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月夜の兎  作者: 望月あさら
■ 3 ■
26/36

3-12

 『魔』の攻撃は止まない。

 『魔』の両手から放たれる空気の渦は、幾度となくレイの背を直撃していた。

 背中が痛んだ。ずきずきと、悲鳴を上げていた。

 レイに平衡感覚は最早ほとんどない。それでも地に横たわる事無く、膝をつき上半身を起こしていられるのは、絶対に倒れるわけにはいかないという思いからだった。

 まだ、倒れるわけにはいかない。

「!」

 いく度目かの衝撃がレイの背を襲った。声は上げない。上げたくても、上げている暇などありはしない。

 全身が振動する。平衡を崩しそうになるが、目を見開いて必死になって堪える。

 左手は、地面に置かれていた。右手は、目の前にいる彼女の肩の上にあった。

 空気の渦の衝撃が一旦途絶えると、レイは右手でその彼女の肩を押した。しかし、彼女はレイの肩に両腕を回し、重力に従い落ちようとするレイの頭を支えるかのようにしたまま、離れようとはしなかった。

「……早く、逃げて……」

 もう一度、口にする。

 わずかに喉を震わせるだけで背中の傷はうずいた。痛みを堪えるかわりに額から汗は流れ落ち、それと同じように背中から血が流れ出ているのを感じた。

 苦しかった。今まで何度も苦しい思いはしてきたが、このような直接肉体に――肉体だけに訴えてくる苦しみは初めてだった。いつも苦しみは、精神的な苦しみか、精神的な苦しみと共にくる肉体的な苦しみだった。だからレイはいつも心を閉ざしていた。何も感じないようにしていた。感情というものを捨てようとした。そうすれば、精神の苦しみは和らぎ、苦しみ自体が和らぐように思えたから。肉体への苦しみにも、何も感じないでいられたから。

 だが今回は違った。精神的苦しみはほとんどない。それは自分が自分の行く末を決め、迷わずそれに向かっていこうとしているからだ。人から与えられた道ではなく、自分で選択した道をとろうとしているからだ。この先には満足感があるのだろうと思えるからだ。

 だから、レイは耐えた。意識を手放してしまうことは簡単で、以前なら迷わずそうしていたが、今は違った。耐えることが出来た。苦痛を甘んじて受けることに屈辱はなかった。彼女が逃げるまでは堪えるのだと、強く思った。

 苦しくても。

 自分の目の前で人が倒れる姿は、もう見たくなかった。

 だから、だから。

 自分の体が駄目になる前に、早く、逃げて。

 早く、逃げてほしい。

 あの人の狙いは自分であって、君ではない。

 君は巻き込まれただけで、本来関係などない。君までが、ここで犠牲になる必要はない。

 だから、逃げて。

 もう一度、肩を押す。

 自分が出来るのは、それだけだから。

 こうして自分の身をなげうって、彼女を危機から救うことだけだから。

 だから。

 その時、彼女が身動いだ。

 肩に絡まっていた腕がすっと背に回ると、やわらかく体を包み込もうとする。一瞬後、その腕は傷を刺激しないように力を込めた。そして、

「わが名はサーナ。我に従う『光の精霊』よ、わが声を聞け。『結界』!」

 見えない盾が二人を囲う。そう、彼女が逃げるための『結界』ではない。二人を再び守ろうとする『結界』。二人ともが標的になる『結界』。

 なぜ!

「――なぜ!?」

「私、逃げないからね! 君を置いて、逃げないから!」

 彼女の息も絶え絶えだ。体力をほとんど使い果し、言葉を絞りだすことすら厳しいはずなのに、その上、『結界』?

 どうして!

 どうして嫌いな人間のことをそんなにして守る必要がある!?

「君を置いていって死なれた日には夢見が悪いったら! 冗談じゃないわ! 私の心、そんなに図太く出来ていないんだから!」

「けど、あの人は――」

 そう、あの人は。

 自分を狙ってきたはず。自分だけが、目標のはず。

「あの人が何なのか知らないけど、君が何考えているのかさっぱり私には分かんないけどっ。けどね、君にここで死んでもらったらはっきりいって困るのよっ」

 彼女はいう。

 口調はどこか怒ってすらいる。そして彼女はそんな中で、レイに宣告するするのだ。

「はっきりいって私、君に死んでほしくないのよ!」

 死んで、ほしくない……?

 自分のことが、嫌いなのに……?



 〈――汝、名を申せ――〉



 多分それは、自分が目の前で死んだら気持ち悪いからだ。

 そうだ。彼女も人間。目の前で人死にされて、平常心でいられるはずがない。夢の中にぐらい、出てくるかもしれない。

 しかも、死ぬのは嫌いな相手。

 そんな人のために気持ち悪くなるなど、許せないだろう。

 そうだ。



 〈我は、『地の精霊』。汝、名を――〉



 やっぱり、彼女は逃げたほうがいい。

 彼女は、生き延びるべき人なんだ。

 彼女には力があると聞いた。自分なんかよりよっぽど人の役に立てる人。

 それに、彼女はみんなに愛されている。

 自分なんかと違って、彼女は――。



 〈汝、名を申せ――〉



「……お願いだ。逃げてよ……」

「逃げないっていってるでしょ!? そんなに逃げてほしいその理由は一体何なのよっ」

 理由? 理由など、分かり切っている。

「だって君は……君が傷つくと、たくさんの人が悲しむことになる」

 たくさんの人が、悲しい思いをすることになる。彼女のために涙を流すことになる。

 けれど、僕が傷ついても泣く人はいない。

 前の家でもそうだった。毎日毎日傷を作り、あざを作っていたけれど、誰も涙など流してくれなかった。

 自分はそういう人間なんだと感じた。自分が傷ついても誰も悲しむ必要のない人種の人間なのだと。

「……だってって……なに、それ?」

 彼女の両眼は見開かれ、レイを見ていた。レイはその目を見つめる、もう一度逃げてと口にしようとした。が、その前に、彼女の声は紡ぎだされる。

「何よ……なんなのよ、それ。私が傷つくとたくさんの人が悲しむって……当たり前じゃない! 当たり前なのよ! そんなのが理由になるわけないじゃない! どうしてそれが理由になるって――!」

 彼女が息を飲んだ。

 『結界』という隔離された空間の中、サーナの瞳がきらめく。途端、『結界』が弾けた。再び、衝撃がレイの背を襲う。

「!」

「きゃぁっ!」

 確実に地面に向かって倒れこんでいくところ、サーナがレイの体を受けとめていた。

 直後、サーナはまた『結界』を張りなおす。

「サーナ……!」

 なぜ逃げないのかと問うと同時に彼女の顔に目を向けようとした。しかし、それより先にレイの体は半回転して地に落ちていた。目の前にはサーナの顔。彼女が肩に腕を絡ませ体をひねり、レイを落としたのだ。

 サーナが『魔』に対してレイよりも前に出る。レイを守るように、『魔』に正面を向ける。

 彼女にはもう体力がないというのに……!

「サーナ!?」

「君が傷ついて誰も悲しまないわけがないでしょう? バカじゃないの、あんた。少なくとも、私が泣くっていってるの、分かんないの!?」



 〈――汝、名を申せ〉



 彼女が、泣く?

 彼女が、自分のために泣く?

 彼女が、――。



〈汝、名は?〉



 分からない。彼女が何を意図しているのか、分からない。

 なんで、自分のためなんかに。

 なんで、自分のために。

 なんで……。



〈汝、名は?〉



 うるさいよ、『精霊』。



〈汝、名は?〉



 いいや。

 やはり、彼女は死んでは駄目だ。

 彼女は逃げなければならない。

 彼女は生きなければならない――。

「逃げて……」

「逃げないって、いってるでしょう!? ああ! なんでそんなところで頑固なのよ! いい!? 逃げないっていっても、私は別に死んでもいいなんて思ってないのよ! 私は生き延びるわ。ええ、絶対! こんな所で死んでたまるもんですか! だから、あなたも生きるのよ! 目の前の『魔』倒して、生き延びてやるのよ!」

 生き延びる。生きる。

 『魔』を倒して、生きる……?

 無茶だ。

 彼女には体力がない。『魔』を倒せるほどの力がもう残っていない。

 倒して生き延びるなど無理だ。

 彼女は必死に『結界』を支えていた。視線は『魔』の動向を追っている。空気の塊を幾度か『結界』に叩きつけてくる『魔』。瞳が妖しい光に満ちている。

「レイ、聞いて! 今から私が『精霊』で『魔』の気を引くわ。だから君は、隙見てあの『魔』を『浄化』して!」

 サーナの告げた作戦にレイは恐怖した。

 無理だと瞬間的に思った。

 そんな作戦は成功しない、自分に『浄化』など出来はしない、と。

 確かに自分は過去に『浄化』をしたことがある。しかしそれは勝手に出来てしまったものであって、意識的に発動させたものではないのだ。今だにどうすれば『浄化』できるかなど分かっていない。

 なのに『浄化』をしろなど……無理だ!

「君は仮にも学校の研修生でしょう、『浄化者』でしょう!? なんで出来ないことがあるのよ! それに、生き延びるにはそれしか方法がないんだから、仕方ないじゃないの! 二人で生き延びるにはそうするしかないんだから、仕方ないじゃないのっ!」

 二人で、生き延びる――。

 いいのに。いいのに。

 僕は、いいのに。

 なぜ君は、そんなに一生懸命になって――。

「行くわよ!」

 『結界』を解き、駆け出す彼女。

 案の定、『魔』は彼女の姿をとらえた。

 彼女の突然の動向に戸惑いを隠せない『魔』は、回り込もうとする動きをみせる彼女を目で追っていく。

 途端、

「『光の精霊』!」

 光の玉。

 それが彼女の差し出された両手の上に現われたかと思うと、一直線に『魔』を襲った。

 『魔』に激突したところで玉は四散する。

 『魔』の足がよろめいた。が、彼女も踏み止まり、サーナに向けて手を差し出した。

 片手。

 そこに空気が集約され、渦を巻き、放たれる。

 サーナの胸の前。

 サーナはとっさに体を捻るが避けきれない。正面にそれを食らってしまう。

「!」

 彼女が吹き飛ばされた。白い家の壁に叩きつけられる。線の細いその体が力なく地面に向かって落ちていく。

「――!!」



 〈汝、名は――?〉



 動いて。

 願った。



 〈汝、名は?〉



 動いて。

 恐かった。

 目の前で崩れ落ちる身体。

 もう嫌だと思っていた。

 もう二度と目にはしたくないと思っていた。

 自分の目の前で人が倒れる。

 その、おぞましさ。気持ち悪さ。



 〈汝、名は?〉



 嫌だ。

 絶対に、嫌だ。

 動いて。

 お願いだから。

 動いて。

 絶対に。



 〈汝、名は?〉



「……し……っ」

 地に俯せる身体。

 投げ出された手。指の先。

 求めるのは僅かな動きだけなのに。

 ほんの少しの力だけなのに。

 お願いだから。



 〈汝、名は?〉



「……し……なない、で……」

 全身を悪寒が駆け抜けた。

 その瞬間。



 〈汝、名は――?〉



「お前は彼女を見殺しにする気か!?」

 声がしたのだ。

 知らない声だ。女の人の声だ。

 反射的に顔を上げた。

 屋根の上。

 真っ青の空を背負って、三人の人がそこにいた。その中の一人が、レイに向かって口を開いている。

「お前には『精霊』が呼び掛けているのだろう? なぜ『精霊』を呼ばない? 『精霊』を呼べはお前は勝てる。彼女も救える。なのにお前は『精霊』に応えず、彼女を見殺しにする気なのか!?」

 見殺しに? そう。見殺し。けど、自分でも救える? 彼女を、救える?

 どうして――。

「お前は、自分の下手な価値観だけで彼女の命を奪う気なのか!」

「――――」

 真正面から『魔』が駆けてきていた。

 自分を喰おうと、駆けてきていた。

 妖しい光を湛える瞳。異様に伸びた十の爪。本来人間にはありえない上下の牙。

 それらが迫ってくる。

 自分の真正面から。

 自分の力を喰おうとして。

 両の腕を自分の首元に伸ばし。

 『魔』が来る。

 『魔』が迫り来る。

 『魔』が、来る。

 『魔』が、迫ってくる……!

「……父さん……」

 自分は知っていた。一目見て分かっていた。 この『魔』は自分の父親なのだと。自分の父親を殺した『魔』なのだと。自分が以前、完全に『浄化』しそこねた『魔』なのだと。

 そして、取りついたはずの父親の信念に逆に取りつかれた『魔』なのだと。

 父の、信念に――。



 ――レイ――。



 だから、この『魔』は自分の呼び掛けで姿を現した。

 だから、自分はこの『魔』に殺されようと思った。

 この『魔』になら命を奪われても悲しくないと。この『魔』になら、自分は――。



 ――父さん――。



 迫る、『魔』。

 首に絡み付く、指。

 締め上げる、指。

 食い込む、指。

 自分の両眼を覗き込む、狂気の光。

 息が、止まる。



 〈――汝、名は――?〉



 息が、止まる――。



 〈――汝、名は――?〉



「――――。僕は、……レイ」



 為されたのは契約。

 『精霊』と人間との、聖なる契約。

 同時にしかれたのは、『結界』。

 契約者の身を守り、『魔』をはじき出す『結界』。

 それと、

「『浄化』」

 完全なる『浄化』。消滅。

 瞬時にして、『魔』の存在は消え失せる。

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