした。他人に頼られ他人を頼れる彼の、どこにそんな要素があるのか、理由は見当も付かない。しかしこれ以降、僕の中に芽生えた恐怖心が彼をまともに見ることを出来なくしてしまった。


 別の日、僕は自宅でカーテンを締め切りパソコンの電源を入れていた。目的はとある会員制交流サイト。そこには一昔前の言い方での『学校裏サイト』のような掲示板が存在しているらしい。情報源は「皆でここに登録しよ?」と教室内でサイト名とパスワードを言いふらしていたおしゃべり好きの女子。なんと無用心な。ともかく、僕も一応はあのクラスに所属しているわけだから「皆」に含まれていると解釈してもいいはずだ。誰にともなく言い訳をしながら必要な手続きを終えて掲示板を覗けば、なるほど彼女がクラス内で大きな影響力を持っていることが分かる。流石にクラス全員ではないが、既に三十人以上の登録者の名前が表示されていた。本名で登録している者もいるが、多くはニックネーム、もしくは会員ナンバーそのままの者もいて、誰が誰だか分からない。僕もカムフラージュのため適当な名前をでっち上げておいた。

 さてここで何をするか。勿論僕がクラスメートとの親睦を深めるためにこんなことをする由もない。顔の見えないインターネットの特性を利用して、無差別に悪劣な言葉を並べて掲示板を『荒らし』て不和を引き起こす。彼もこのどこかにいるのだろうが、わざわざ特定するのは骨が折れる。肝要なのは「クラスの誰とも知れない誰かが悪意を持って和を乱そうとしている」という認識を植え付けること。そして例えクラスへの不信感を抱いた人が多くなくとも、その傷は必ず膿んで全員を蝕んでいくに違いない。僕は思いつく限りありったけの侮蔑と罵倒の単語を連投した。すぐさま『誰だよお前』『今すぐ帰れ!』など期待通りの反応が返ってきて、口元が緩んでしまう。餌に食いついた魚共を散々振り回し頭に血を上らせたところで、僕は自分のアカウントの削除を実行した。

 直後、別の名前で登録し直してグループに潜入してみる。掲示板は荒らしの話題で持ちきり。作戦は上出来だったと思えた。どれどれと更新されていく文字列を眺めていると、とある一つの新着の書き込みが表示された。

『もしかして犯人、アイツじゃねぇか?』

 アイツ。一体誰を意図しているのだろうと悩んでいる間に、物凄い勢いで新着が更新されていく。その全てが、あろうことか僕を名指しにした内容だった。誰とも指定していない曖昧な言葉が引き金となって、僕という存在に対してこれまで皆が――一人ひとり程度は違えども――抱いてきた不満、不信感、疑念、それらが一つになって爆発を起こした。皆、犯人が僕だと思っていたと言うのか。

『そうじゃね?』『何かアヤシイと思ってたのよ』『やっぱりか』『おらっ、いるなら出てこい!』

 僕はクラスの中に見えない敵を作り出し、結束を引き裂こうとした。だが結果はどうだ。皮肉にも犯人の汚名は僕に擦り付けられ、共通の敵を前に皆の結束はより強まった。こと恐ろしいのは、例え僕が犯人でなかったとしてもこいつらは同じ結論に至っただろうということだ。絶望以外の何物でもない。こうしてミイラ取りは、ミイラになった。

 翌日、僕は平素とまったく変わらない態度と表情を装って教室に入った。なのに今日に限って、奴らは僕にチラチラとあるいはジロジロと視線を投げてくる。それを感じる度に、脳裏によぎる掲示板に書き込まれた数多の文字が、質量を持って頭蓋を殴りつけてくる。三十数人分の悪意を受け入れるのにも跳ね除けるのにも、僕の精神はあまりに小さすぎた。


 鬱々として堪らなくなった心はそれを発散せんと、衝動的に身体を突き動かす。ごんがっしゃんがたんばさばさ。机一つ蹴っ飛ばして倒すだけでも色んな音がするんだな、と僕は誰もいなくなった放課後の教室で、無残に散乱した彼の机と椅子と教科書を見下ろして感心していた。上履き越しに伝わってきた反動は、痺れるような未知の快感を伴って身体中を駆け巡る。完全にではないにしろ、これで気分も大分楽になれた。そんな余韻に浸っていると。

「……ったく、何で忘れ物なんか」

「悪い悪い。うっかりしてた」

 何故今ここに帰ってきた。よりにもよって、この二人が。

 男子の視線は教室内の異常を真っ先に捉え、それから眉間をひくつかせながら指先一つ動かせないでいる僕を睨んだ。

「お前。何してんだよ」男子は普段の調子の良い声とは打って変わってドスの効いた声で詰め寄ってきた。頭が真っ白になって、返事も出来ない。「これやったの、お前なんだろ。はっきり言えよ!」

「まだそうと決まった訳じゃ――」

「そうとしか考えられねぇよ! だってコイツだぜ!?」

 状況だけを鑑みたとしても、犯人は決まりきっている。百歩譲ってそうでなくとも彼の机を直そうとしない薄情者なのだ。つまり逃げ道はない。沈黙は、時に肯定として受け取られる。

「謝れよ」

 男子の瞳の中には、以前の彼よりも冷たい影が。それに射抜かれた僕は、考えるよりも早く駆け出した。机を薙ぎ倒し、背後から「てめぇ!」と怒号を浴びながらもなりふり構わず一目散に教室の出入口を目指す。と同時に扉の影に隠れていた三人目の目撃者――掲示板の発起人であるあの女子――の存在に気がついたものの、僕は一瞥もくれてやることはなかった。

 案の定、掲示板は大炎上中。今日の火種は隣の男子やおしゃべり女子のリークによる、彼の机を故意に倒した僕の行為だ。議論にさえならない誹謗中傷の嵐が、昨日の雰囲気をより殺伐とさせた雰囲気で書き込まれ続けている。眺めるのも辛いのだが、ここにいればこいつらがどれだけ僕を嫌っているかが手に取るように分かる。文字を追うのをやめるのは、見えない悪意を一身に受け続けねばならないということ。今はそれも怖かった。

『一ヶ月前の財布盗難事件も、アイツが犯人っぽくね?』

 昨日の決めつけ魔と同一人物が、またしても言ってくれた。格好の燃料の投下を受けた掲示板は、俄かに勢いを増していく。呆れるほど察しが良いのか、それとも余程僕のことが嫌いなのか。どちらでもいいし誰でもいい。僕は今になって財布窃盗の容疑をかけられることとなった、それだけが事実だ。このことが明日、先生の耳に入れば間違いなく生徒指導室にお呼び出しが掛かる。そして洗いざらい罪を告白することになるだろう。……嫌だ。

 ならばどうすればいいかと悩む僕の目の前には、あの日盗んだ彼の財布があの時のまま置いてあった。

 奇しくも翌日は、盗難事件の日と同じ曜日。体育の授業後の誰もいない教室で僕は一つの行動を起こした。と言っても家から持参した彼の財布を、彼の鞄のあるべき場所へと手早く戻すだけ。行為自体はまるで造作もないことだ。一瞬で済む。

 僕が何食わぬ顔で着替えをしている最中、彼と男子のペアが戻ってくる。男子は僕を見つけるなり怪訝そうに眉を顰めた。

「……てめぇ、また何かしたんじゃねぇだろうな?」

「してない」

 言下に返された男子は不満げに舌打ちを残して去る。彼はそれに何の反応も示さずに、自らの机へ向かった。僕がすべきことは終わった。依然として降り注ぐ雨のような視線の矢が明日にはどうなっているやら、今から楽しみである。

 ――なあ、考え直せよ。謝る必要なんかねぇって。

「申し訳ない! 僕のせいで、君を傷つけた」

 彼は次の日の朝、僕の姿を見つけるなり脇目もふらずに歩いてきて、そう頭を下げた。背後には苦虫を噛み潰したような顔をした男子が控えている。

「昨日、失くした財布が鞄の中から見つかった。君が財布を盗んだと皆は言うけど、本当は僕がうっかりしていたせいなんだ」

 全て目論見通り。財布の持ち主が自己の過失と認めたことで被害届は取り下げられ、事件はなかったことになった。事件がなくなれば、犯人も消える。無実の僕が責められる要素はこの瞬間から、消え失せる。

 にやけそうになる気持ちを押さえ込み、僕は首を縦に振る。済まなかった、と彼ははっきりともう一度言い、教室を後にする。漏れ聞こえた彼らの会話から、次は職員室に行って先生たちに謝るらしいことが分かった。これで僕の嫌疑は完全に晴れ、同時に彼の面子も丸潰れになる。彼が人を疑わず自分で責任を背負い込む性格の人間で良かった。作戦は見事に成功した。

 かに思えた。それからいくら経っても怪訝な感情のこもった視線は集まってくるし、掲示板での『叩き』も収まる気配さえ見せなかったのだ。

『全部アイツの自作自演だ。騙されるな』

 そう囃し立てる書き込みに誰もが賛同している。肝心の彼はと言えば、あれだけのことがあってなお、謝罪が出来ることが逆に潔いと評価され信用は失墜するどころかうなぎ上り。やるせなく屈辱的な気持ちが心の中に渦を巻いて、制御が効かなくなっていく。

 僕はようやく全ての行いを後悔した。この高校で日陰に逃げてしまったこと、彼の伸ばした手を跳ね除けたこと、誰にも助けを求めなかったこと、自分を一番に考えていたこと。初めから大人しく太陽の光を浴びていれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。けれど今更何もかも遅い。日陰という名の居場所は、今やどこにもない。僕のことを、太陽は存在するだけで執拗に追いかけ回して、文字通り白日の下に晒してしまうから。

 そう。太陽の存在こそが、僕にとっては最大の邪魔なのだ。だったら取り除いてしまえばいい。どんな手段を使ってでも。


 決心をしてからは時間の流れが異常に長く感じられた。時計の針は眺める程に遅く進み、授業中にも何度も鞄に目をやってしまう。何せ中には負の連鎖を断ち切るための最後の手段が入っているのだから。

 ターゲットは今日も今日とて平常通り。隣の男子と仲良く話し、休み時間には大勢に囲まれ、よく笑う。だがそれも、今日までだ。

 夕方の下校時刻となり、各々が帰宅の途に就き始める。彼も肩掛け鞄を持って教室を出た。僕は彼を適当な距離を保ちつつ尾行して、機会を窺う。これまで通ったことのない他人の帰り道は新鮮ではあるが、それを楽しむ余裕など存在しなかった。気配を消して彼の背中の一点だけを注視するのだ。右手は左肩から提げた鞄に突っ込んでおく。

 彼が角を曲がった。足早に駆け寄り確認すると彼の入ったのは、地元民のみぞ知る裏道だろうか、大きなビルとビルの隙間の路地であった。手を横に広げきることも出来なさそうな狭さで、ここだけは夜のように暗い。微かに揺れる人影は一つ、彼のみ。僕にとってはこんなに好都合な場所もない。チャンスは今だ。僕は闇の中に足を踏み入れた。その瞬間に何故か不安のような直感が走るが、僕は行く。この道以外に行き場は残されていないのだから。

 僕は右手の感触を再確認し、それを鞄から抜き放った。ほんの僅かに差し込む光を受けてぎらりと輝く。まだ早い、焦ってはならないと自分に言い聞かせ、息を殺し足音を潜めて両者の間合いを詰める。この場に充満する重く緊張した空気を、彼も感じ取っているのだろうか。しかし依然彼は僕に気付く様子もなく、背中は無防備。……やれる。

「……おおおぉぉぉぉっ!」

 僕は吼える。同時に一気に肉薄し、その勢いと体重を一点に乗せた右手を突き出した。握られた刃は、狙い違わず彼の心臓の位置目掛けて一直線に走る。彼の肩が少しだけ反応したようにも感じたが、今更避けるには遅すぎる。

 届いた。獲物の切っ先が何かを引き裂く感触が、生々しく伝わってきた。想像していたよりも軽いが、実際はそんなものなのかもしれない。とは言え手応えはあった。即死ではないにしろ、致命の一撃に違いない位置に深く突き刺さる。彼の身体は硬直したままピクリとも動かず、僕もまた手を伸ばした格好のままで、まるでこの場所だけ世界から切り離され時が止まっているかのようだった。

 しかし、あまりにも不自然だ。彼を刺したという確信が疑念に変わっていく。普通なら悲鳴を上げたり、暴れたりなどの反応があって然るべきだろう。更には暗いせいかもしれないが、流血した様子も感じられない。

 突然彼の首が動く。ゆらりと回頭してくるそれに、僕の目は釘付けになった。背中に冷や汗が伝うのを感じながらも、黙って見つめている以外には出来なかった。やがて輪郭の向こうから現れた瞳と僕の視線とが、いつかぶりに交錯した。上空より垂れる一筋の光が丁度彼の目元のみを少しだけ照らす。大きく見開かれたその双眸には、漆黒よりなお昏い闇が映っていたのだった。

 やっと理解した。闇は彼に宿っているのではない。瞳が映し出すのはいつも、瞳の持ち主が見ている光景そのものだということ。

「僕は」

 妙にのんびりとした、場の雰囲気に不釣合いな彼の声。矛盾が恐怖を呼び寄せるせいで、全身がわなわな震え出すのを抑えきれやしない。

「君にとっては目障りでしかないんだね――」

 強烈すぎる光の前に、僕の心を支えていた最後の影までも成す術もなく取り払われた。いや、全ては初めから彼の知るところだったのかもしれない。きっとそうだ。だとしたら僕は何のために。

 後に残ったのは無力感と諦観、そして畏怖。これまで必死に凶器を掴んでいた手には力が入らなくなり、不意に腰が抜けて立っていられなくなる。強かに打ち付けた尾てい骨の痺れが自分の生を感じさせてくれた。逃げる方法も浮かばず、呼吸が乱れて苦しさを覚えた。僕の存在全てが、僕の存在全てに対して警鐘をかき鳴らしている。

 彼は身体をこちらに向き直らせ、倒れている僕に覆い被さるように迫ってくる。表情は闇に溶け込み見えなくなるが、それでもじりじりと近づいていることは分かった。

「く、来るな……っ」

 腹の底に残っていた空気を絞り出しての抵抗だが、ただ無様な醜態を晒すだけで無意味なことであった。最早恨みを晴らすなんてどうでもいい。何でもいいから助かりたい、その一心。

 比喩ではなくすぐ目の前に何かがいる。なのに抗うための力も、それどころか指先、胴体、あらゆる部位の感覚さえもとうに消え失せていた。辺りはどこも闇、闇、闇。僕と闇の境界線はどこだ。分からない。僕はどこにいるのだろう。分からない……。

 彼は淀みなく、自らを誇示するように、さっきの言葉を継いだ。

「――僕もだ」



 教壇に立つ担任の先生は、どことなくバツが悪そうな感じで口を開いた。

「――は転校したということだ」

 あれから数日後の朝のことだ。ぼうっとしていて言い出しこそ聞き逃したものの、察しは付く。当事者である僕は驚くはずもなく、皆の反応もやはり予想通りのものだった。担任はそれ以上何も説明せずに騒がしい教室を後にした。そうしてまた別の先生がやって来て、いつも通りの授業が始まる。

 彼がいなくなったということに対してのリアクションは、皆のそれが妥当なのだろう。理由も知らされず突然の転校、となれば尚更。だが。

 転校、という不思議な単語に隠された彼の本当の行き先を、僕は知っている。

読んでくださってありがとうございました

感想、批評等ございましたらどんなものでも構いませんのでいただけると嬉しいです


また、下記のブログでネタバレを含むこの作品の解説を行っています

http://awasone.blog.fc2.com/blog-entry-11.html

作品投稿、ブログ更新などをお知らせしたりするツイッターはこちら

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