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その瞬間、幻想の世界は崩壊すると思われた。
真恵は解き放たれた。『魔』の呪縛から逃れた。だから――しかし。
水色の空間が剥がれ落ちていっても、玲司と真恵は乳白色の世界に改めて包み込まれただけで、抜け出すことは出来ていなかった。
もう、ここから出られてもいいはずだ。真恵は自ら作り出した幻を打ち破ったのだから――と、玲司は思考した。
お互いの手を握り締めたまま、二人は立ちつくして辺りを見渡すしかなかった。
なぜ出られないのか、その理由が見当もつかないのだ。
「どういうこと? ここ、さっきまでいた場所じゃない」
真恵のその呟きに玲司は息をのんだ。彼女の顔を目にし、確信をもっていることを確かめると血の気を失った。
『魔』と同調し、自らが作り出した幻想の中でもだえていた真恵。その幻の世界は、もう壊れてなくなっているはずだ。現にこうして、真恵は正気を取り戻している。
なのに、現実の世界の戻れないということはどういうことだ?
まだ、幻想は完全には打ち破られていない?
自分達は、出口を見失ったのか……?
と、いずこからともなく響いてくる、声。
――ヒトリニシナイデ――
――ソバニイテ――
――オネガイダカラ――
「なにこれ……!」
無機質な、抑揚のない口調。
それが不気味に耳に届いた。
玲司は真恵と共に辺りに視線を巡らせた。
上下左右、三百六十度が確定されない世界。
不確かな、世界。
何もない空間に向けて、必死になって目を凝らす。
――ヒトリニシナイデ――
――サビシイノハイヤ――
――カナシイノハイヤ――
――ツライノハイヤ――
――ダレカ、ワタシノソバニ――
声は、響く。
いずこからともなく声は降ってくるというのに、目は乳白色の空気以外、何一つ映し出しはしない。
それでも玲司と真恵が視線を走らせるのは、間違いなく何かが迫ってきていると――自分達に向かって近づいてきていると――そんな圧迫感を、ひしと肌にしているからだ。
自分達は、乳白色の世界に包まれている。
思考がその先に至ったとき、玲司は確実に危険を感じ取っていた。
真恵にしても、その思いは同じものだったようだ。繋いだ手をぎゅっと握ってきたので、玲司は彼女に目を当てた。
青ざめた顔色の彼女は、虚空と向き合い、叫んだ。
「……違うわ! 私はもう、あなたと共感なんかしない!」
そこに誰かが、何かがあったのかと、反射的に神経を走らせた。が、どれだけ神経の端を尖らせようとも、引っかかってくるものは何一つなかった。
それでも、真恵は声をあげる。
「私はもう一人じゃないもの。寂しくなんかないもの!」
――ウソツキ――
「嘘じゃない!」
――ウソツキ――
「嘘じゃないもの!」
声を荒げる彼女が、よりいっそう玲司の手を握り締めた。
だんだん汗ばんでくる手を、玲司もまた強く握り返す。
「嘘じゃない、サーナには僕がいる」
「そうよ! 私にはレイがいるもの! それに、レイには私がいる!」
――サビシイ――
「寂しくなんかない!」
――ヒトリハイヤ――
「もう一人じゃない!」
――ダレモソバニイナイ――
「いるわ! レイがいる!」
――サビシイ――
「寂しくなんかないっ!」
真恵の声は震えていた。
最初は苛立ちゆえかと思われたが、その暫定的な結論に、すぐさま玲司は違和感を覚えた。
苛立ちのためだけにしては、真恵の震えは異常だった。
それと、彼女の必死の形相に。
――サビシイ――
「うるさい!!」
ああ、そうか、と。
なぜ彼女がこれほどまでに反響する声を否定し続けなければならないのか、その理由が。
わかった。
声の主は、つい先ほどまで共感し、同調していた相手。意識を乗っ取られてまでも力を注いできた相手。
だから、再び引きずり込まれるのではないかという、危惧。
怖い、のだ。
真恵も、声の主も。
また自分を失ってしまうのではないかという不安と、また一人になってしまうのではないかという、恐怖――。
乳白色の空気しかないこの世界では、安定したものなど望めないから。
三百六十度、すべてが地であり、天。
この世界は、そんな混沌。
真恵も、自分も、知らず知らずのうちに自らの中に潜ませる、そのような、もの。
抜け出さなければ――。
両眼を伏せ、玲司は精神を統一した。
響き渡る無機質な声と、対抗する真恵の叫び。
それらから意識を引き剥がし、玲司は確実な物を求めた。
不安を払拭する、何か。
不安定な場を、確実なものにする、何か――。
玲司は、求めた。