夙夜夢寐
木村淳一が、森崎智通に初めて出会ったのは、ある年度替わりの4月のことである。
定例の人事異動だ。智通は、淳一が所属していた部署に、営業課長として赴任してきた。
淳一は、総務で事務をやっていた。総務課長と彼以外、他の事務員は全て女性ばかりで、セクハラに対して過剰反応する者が多かった。
彼女たちは、赴任してきた智通に対しひどく冷たい対応をとっていた。別に、前部署で彼にセクハラの噂があったわけではない。ただ、人懐っこい性格で、しょっぱなから馴れ馴れしく挨拶したことが、彼女たちの琴線に触れたらしい。
淳一は、智通が可哀想に思えて、彼女たちの素気無い態度をカバーする目的で、彼には少し愛想がよかった。誰だって、挨拶もろくに返してくれない人間より、視線が合っただけでも微笑んでくれる人間の方がいいに決まっている。智通も例外ではなく、淳一に懐くのにさほど時間は必要とはしなかった。
女性事務員が全員退社し、総務課長も所用で帰宅したため、淳一は、ひとりで残業していた。時刻は、午後7時を過ぎている。
シーンと静まり返った事務室には、パソコンのキーボードを叩く音だけが響いていた。さすがにこの時間になると電話も鳴らない。
「あれ。木村さん、ひとりですか?」
ふいに声を掛けられてディスプレイから顔を上げると、いつの間に入ってきたのか、智通が立っていた。淳一は、お疲れ様、といって笑った。
智通は、もう帰ってしまった女性の机の下から椅子を引っ張り出して、淳一に向かい合うように腰を下ろした。
「俺に笑い掛けてくれるの、木村さんだけですね」
「年上の男に笑い掛けられても、慰めにならないねえ」
「そんなことないですよ! 俺、木村さんの顔見ると何か癒されるんです」
そういって、智通は、笑った。
淳一は35歳。智通は、彼より7歳年下だったが、身長は30センチは高かったし、太っているわけではないが大きな身体で熊を連想させた。だが、顔は、まだまだ少年のようで年齢より若く見えた。
その会話をきっかけに、ふたりは何気ない話もするようになった。
彼は結婚していて、幼稚園に通っている男の子がいた。淳一にも、年の近い甥っ子がいたから、話を合わせるために見ていた特撮ヒーローものやアニメの話が、意外なところで役に立った。
ある日、智通は、淳一に「好き」だと告げた。それは、会話の流れで自然に口をついた言葉のように、実にあっさりしたものであったから、淳一は笑顔で受け流した。
ふたりが出会って、2年と10ヶ月目。1月末に退職予定者が出て送別会をしようという話になり、営業部長、営業課長、総務課事務員で飲みに行くことになった。それまで、淳一と智通が酒が絡む席で一緒になる機会は一度もなかった。
送別会は、和食の創作料理屋で開かれた。最初は決められた席に座っていたが、ある程度酔いが回ってくると、みんな思い思いの席に移動し、その場その場で盛り上がっていた。
淳一は、話下手で自分から入っていくような性格ではなかったので、そんなみんなをぼんやりと眺める感じになっていた。ふと、床についた指に何かが触れて横を見ると、智通が座っていた。
この頃には、女性事務員の警戒もすっかり解けていたから、こんなところに来ないで、女の子たちと話してきたら、と薦めた。
だが、智通は、首を振った。
「木村さんを独り占めできるチャンス、逃せないでしょ?」
淳一は、けっこう呑んでいるな、とおかしくなった。智通が「好き」だといってきてからは、こんな意味ありげなセリフは日常茶飯事になっていた。退屈しのぎにからかって楽しんでいるのだと思っているから、淳一は気にしない。淳一も、また、適当に交わして楽しんでいた。
智通が他の人に呼ばれても、淳一の側を離れようとしなかったので、酔った勢いでからかう者が出てきた。
「森崎課長は、木村さんが大好きなんだよな~?」
智通は、淳一の身体を横から抱き締めた。
「そうだよ! 好きだよ! 木村さんは俺のだから獲らないでね」
淳一は、さほど呑んでおらずほとんど素面の状態だったから驚いたが、みんなは宴会の席を盛り上げるための余興の一環くらいにしか思っていないようで、大爆笑していた。その証拠に、話題はすぐに別のものに変わった。
お開きになると、大通りまでのんびり歩き出した。淳一と智通は一番後ろを歩いていた。急に智通が立ち止まったので、どうしたのかと覗き込んだとき、淳一は抱き締められていた。
不思議と嫌悪感はなく、淳一は落ち着いていた。この人の身体はやっぱり大きい、と思った。同じ男なのに自分の身体が胸の中に収まっていることに苦笑が浮かぶ。
名前を呼ぶと、そっと離れて、小さく、ごめん、と呟いた。
大通りまで出るとタクシーを止め淳一を乗せた。智通は、歩いて帰ると背を向けた。
その次の日から、智通の態度が変わった。あれだけ淳一にちょっかいをかけていたのに、必要最小限の業務に絡むことでしか近寄ろうともしなかった。彼の真意は掴めなかったが、後悔しているのかもしれない、と淳一も合わせてやることにした。
3月初め、彼に異動の辞令が出た。営業は、2、3年おきに日本各地に異動辞令が出る。気まずい雰囲気は2ヶ月ほどの我慢で終わり、もう会うこともないだろうと思った。
引継ぎ等でバタバタしていたから、結局、淳一と智通は、会話もなく別れることになった。
翌年1月、淳一の手元に智通からの年賀状が届いた。一般的な印刷の年賀状だった。下の方に、見慣れた小さな丸っこい字で、ひとこと添え書きがあった。
「あなたに会いたい」
まったく、どこまで本気なんだか、何がしたいのか、よくわからなくて、淳一はその年賀状を見て苦笑した。智通のやることは、いつも淳一を笑わせてくれる。
淳一は、人を好きになるという感情が欠落しているらしく、男性でも女性でも、今までそういう気持ちになったことが一度もない。
壁を作るタイプで、他人に入り込ませない雰囲気を持っていた。智通には、その壁が通用しなかった。弟が大好きな兄にかまってほしくてちょっかいをかける。そんな可愛らしいアプローチに、淳一は彼に興味を持ってしまった。
そう考えると、智通は、淳一に興味を持たせた最初で最後の人間ということになる。
「好きだ」といってくれたのは彼だけであったし、他人の手が温かいものだと気づかせてくれたもの彼だ。
この感情に名前をつけていいものかどうか、淳一には分からない。だが、忘れられないのは事実だ。かけることもない、かかってくることもない、携帯電話の番号をいつまでも消去できないことや、送別会の夜に並んで撮った唯一の写真を処分できないことが、自分の中に答えを出してしまっているような気もするが、それでも、はっきり言葉にはするまいと決めていた。
来年1月。智通が去ってから、3枚目の年賀状が届くだろう。
最初は「会いたい」で、次は、「楽しくやっているが、あなたがいればもっと楽しいだろうに」だった。智通の住所録に淳一の住所が消えていないということは、彼もまた忘れていないということか。
忘れたいのか。忘れたくないのか。自分でも持て余しているこの感情を隠して、淳一も年賀状を送ることを恒例としている。当たり障りのない近況を綴った、他の人に送るものとまったく同じ内容の年賀状を、今年も用意する。
ことあるごとに、ふと、思い出してしまう、智通へ…。