1-2
家屋敷――その洋館は仲間内でそう呼ばれていた。
おばけ屋敷――しかしその洋館は同時に、近所の子供たちにそう呼ばれていた。
それは偏にその怪しさのためだった。
まず、建っている場所。望ヶ丘山という小高い山の中にあった。手入れの行き届いた芝生がとりあえずは周りを一周しているが、その空間すらを飲み込まんとするように、外側を木々が欝蒼と覆っている。そのため、空からならともかく山の外からだと木々の葉が落ちる冬といえど、洋館を見付けだすことはできない。また、洋館につながる道らしき道というものも存在しない。唯一存在する道というのがいわゆる獣道。望ヶ丘山にある緑地公園の「緑の探索コース」から入ることのできる道。注意していなければその道は見つけられないだろう。葉の生い茂る夏などは完全に隠れてしまっているといってもいい。その道を見付ける唯一の手がかりは、脇に立てられた古びたステンレス製のポストだ。ポストについた表札には、画用紙に薄くなった字で「宍戸」とある。
もう一つ、この洋館を怪しくさせているのは、そこの住人たちだった。地域の人々は洋館の存在を知っていても、そこに人が住んでいるのかすらわからない。だが実際、住人はいた。もちろん近所付き合いなどない。獣道から人が出入りするのを目撃した者もほとんどいない――まあ最も、「緑の探索コース」自体、ほとんど人が通らないのであるが――。数少ない住人の目撃者のほとんどは、獣道の存在に気付き興味をそそられやってきた少年少女たちである。だが彼らにはその光景が異様に見えた。中学生ほどの少年少女が何人か集まって戦っていたりするのだ。別の時には全身から血を流した人が担ぎ込まれ、しかし暫らくすると何事もないように出てきたり、そのまた別の時には自然と土が盛り上がったり水が踊ったり氷が出現したりしていた。なのに、そこの住人たちは別に驚きもせず、その様子を見ているのである。
だからこそ、近所の子供たちはその洋館のことをおばけ屋敷と呼んだ。そこには人間になりすましたおばけが住んでいると囁いた。
そのようなおばけ屋敷に――もとい、家屋敷に、今、おばけと目される少女が一人、帰ってきていた。
獣道の両脇から伸びてきている草の葉や茎に襞スカートから見えるほそい足を引っかけないように注意しながら、坂を上っていく。芝生の上に降り立ったときには小さくほっと息をついていた。
いつものことながらこの道を通るときだけは気を遣った。一度、めんどくさくなって気にせずに歩いたら、思いきり足に傷を作ってしまったのだ。それ以来、この道を通るときは足元に注意を払い、ゆっくりと進むようにしている。
彼女はもう傷など作りたくなかったから、何度もこの道の整備を、そこまではいかなくとも、せめてもの周りの草の排除を進言していた。だが、それは決してこの家屋敷の主人に受け入れられることはなかった。ここにたくさん人がやってきたらやっかいなのだといって。自分が欝陶しくなるまで草を切ろうとしないのだから。
もう一度息をつくと黒衿のセーラーの形を整える。赤いスカーフを結びなおす。ほんの数十メートル先が家だとしてもその辺の身だしなみを彼女は忘れない。
そして再び歩きだそうとした。
「サーナっ」
その時、後ろから声をかけられた。反射的にふりかえると両眼を貫いていく強烈な光。シャッターがおり、フィルムが巻き上がっていく音。
「ちょっと、公一! なんで突然写真取っちゃうのよっ!」
「へへー。真恵ちゃんの素顔、なーんてな。高く売れるかなぁ」
「公一!」
とっさに突っ掛かっていく真恵の腕を身軽にかわして、カメラを右手に、学校のカバンを左手にした守田公一は家屋敷の方に少し逃げる。
彼もまた、家屋敷の下宿人だ。
同い年の学らん姿の小柄な男が、自分に向かってあっかんべーをしているのを見て、真恵はむっとした。
再び自分も学生カバンを振り回し、突進していくのだ。
「ちょっと! 謝りなさいよ! 私、傷ついたんだからねっ」
「うっそだー。サーナ写真好きじゃん。撮られるの好きじゃん」
「嘘じゃないわよ! 突然撮られるのは嫌なんだから! 大体、高く売れるって何よ!?」
真恵の伸ばした手をひょいと避けると、そこで公一は動きを止めた。そしてもう一枚。
「公一!」
真恵も追っ掛けていた足を止め仁王立ちになって怒鳴り付ける。だが、公一に反省の色は全くない。
反省の代わりにしゃあしゃあといってのけるのだ。
「だってさあ、信じられないことにお前って人気あるんだもん。今度の体育祭でさ、お前の写真が欲しいっていう依頼、やたら来てるんだぜ? 現時点でトップ」
公一は中学の新聞部に所属している。新聞部の活動はもちろん新聞を作ることなのだが、今では新聞を作るのに必要だった写真を撮るという仕事に重きが置かれるようになってしまっているのだ。そのため、学校の行事ごとに学校側の依頼で写真を撮っているが、同時に生徒たちからの「気になる子の写真が欲しい」などという依頼も内々に受けつけているのである。もちろん、金は取っていない。
「だからさぁ、こういう素のサーナっていうのも、欲しいっていう奴、いるんだろうなぁって」
「売るの!?」
「売らないよっ!」
「ならいいわ」
あっさりと、真恵はいっていた。
そこには最早、先程までの眉を吊り上げた顔はない。
公一が「へ?」とか思っていると、真恵は至極真恵らしく口を開いてくれるのだ。
「よっぽどへんな顔じゃなかったらばらまいてもいいわよ。そーよねー、しかたないのよねー。私のこの美しさに惹かれちゃうっていうのは。自然のなりゆきなのよねー。あ、公一。私ちゃんとポーズとるから、あと何枚か撮らない?」
顔に手をあて少し上目遣いで見られたとしても、公一はひたすら絶句。
口をだらしなくぽかぁんと開いたまま動けなくなる。
「いい、公一? 私の写真を撮るのはかまわないわ。でも不意打ちはなしよ? それと、売るのもなし。私の写真で公一が得をするなんて許せないの。だって公一は撮っただけで、その写真の何がいいかといえば、私でしょ?」
ポーズを考えながらそういっている真恵の前で公一は持っていたカメラを下げた。最早撮る気などないとそうやって伝える。
それと同時に公一は改めて思ってしまうのだ。そうだ、真恵ってこういう奴だよなぁ、と。
だから公一は踵を返し、さっさと家の中に入っていこうとした。「えー、何? もう撮らないのぉ?」という真恵の声も無視。
なんでみんなこんな女がいいのだろう。外見で惑わされちゃあいかんよ。第一、こいつは、誰に対しても本気になれないんだし……と心の中で呟きながら。
しかしそこで、一つ思い出したことがあった。今日学校で耳にした噂だ。
向き直り、真恵の日本人にしては派手な――公一にいわせれば――顔を見る。
「そういやあさあ、聞いたぜ。お前が今日の昼、レイを教室から連れ去っていったって」
真恵の動きが止まった。
両眼で公一の顔をじっと見下ろしているようだが、しっかりと捉えてはいないのだろう。
徐々に綺麗に描かれた細めの眉は寄っていき、黒より色彩の薄い双眸には不快を表す光が宿っていくのだ。
「嫌ないい方。何よそれ。なんでそんなことが広まらなきゃいけないわけ?」
案の上というかなんというか。
真恵の返事を聞いてしみじみと思ってしまう。
この女はその事態がどれだけ周りの人間に波紋を投げかけるか分かっていないのだ。
決して鈍感ではないくせに自分のこととなるどどうしてこんなに鈍いんだろう、と、公一はいつも疑問に思っている。
「広まるよ。だってさあ、さっきもいったとおり、お前って男子に結構人気あるんだぜ?
そんな女子がだよ、一緒に昼を食べる相手にあの、無口で人付き合いの全くない偏屈で暗いレイを選んだとなりゃあ、そりゃあみなさんびっくりでしょうが」
「なんで?」
間髪入れずに跳ね返ってくる疑問符。
一瞬、公一の方が言葉に窮してしまう。
「……だって、皆さんにしてみれば、お前とレイが付き合っている図というのは信じられん図だからですよ」
まあそんな所だろうといってみる。
が、途端、
「付き合ってる!?」
大声。
木々に反響なんかしてしまいそうなほどの。公一もとっさに両耳を両手で塞いでいた。
「なんでどうして!? どうして私とレイが付き合っていることになっているわけ!?」
「だから、お前がレイと一緒に弁当を食べるから……」
「なんでなのよ! どうして一緒にお昼を食べただけでそういうことになっちゃうのよ!」
「十中八九、みんなそう思うと思うけど……」
「えっ、何? 十中八九……?」
「大部分、とか、ほとんど、とかいう意味」
あっそう、と、真恵は公一のいった言葉の意味を理解して、一呼吸置くと、再び声を荒げ始める。
「お昼を一人の男の子と一緒に食べたらその子と付き合っていることになるっていうの!? 冗談でしょ!? たったそれだけのことで!?」
「たったそれだけっていっちゃったらそれで終わっちゃうけど、お前とレイの場合それだけってわけでもないし……それにさ、お前たちの場合、当たらずとも遠からずじゃん」
「え? 当たらずとも……何?」
「つまり、サーナとレイは付き合ってはいないけど、普通の友達っていうわけでもないだろ?」
「普通の友達って……」
「クラスにいる男子とか、話をするだけの男子とかとサーナにとってレイは違うだろ?」
確かに、真恵の中でクラスの男子と玲司は違った。玲司のクラスにいた戸田も然り。
だが、だからといってそれがなんなのか。真恵には公一のいわんとしていることが分からない。
「違ったら、なんなの?」
公一を見る。
きょとんとした目を向けている。
そして彼は一つため息をつく。
「違うってことは、サーナにとってレイは特別な人ってことで、」
「そうよ。特別よ」
きっぱり。
真恵はいい切る。
公一はその前で、それも原因の一つなんだけどなあとしみじみ思いながら、結論を口にするのだ。
「みんなにとって特別な人、イコール、付き合っている相手、なんだよ」
空間が凍る。
風が吹きぬけて、解凍。
直後、
「なぁぁんでなのよぉっっ!」
腹の底から声を張り上げてくれている彼女の前で、公一は再び深々と嘆息。
やっぱり理解できなかったかと、真恵の鈍感さを呪うのだ。
「そうよ。レイは特別な人よ。他の誰よりも幸せになってほしい人よ! けど、だからってどーして私とレイが付き合っていることになるわけ!? どーしてそういう目で見るのよ、ねえっ!?」
「俺はそうは見てないよっ。だってお前等のこと、よく知ってるもん」
「じゃあ、みんなも私達のことよく知ればいい訳ね!? 私が一体レイのことどう思っているか、いい聞かせてやればいい訳ね!?」
「……いや、そこまでする必要は……」
ないだろう。大体、いったところでみんなに理解できるとは公一には思えない。
それよりも真恵がなぜそれほどまでして誤解を解こうとするのか、みんなの興味はそっちに向かい、ますますあらぬ噂が飛びかうことになるはずだ。
公一は、真恵の玲司に対する――そして玲司の真恵に対する気持ちが極めて真摯であることを知っているから、二人は決してそういう関係ではないということが出来るが、しかし、勘違いしているみんなを納得させる自信は全くなかった。
なんか、面倒なほうに話が進んでいってるなと、振り返って思い、疲れまで感じてしまう。これはさっさと家の中に入ったほうが勝ちだと思った。
が、そんな公一の視界の中に一人の人が入ってきた。
公一と向かい合っている真恵の背後、獣道が現われるのはセーラー服を着た少年――もとい、少女だ。
眼鏡をかけた彼女は近付いてきながら声をかけてくる。
「二人も今帰ってきたところか?」
彼女の名前は小山薫。真恵、公一と同じく家屋敷の下宿人である。
彼女もセーラー服姿だった。けれど、真恵のものとは違う。薫のセーラーは白く、スカーフは青い。
それは鷹巣森中学の隣の中学校、望ヶ丘中学の制服。薫は越境入学している。
「おかえり、クァロ。今日は早いんだな。勉強はいいのか?」
薫は中学三年、受験生。そのため、毎日授業後に何時間か学校の図書館で勉強してくるのであるが。
「まあ、一日ぐらい息抜きもいいだろう。それにな、今日は行ったら図書室で図書委員が本の整理をしていてな、勉強できるような状態じゃなかったんだよ」
薫の言葉はいつもかたい。男に間違えられるその顔は知性に溢れ整っている。その上に眼鏡。すらっとして背は高く、姿勢もいい。そして全身にまとう近寄りがたい空気。
どこか神がかってすらいる、初めて薫と会った人は誰もがそう感じるだろう。薫自身人と馴れ合うのは好きではないため、あまり自分から声をかけることはないが、それ以上に薫に声をかけてくる人は少ない。もちろん、学校に友達もほとんどいない。
だが実際はそれほどまで付き合いにくい相手ではなかった。声をかければちゃんと応えてくれるし、共通の話題さえ持てばいくらでも声をかけてくる。変わりそうにないその表情もちゃんとほころぶ。声だって弾む時はいくらでもある。
その事実を真恵と公一はよく知っていた。一つのきっかけで、どれだけでも人は変わることが出来る、という事実と共に。
「ところでサーナ。お前の方こそ勉強はいいのか? 私でよかったらいつでも教えてやるぞ」
どこかからかっているような調子を含んで、薫が真恵に向かっていった。真恵はそれに対し、心持ち身を引いていた。
「勉強? なんで私が……」
「この間の中間テスト、散々だったんだろう? リーツェが呆れ返っていたぞ」
家屋敷の主人宍戸律子――リーツェ――二十一歳は、四人の中学生の保護者でもある。保護者である彼女に学生である四人がテストの結果を報告するのは決められたこと。
この間の真恵のテストの結果を見て、彼女は薫にいったのだ。よかったら真恵の勉強を見てやってくれないか、と。
そのことを薫は真恵に告げる。
途端、真恵の口端はひくついた。視線が挙動不審に空を彷徨い始める。
「べ、勉強……? 大丈夫よ、うん。平気。一人でなんとかするから」
「その前もそういったと聞いたが?」
「…………」
「特に英語がひどいらしいな。英語を重点的に見てあげるよ」
とうとう真恵の動きはオールストップ。
上体を引き、口端を引きつらせ、視線を右斜め下の遠い地面に落したまま、動けなくなる。
かすかに静寂の時が三人の間を抜けていく。と、
「……だって、しょうがないじゃないの……。私、六大来てからまだ一年なのよ。その前に一年勉強していたとしても、あわせて二年。まだ日本語でも時々分かんない言葉があるのに、その上英語を覚えろだなんて……無理、でしょ?」
静かに弁解。
薫を上目遣いで見ている。だが、
「日本語はもう大丈夫じゃないか。それにそんなことをいったら、レイとコウイもサーナと全く同じ条件下にいるのだが?」
真恵の甘えなど薫には全く通用しない。極めて正論で返されてしまう。
そして薫の隣では、同い年で自分より背の低い、年令以上に子供じみた顔の公一が「そうだそうだ」とはやしたてている。
そんな公一に対して、真恵は心の中で煮えたぎるものを感じた。
きっと双眸を向ける。肩をいからせて、また、声を上げるのだ。
「なによっ。仕方ないじゃないのよっ。だって私、公一ほど要領よくないし、レイほど生真面目じゃないしっ。日本語自体覚えたてなのよ!? そんな人間が続けてもう一つの言葉、覚えられるわけないじゃないのっ」
いい切る。前で二人は閉口。
が、その沈黙はあまりにもあっけないもの――。
「出来ないのは仕方ないが、努力は惜しむべきではないな」
断定――玉砕。
全身から力が抜けていく。
薫相手に口で勝てるはずがないのだ。真恵はとっさに方向転換を図ることにした。
つまり、
「……あ、そうそう。そうなの、そうなのよ。私ね、実はレイに勉強教えてもらう約束したのよ! ほら、私もね、ちゃんとやらなきゃなぁって思ったから、レイに教えてって頼んだのよね。あら、いやだ。そういえばこれから教えてくれる約束だったわ。こんなことしている場合じゃないのよね。うん。それじゃ、お先に!」
――逃走。
真恵は二人に口出しさせる暇を与える事無く、家屋敷向かってかけていってしまう。
「――なあ、クァロ。あいつ本当にそんな約束したと思うか?」
「まさか。狂言だろう。しかし、惜しかったな。逃げられたか」
「何が?」
「サーナの家庭教師を引き受ける代わりに、こずかい、月に二千円アップ、だったんだが」
「……そんな取引が……?」
「惜しかったな」
「…………」
「ああ、本当に、惜しかった」