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月夜の兎  作者: 望月あさら
■ 4 ■
30/36

4-3

 気が付くと、玲司は水色の空気に充たされた空間に立っていた。

 いや、立っていたという表現は的確ではない。なぜなら玲司の足元には踏みしめているはずの地面がなかったから。

 自分の爪先はよく見えた。だが、その下にあるのはやはり水色の空気であって、地面のようなものは見受けられなかった。

 辺りを見渡すと、天も壁もなかった。何もなかった。ただ、その空間だけがあった。

 空間――真恵の意識下が具象化した場所。

 そこに玲司は入り込んだのだ。

 真恵を守る『光の精霊』と、自分に従う『光の精霊』を同化させ、自分を中に滑り込ませた。

 この場所の意識が、自らの力を『魔』に喰わせている。この場所の意識を救ってやらなければならない――。

 暫らく玲司は水色のその場で立ち尽くした。すると、どこからか音が聞こえてきた。

 それまでは音らしい音はなかったと、その時はじめて気が付いた。

 耳を澄ませると、それが笑い声であることを知った。

 幼子達の、声。

 いくつもいくつも重なり合い、共鳴し合い、空間内に響き渡った。

 少し反響する音の中に身を置けば、最早、声はどこから響いてくるのか、その方向すらわからない。

 無数の、声。

 不意に、ウフフ、と、誰かが耳元で笑ったような気がして、咄嗟に玲司は振り返った。

 背後には誰もいない――いや、いた。

 眼前に、家。大きなレンガ造りの家が、水色の空間の中で浮かんでいた。扉口の上には、ユリのような花の形をあしらった木彫りの彫刻が掲げられている。

 そのような家の花の咲き誇る庭に、十数人ほどの幼子達が輪になって群がっていた。

 円の中心には、地に腰を下ろした一人の女性。そこに何があるのだろう、と、玲司は知らず知らずのうちに足を進めていた。近づいていく玲司に、誰一人として目を向けはしない。

 外から、中をのぞきこんだ。皆が見ているのは、中心に位置する女性の、腕の中。

 小さな小さな赤子。

 黒にしては薄い色彩の目を大きく見開き、天を見つめている。

「子のこの名前はなんていうの?」

 と、子供達のうちの誰かがいった。

「そうね、」

 と、赤子を抱く女性が視線を上げた。

 向ける先は、扉口の上。花の形をあしらった彫刻。

 彼女に習うように視線を動かした玲司は、その彫刻の形に見覚えがあると思った。あれは確か――『水の大陸』で広く信仰されている宗教の、シンボル。それを掲げているということは、ここは教会か? いや、孤児院?

 そうだとすると――、

「そうね、この子の名前は――」

「……サーナ?」



「そう、私」



 玲司の呟きに呼応する声は、突如真横から発せられた。

 目をむければ、そこにいたのはサーナだった。今現在のサーナよりも幼い――おそらく、玲司と出会った頃と同じぐらいの、サーナ。

 サーナはじっと、赤子である自分を見ていた。その双眸には、玲司のよく知る力強いきらめきはない。今にも涙が零れ落ちそうなほどに潤んだ瞳。おびえているかのように震える、声。

「あれは私。生まれたばかりの私。捨てられたばかりの私。拾われたばかりの私。名前を呼ばれた、瞬間」

 意識を赤子を中心に群がる子供達に戻すと、彼らは口々に「サーナ」「サーナ」と名を呼んでいた。

 これが、サーナがはじめて名前を呼ばれた瞬間? だけど、このときの記憶がサーナにあるはずはない。だったら、この情景は――。

「そう。私にはこのときに記憶はないわ。でも、記憶がなくても、何度も聞いた。色んな人に聞いた。どうして私がそこにいたのか、そうして私が博愛の女神と同じ名前なのか」

 「ねえ、こっちにきて」、と。

 彼女が踵を返すのについていこうと、玲司も孤児院の情景に背を向けた。

 途端、背後の想像の景色は、シャボン玉が割れるようにはじけ飛んだ。飛び散った色たちがざっと空間を滑り落ち、いずこかへと消え去っていく。

「さっき見たのは想像。でも、これは事実」

 まっすぐに見つめ、彼女が指差す先には、またしても孤児院。

 外から駆け込んでくる少女が一人、家の中から出てきた女性によっていく。

 その少女に続いて庭に飛び込んできたのは、二人の少女と、彼女達の両腕を捕らえられている――サーナ。

 四、五歳の彼女。

 真っ先に孤児院に入った少女が、先生と呼ぶ女性に息せき切って告げた。

「サーナね、凄いのよ! 『光の精霊』操れるの! 『精霊』と契約結んでいるのよ!」

 女性は驚いた表情を見せ、目の前に歩みでたサーナに向かった。

「本当なの、サーナ?」

「先生、本当よぉっ。私たちこの目で見たもの!」

 興奮しきった友人の言。それに答えるかのように、彼女の大きな目が、くるり、と色を変えた。

 勝気で強い意思の宿った瞳。

「本当よ。大したことじゃないわ」

 その台詞は、玲司の隣からのものだった。

 玲司と共にいる、潤んだ瞳のサーナ。

 繰り広げられている情景のサーナとは、合致するとは思えないほど様子の違うサーナ。

「私はね、そういったのよ。だって本当に、何が凄いかわからなかったんですもの。どうやったら『精霊』と契約が結べるのかなんて、聞かれても答えられなかった。気が付いたときには『精霊』と契約を結んでいたから。それに――『精霊』を操れたからって、それの何が凄いのか、さっぱりわからなかった。わからなかったから――だから。私は王宮に行った」

 「こっち」と。

 玲司を見上げることもなくサーナは歩み出す。背を向けても今の情景は弾け飛びはしなかった。

 すぐそばに孤児院がもう一つあったが、サーナはそれを無視した。移動しながらもその孤児院を注視すると、家の中からは荷物を担いだ小さなサーナが出てきたところだった。

 ぞろぞろと彼女の背後をついてきた大人や子供達に頭を下げると外に向かった。門では、一人の男性がサーナのことを待っていた。

 彼の服の胸元には『土の大陸』の王宮の文様。

 王宮に向かったときのことだ、と、玲司はすぐに気が付いた。

 玲司を先導していたサーナは、一つの情景の前で足を止めていた。

 最早目の前で繰り広げられているのは孤児院のものではない。玲司も見慣れた場所――王宮内の、教室。

 机についている幼いサーナがいた。

 その周りには彼女と同年代の数人の研修生たち。

 その中の女の子の一人が、呟くように声をだした。

「私、駄目だわ。近頃授業についていけない。『精霊使い』の力があったって、私、弱すぎるもの。――『精霊使い』にならないで違う職業につこうかな」

 弱気な彼女に、サーナは身を乗り出す。

「なにいっているのよ! 大丈夫よ。ついてこれてないことないでしょ? 今が駄目でも、そのうちちゃんとできるようになるって」

 強く励ますようにサーナはいった。まっすぐに彼女を見つめ、学友を立ち直らせようとした。だが。

「サーナだからそんなこといえるのよ」

 鋭い一言は、サーナの前の席からもたらされた。驚くサーナを振りかえる彼女。

「サーナはいいわよ。『精霊使い』としての力は強いし、『浄化力』まである。私たちの悩みは、特別なサーナには分からないわ」

 情景の中のサーナは口をつぐんだ。険しくなった双眸を彼女達からはずし、肘をつく机を睨みつけた。

 沈黙、した。

「特別って、何?」

 真横からの、微妙に振動する声。

 玲司は彼女の呟きを耳にするだけで、目の前のうつむくサーナから視線を動かせない。

 隣のサーナは、言葉を続ける。

「確かにあの時、私にはあの子達のいっていることが、悩んでいることがわからなかった。でも、それは私が特別だから? だから悩まずにいられたってこと? ――私にはわからなかった。あの子たちにいわれて、よくわからないけど、悔しかった。何もいい返せなくて、歯がゆかった」

「…………」

 再び移動を開始する彼女。

 と、目の前の情景の中、変化があった。教室に教師が現れたのだ。二人の学友達は何事もなかったかのように授業を受ける体勢に入った。サーナは下げていた視線を上げた。強くきらめく、自信を漲らせた厳しい眼差しを、まっすぐに教師に当てていた。

 玲司は、その情景の前をも後にした。

 移動するサーナの向かう先に、今までのような風景は何もありはしなかった。

 あるのは、水色の虚空。

 右も左も、上も下もわからないような、ぽっかりとした空間。彼女のあとをついて歩いているだけのはずの玲司は、平衡感覚を失っていた。

 現に、まっすぐに進んでいたつもりであったのに、ふと頭上を見上げたなら、そこには孤児院が――二番目に見た情景が逆さになって浮いていた。

「これがね、最後」

 足を止めたサーナの言。

 何もなかったはずの前方には、目を凝らせばぼんやりとしたシルエットが見えてきた。

 徐々に形をなすそれは、またしても玲司の見慣れた景色だった。

 場所は――学校内の、庭。

 緑あふれるその場所の中に一人、佇んでいる者がいる。

 サーナ、ではない。

 真っ黒の髪、橙色の肌。

 あれは。

「僕だ」

 では、サーナはどこに?

 横に並ぶ彼女の見つめる先をなぞっていくと木の陰に辿り付いた。よりいっそう目を凝らせば、人影が浮かび上がってくる。それがサーナだ。

 隣のサーナと同じ背格好の。

 だとすれば、目の前の情景は自分と彼女が出会った頃のもの?

 情景の中のレイは、庭で一人、ただ佇んでいた。足元の地面に視線を落とし、両腕をだらりと下げ、ただじっと。

 その場に他の研修生が三人、姿を現した。

 声高におしゃべりしながらやってきた彼女達は、一人そこにいたレイを見つけると急に口をつぐんだ。哀れむ光を宿した目をお互いに向け、立ち去っていく。

 サーナは木陰から、その様子をじっと見ていた。

 動かない、情景の中のレイとサーナ。

 過ぎ去りし日の自分は、立ち尽くして泣いているのだと玲司は思った。

 あの頃の自分はうまく泣くことすら出来なかった。無言で悲しみを抱えることしか出来なかった。

 では、サーナは? サーナは何をしている?

 どうしてそこで立っている?

 どうしてじっとレイを見ている?



「特別ぶって、甘えているんじゃないわよ」



 辛らつな一言は、真横からのものだった。目を向けると、ずっと自分を導いてきたサーナは、今にも涙をあふれさせんばかりに両眼を潤ませていた。が、それとは対照的に、口調は鋭利な刺を持つ。

「レイは不幸な子だったわ。ええ。彼の過去は、とってもかわいそうなものだった。でも、だから何? 不幸だったら甘えてもいいというの? 彼を不幸だと思ったからこそ、みんな優しくしてあげようとした。でも彼はその優しさに甘えるだけで応えようとはしなかった。冷ややかに見ているだけで、優しくされるのは当然っていう顔をしていた。そんな彼が、私には許せなかった」

 玲司は彼女に反論しなかった。

 そうではないということは出来たが、この状況下、否定の句を口にすることは憚われた。

 サーナはもう一度、口を開く。

「レイが現れるまで、私は特別で幸せな子だったわ。力があった、居場所があった、友達がいた。全部、全部手にしていた。周りにいる子がうらやむ物を、全部よ。――だけど! レイは違った。ろくな力もなくって、居場所もなくって、友達もいない、特別で不幸な子……! 彼は特別で不幸だった。だから学校に来た。特別で不幸だったから全部を手に入れる機会を得た。なのに彼は、その全てを拒絶した――!!」

「…………」

「彼が許せなかった。絶対に許せなかった。だって、彼は私が必死で手に入れたもの、その全てを否定したんですもの。嫌うしかなかったの。憎むしかなかったの。彼を否定するしかなかったの。そうやって立っていることしか出来なかったの! ――……だけど……だけどね……」

 悲痛な声をあげうつむくサーナ。

 玲司はそんな彼女を見下ろし、そして、足元の異変に気を止めた。

 ぼんやりとした水色の空気だけがあるはずだった。しかしそこに、またしても情景が浮かび上がり始めた。上から眺めている、景色。

 見覚えがある、と玲司は思った。場所はすぐにわかった。リル=ウォーク市街。その居住区。

 情景の中央に据えられているのは、家ではなく、道だ。そこで行われている――戦闘?

 ……あの時の、『魔』との戦い……?

 目を凝らせば、傷ついた自分がいた、サーナがいた。そして、父を殺した『魔』がいた。

 懸命になって、死をも覚悟して戦った自分たち。

 あのときの情景が、足元にまざまざとよみがえる。

「だけど……私は憎めなかった。どれだけ思い込んでみようとしても駄目だった。どうしても本気で嫌いになれなかった……だって、レイって、彼って……本当に一人ぼっちで、かわいそうだったんだもの――」

 ぽろん、と。

 サーナの大きな双眸から、涙が零れ落ちた。

 足元で、あたかも地面があるかのように弾け飛ぶと、玲司の四方を取り囲んでいた過去の情景たちも歪み、ざっと流れ、跡形もなく消え去っていった。

 残ったのは果てのない静寂と、玲司と、すすり泣くサーナだけ。

「サーナ」

 玲司は、彼女の名をやわらかく口にすると、膝を折った。

 目の高さを幼い彼女と同じにして、サーナの頭をそっとなでた。

 手には確かな感触があった。サーナの、細く、やわらかく、繊細な髪。

「ありがとう、サーナ。あの時僕を助けてくれて」

 涙をこぼしながらも彼女は顔を上げた。大きく見開く目が、玲司を捉えていた。

「僕はね、君に救ってもらって、本当によかったと思っている。君がいなかったら、僕は多分生きていられなかっただろうし、それに、例え生きていたとしても、今のように、楽しさや幸せを感じることは、なかったと思う」

 不安と隣り合わせだったあの頃。

 レイが本当に欲しかったのは、優しい言葉でも哀れみでも、力でも居場所でもなかった。

 欲しかったものは、ただ一つ。

 無限に広がっていく不安を取り除く、その――。

「サーナは、僕にくれた。だから、僕もサーナにあげるよ。サーナが必要とするのなら、いつでも、いくらでもあげるよ」

 玲司は片手を、顔の前に掲げた。

 それを見て、サーナは涙を止めた。

 大きな目を、ますます見開いた。

 震える声を、絞りだした。

「……本当に?」

 差し出された手を見つめつつ、揺らぐ声でサーナは訊ねた。

 「本当だよ」と答えると、サーナは再び「本当に?」と肩を震わせた。

 だから玲司は、頷いた。

 微笑んだ。

「本当だよ。信じて」

 サーナの涙が止まる。

 ゆっくりと、手と手が近づいていく。

 恐る恐る、細い指を伸ばし、そして彼女は、玲司の小指に自分の小指を絡ませた。

 ぎゅっと、確かめるように、強く絡ませた。

「君も、一人で寂しかったんだよね」

 欲しかったものは、ただ一つ。

 確実なもの。

 裏切られない、約束――。

「うん。ありがとう、レイ」

 微笑み返す彼女は、今の真恵。

 彼女が笑った途端、水色の世界は、流れ落ちた。

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