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月夜の兎  作者: 望月あさら
■ 1 ■
5/36

1-3

 家屋敷は三階建ての大きな洋館である。築年ははっきりと分かっていないが――いや、調べれば分かるはずなのだ。しかし、家屋敷の主人、律子は、興味がない関係ないといって、調べたり覚えようとしたりはしない――今の形の家が建ったのは七十年近く前のことらしい。それから改築増築を幾度となく繰り返し現在に至っているが、この場所に今と同じ理由で家が建ったのはもう三百年も前のことだといわれている。

 平均十畳で部屋数十九、洗面所数(トイレ含む)三つ、お風呂場二つ、台所一つ。

 内装は、まず、一階、玄関を入ると右前に二階につながる階段、左手の一番手前にある扉が応接間の扉、その次がリビング、ダイニング、キッチン。右の階段の奥に洗面所、お風呂場が並んで二つ。廊下を行った先には外部者の入ることが許されない中を仕切られた部屋が一つ。

 二階は階段を上がった正面に部屋が五つ。左奥から瞳子、律子、薫、真恵。階段の右隣がトイレ、並びに小さめの部屋が三つ。右手奥が、本人以外入ることの許されない律子の仕事部屋。

 三階は階段の隣がやはりトイレ。正面に部屋五つ。左奥が空き部屋でその隣から公一、玲司。階段の並びには部屋二つ。右手側は空き部屋、左手側は大きな蔵書庫、いわゆる図書室。

 そんな家屋敷に、深川玲司は真恵たちより早く学校から帰宅していた。

 早く帰宅したからといって、家で何かやりたいことがあるわけではない。どこかに約束があるわけでもない。ただ単に学校ですることがなかったのだ。今週は掃除当番ではないから。

 いつも玲司は家屋敷のあてがわれた部屋で一人、本を読むか勉強をするか窓から外を眺めるかをしていた。現在の家屋敷の住人は全部で六人だが、六人が顔を合わすのは食事の時ぐらいだ。いや、玲司以外の五人は、人が二十人は入るであろうという広いリビングやダイニングで他の時間にも何かと顔を合わすことがあるようではあったが、玲司は一日の中で他の住人とほとんど会いはしなかった。

 玲司は部屋に入り、学生カバンの中から教科書とノートを取り出して今日の授業内容を軽く復習すると、それらを片付け、服を着替える。

 服は黒いTシャツの上にVネックの生成り色のセーターとジーパン。

 玲司がその日に着る服は、毎朝真恵が決めていた。というより、玲司の持っている服はほとんどが真恵の選んだものなのだ。真恵は「似合うのは本当にすごくレイに似合うけど、似合わないのは目茶苦茶似合わないから、絶対にそれは着ちゃ駄目っ」といって、玲司に似合う服を見付けるとすぐに買ってくるのである。

 この状況を知っている他の住人たちは「これじゃあ玲司は真恵の着せ替え人形だ」といい、玲司自身もそんな気を少なからず持っているのだが、確かに玲司は清潔なものを着ることさえ出来れば物はどれでもいいと思う質なので、自分が着る服をかってに選んでくれる真恵は決して迷惑ではなかった。

 玲司は着替えを終え、制服をハンガーに掛けクローゼットの中にしまうと、徐に視線を窓の外に移した。

 今日は天気がいい。日々、昼は短くなってきているが、まだ時間も早いせいか、外は充分に明るかった。

 時折吹き抜け、紅葉した木々を揺らしていく風の音がなければもっと暖かさを感じることが出来たであろう。

 そう思いながら窓に寄っていった。

 じっと外を眺め、そして机の上に置かれた時計に目を走らせる。

 三時五十分。夕飯まではまだ時間がある。外に、出ようか。と、思いたつ。

 椅子にかけられていた黒の厚手のパーカーを手にすると廊下につながる扉に向かった。ドアノブに手をかける――直前。

「レイ!」

 さっと避けた。殺気で避けた。もう一瞬でも遅かったら勢い良く開かれた扉に手と額をぶつけていたことだろう。実際、一度ぶつけられたことがあるのだが、それ以来殺気を覚え、なんとか回避することが出来ていた。

 そしてその、扉を開けた本人は、部屋の中にするりと入ると後手で扉を閉めていた。

 ほう、と息をついている。

「全く、なんで今日の薫はあんなにしつこいのかしら」

 目の前で玲司には分からないことを呟いている。

 彼女はセーラー服から黒と白のハイソックス、チェックのスカートとえんじ色のハイネックセーターに着替えていた。手には英語の教科書とノート。

 それに目を落すと玲司はじっと思考を巡らした。が、なぜ彼女が英語の教科書を持って自分の部屋に来たのかは分からない。

「あ、レイ、もしかして出かけるところだった?」

 彼女がいう。

 英語の教科書から彼女の顔に視線を移す。いつもと変わらない真恵がいる。

「ああ。ちょっと散歩に」

「散歩!? 本当に散歩? ただの散歩!?」

 なぜ、散歩にこだわるのか……。

「そう、だけど……」

「私も行っていい!?」

 なぜ、それほどまでに嬉しそうなのか……。

「いい、けど……」

「本当ね? やったぁっ。じゃ、私も部屋に戻って上着取ってくるから、玄関で待っててね!」

 いい置くと、彼女は部屋を飛び出していった。開け放たれた扉からは階段を駆け下りて行く音が聞こえる。

 結局英語の教科書の意味が分からなかったと思いながら玲司も部屋を出た。一階まで下りていくと玄関ではなくキッチンの方に足を向けた。

 キッチンのドアを開ける。中で一人、ポニーテールの少女がパンを作っている。

 玲司は彼女に声をかけ、少し話をすると冷蔵庫から一つのタッパを取り出し、それをスーパーのビニール袋の中に入れてキッチンを出た。

 玄関ではニットのパーカーを着、靴まで履いて待っている真恵がいた。

「ねえ、早く行こーよっ」

 彼女の手に、さすがに英語の教科書はない。ぴょんぴょん跳びながら玲司を視線で追っている。

「散歩ってさ、どこにいくの? どこか目的の場所あるの? ただぶらぶらするだけなの?」

「ちょっと、公園まで」

「公園? どこの?」

「第一公園だよ」

「そのビニール袋、何? 何が入っているの?」

「ああ、これはちょっと……」

 黒のスニーカーを履く。玄関のドアを開け、外に出る。冷たい風が吹いた。先程よりも陽は傾いている。

 玲司と真恵は獣道を下っていった。道に出ると横に並んで歩いた。

 真恵は興味のあるものを見付けると駆けてそれに寄っていく。満足がいくと歩調をかえない玲司の元に戻る。それの繰り返し。

 二人はそうしている間、ずっと話をしているわけではなかった。時折真恵が口を開くぐらいで、声はすぐに止んだ。けれど二人にとって沈黙の時は決して窮屈ではなかった。

 真恵が駆けていき、玲司の視界から消えることもあった。だからといって玲司は特別声を上げたり捜したりはしない。気配で真恵が近くに入ることを感じることも出来たし、何より、暫らくすれば真恵が戻ってくるという確信があったからだ。実際、姿を消した真恵はややもすると何気なく隣にいるのである。

 そうして、二人はすっかり空が赤く染まった頃、第一公園に辿り着いていた。第一公園は家屋敷と鷹巣森中学校の間にあった。遊具のあるスペースとグランド、木々の間を抜ける小道のあるスペース、三つの顔を持つ広い公園だった。

 今はグランドで小学生が何人か野球をやっているだけで、遊具の周りに人はいなかった。 その人気のない場のブランコの後で、玲司は足を止めた。木々の方を向いて辺りを見渡している。

 真恵はブランコに近付くとその一つに立って乗った。ゆっくりと漕ぎ始める。

「ねえ、レイ。なんかあるの?」

 玲司は答えない。

 真恵の漕ぐブランコがぎしぎしと音をたてている。

 すると、木々の間から一匹、二匹と猫が現われ始めたのだ。

 真恵の漕ぐブランコの音が止む。その頃には玲司の周りに六匹の猫。どれも明らかに野良猫。

 玲司は身を屈めるとビニール袋からタッパを取り出し、開けた。中にはパンの耳が入っている。昨日の弁当はサンドウィッチだった。その時使われなかったパンの耳がまとめて冷蔵庫に入れられているのを玲司は知っていたのだ。

 玲司はパンの耳を猫達の足元に放ってやる。猫は少し匂いを嗅ぎ、食べる。

「……レイ、猫に会いにきたの? そんなに気になっていたわけ?」

 頭上から、真恵の声。

 見上げると彼女も膝を折った。パンの耳をいくつか手にする。

「私があげても食べる? 野良って警戒心強いんでしょ? 初対面の人間から、食べるかな?」

「やってみるといい」

 真恵も倣った。猫は戸惑いを見せた。何度も匂いを嗅ぎ、そして、恐る恐る食べる。

「何よ。恐いなら食べなきゃいいのにさ」

 猫達が充分警戒していることを知って、彼女は文句を口にした。けれど、ぶうぶういいながらも餌をやり続けるのだ。

「ほら、食べなよ。確かにさ、昨日はレイのお弁当をもらって、そっちの方がおいしかったかもしれないけど、これだって充分食べられるんだよ? ほら、おいしいでしょ?」

 食べない猫の目の前で真恵自身が食べてみせている。それでも食べない猫は食べない。玲司が放るものだけを口にするのだ。

「やな奴ぅ。野良のくせにさ、って。……でも、そっか、野良か、君達。捨てられちゃったんだよね。生れつき野良って感じじゃないもんね。人間に、捨てられちゃったんだね。……よかったね、レイみたいな餌くれる人がいてさ。君たちのこと、心配してこうしてわざわざ来てくれる人がいて。よかったよね」

 もう真恵はパンの耳を放っていなかった。代わりにそう口にする。神経を張り詰めながらも必死になって食べている猫達に、そう声をかけるのだ。

 玲司が真恵を見る。膝を抱え、猫達の一挙一動を見守っている。

「おや、なんだ、食物くれる人がいたんか」

 そんな時に、公園の入り口側からそのような人の声がしていた。顔を向けるとニットの丸い帽子を被った空きっ歯の腰のまがった老婆がそこにいた。

 ゆっくりと近寄ってくる。猫達もパンの耳を食べるのを止め、老婆に寄っていく。

 老婆の両手にはへこんだ鍋がそれぞれに一つ。地面に置くと猫達が首を突っ込んだ。

 老婆は屈みこまず、上から猫達の様子をうかがっている。

「お婆さん、いつも猫達に餌をやっているの?」

 真恵は膝をかえたままだった。老婆の視線がゆっくりと動く。

「ああ。この子達もかわいそうだからね。こんな所に捨てられて。人間にかってに捨てられて。私は一人暮らしでまた淋しいしね。こうしてこの子たちに会うのが楽しみなんだよ。けど、一週間前から寝込んじまってね。やっと今来れたところさ。……お嬢ちゃんがいつもこの子たちに餌をやってくれたのかね?」

「いつも……?」

「あんまり腹が減っていないようだからね。その入れ物の中に入っていただけのパンの耳でそれほどまでに腹がふくれるとは思えない」

「私じゃないの。その猫達に餌をあげたのはレイなの。私もあげたけど、あんまり食べてくれなかったわ。でもレイ。いつもって、いつからあげていたの?」

「一週間前からだよ」

「……お婆さんが来れなかったこと、どこで知ったの?」

「ああ、君はいつも私がこの子たちに餌をあげているとき、公園の脇を通っていくね」

「…………」

「一週間前、お婆さんが公園にいなかったから、自分がって?」

「…………」

「それで自分のお弁当を?」

「……おなか、空いただろうなって、思って」

 真恵が心底呆れたという顔をした。レイは視線を外すとタッパに蓋をし、ビニール袋の中に戻す、立ち上がる。真恵もゆっくりと立った。

「どうもありがとう。この子たちも嬉しかっただろうよ」

 老婆が顔のしわを深め、笑っていった。

 玲司はその顔をまともに見る事無く立ち去ろうとした。一言も老婆に声をかける事無く行ってしまおう、と。けれど。

「ねえ、お婆さん。また来ていい? 私とレイもこの猫達のお友達にしてもらえるかしら? ね、レイ。もっと猫達と仲良くなりたいもんね?」

 弾んだ声。煌めく眼差しで双眸を見つめられたら、玲司は何もいい返せない。

 真恵はこうなってしまう玲司のことをよく知っているのだ。だから、何気なく取り計らってくれるのだ。

「ああ。もちろんいいよ。またおいで」

 真恵が玲司の腕をとった。それに自分の腕を絡ませ、強引に老婆の方に向き直らせる。

「私は伊藤真恵。こっちは深川玲司。私はレイって呼んでるの。レイって無口で無表情だけど、本当はすごくやさしいのよ」

「ああ、分かるよ」

「本当!? 本当に分かってくれる!? それとね、私達、よく一緒にいるけど、兄妹でも、彼氏彼女っていう関係でもないから」

「ああ。分かったよ」

「本当!? 本当に私達の関係理解できた!?」

「理解できたよ。兄妹でも恋人でもないけど、仲がいいんだろ?」

「素敵だわ! 分かってくれたんだ! 嬉しい! 君達、素敵な人にご飯もらっているのね。もっと感謝しなきゃだめよ」

 老婆が嬉しそうに笑う。真恵を見て、猫達を見て、玲司を見て、笑う。幸せそうに、笑う。

 玲司は……笑えなかった。笑いたかったのに、笑えなかった。そして視線を下げた。

 恥ずかしいと思ったから。

 けれど、そのかわりに、

「また一緒に来ようね、レイっ」

 自分の顔を覗き込んで真恵が笑ってくれた。

 だからとりあえず、玲司は老婆と視線を合わせることだけは出来たのだ。

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