3-12
『魔』の攻撃は止まない。
『魔』の両手から放たれる空気の渦は、幾度となくレイの背を直撃していた。
背中が痛んだ。ずきずきと、悲鳴を上げていた。
レイに平衡感覚は最早ほとんどない。それでも地に横たわる事無く、膝をつき上半身を起こしていられるのは、絶対に倒れるわけにはいかないという思いからだった。
まだ、倒れるわけにはいかない。
「!」
いく度目かの衝撃がレイの背を襲った。声は上げない。上げたくても、上げている暇などありはしない。
全身が振動する。平衡を崩しそうになるが、目を見開いて必死になって堪える。
左手は、地面に置かれていた。右手は、目の前にいる彼女の肩の上にあった。
空気の渦の衝撃が一旦途絶えると、レイは右手でその彼女の肩を押した。しかし、彼女はレイの肩に両腕を回し、重力に従い落ちようとするレイの頭を支えるかのようにしたまま、離れようとはしなかった。
「……早く、逃げて……」
もう一度、口にする。
わずかに喉を震わせるだけで背中の傷はうずいた。痛みを堪えるかわりに額から汗は流れ落ち、それと同じように背中から血が流れ出ているのを感じた。
苦しかった。今まで何度も苦しい思いはしてきたが、このような直接肉体に――肉体だけに訴えてくる苦しみは初めてだった。いつも苦しみは、精神的な苦しみか、精神的な苦しみと共にくる肉体的な苦しみだった。だからレイはいつも心を閉ざしていた。何も感じないようにしていた。感情というものを捨てようとした。そうすれば、精神の苦しみは和らぎ、苦しみ自体が和らぐように思えたから。肉体への苦しみにも、何も感じないでいられたから。
だが今回は違った。精神的苦しみはほとんどない。それは自分が自分の行く末を決め、迷わずそれに向かっていこうとしているからだ。人から与えられた道ではなく、自分で選択した道をとろうとしているからだ。この先には満足感があるのだろうと思えるからだ。
だから、レイは耐えた。意識を手放してしまうことは簡単で、以前なら迷わずそうしていたが、今は違った。耐えることが出来た。苦痛を甘んじて受けることに屈辱はなかった。彼女が逃げるまでは堪えるのだと、強く思った。
苦しくても。
自分の目の前で人が倒れる姿は、もう見たくなかった。
だから、だから。
自分の体が駄目になる前に、早く、逃げて。
早く、逃げてほしい。
あの人の狙いは自分であって、君ではない。
君は巻き込まれただけで、本来関係などない。君までが、ここで犠牲になる必要はない。
だから、逃げて。
もう一度、肩を押す。
自分が出来るのは、それだけだから。
こうして自分の身をなげうって、彼女を危機から救うことだけだから。
だから。
その時、彼女が身動いだ。
肩に絡まっていた腕がすっと背に回ると、やわらかく体を包み込もうとする。一瞬後、その腕は傷を刺激しないように力を込めた。そして、
「わが名はサーナ。我に従う『光の精霊』よ、わが声を聞け。『結界』!」
見えない盾が二人を囲う。そう、彼女が逃げるための『結界』ではない。二人を再び守ろうとする『結界』。二人ともが標的になる『結界』。
なぜ!
「――なぜ!?」
「私、逃げないからね! 君を置いて、逃げないから!」
彼女の息も絶え絶えだ。体力をほとんど使い果し、言葉を絞りだすことすら厳しいはずなのに、その上、『結界』?
どうして!
どうして嫌いな人間のことをそんなにして守る必要がある!?
「君を置いていって死なれた日には夢見が悪いったら! 冗談じゃないわ! 私の心、そんなに図太く出来ていないんだから!」
「けど、あの人は――」
そう、あの人は。
自分を狙ってきたはず。自分だけが、目標のはず。
「あの人が何なのか知らないけど、君が何考えているのかさっぱり私には分かんないけどっ。けどね、君にここで死んでもらったらはっきりいって困るのよっ」
彼女はいう。
口調はどこか怒ってすらいる。そして彼女はそんな中で、レイに宣告するするのだ。
「はっきりいって私、君に死んでほしくないのよ!」
死んで、ほしくない……?
自分のことが、嫌いなのに……?
〈――汝、名を申せ――〉
多分それは、自分が目の前で死んだら気持ち悪いからだ。
そうだ。彼女も人間。目の前で人死にされて、平常心でいられるはずがない。夢の中にぐらい、出てくるかもしれない。
しかも、死ぬのは嫌いな相手。
そんな人のために気持ち悪くなるなど、許せないだろう。
そうだ。
〈我は、『地の精霊』。汝、名を――〉
やっぱり、彼女は逃げたほうがいい。
彼女は、生き延びるべき人なんだ。
彼女には力があると聞いた。自分なんかよりよっぽど人の役に立てる人。
それに、彼女はみんなに愛されている。
自分なんかと違って、彼女は――。
〈汝、名を申せ――〉
「……お願いだ。逃げてよ……」
「逃げないっていってるでしょ!? そんなに逃げてほしいその理由は一体何なのよっ」
理由? 理由など、分かり切っている。
「だって君は……君が傷つくと、たくさんの人が悲しむことになる」
たくさんの人が、悲しい思いをすることになる。彼女のために涙を流すことになる。
けれど、僕が傷ついても泣く人はいない。
前の家でもそうだった。毎日毎日傷を作り、あざを作っていたけれど、誰も涙など流してくれなかった。
自分はそういう人間なんだと感じた。自分が傷ついても誰も悲しむ必要のない人種の人間なのだと。
「……だってって……なに、それ?」
彼女の両眼は見開かれ、レイを見ていた。レイはその目を見つめる、もう一度逃げてと口にしようとした。が、その前に、彼女の声は紡ぎだされる。
「何よ……なんなのよ、それ。私が傷つくとたくさんの人が悲しむって……当たり前じゃない! 当たり前なのよ! そんなのが理由になるわけないじゃない! どうしてそれが理由になるって――!」
彼女が息を飲んだ。
『結界』という隔離された空間の中、サーナの瞳がきらめく。途端、『結界』が弾けた。再び、衝撃がレイの背を襲う。
「!」
「きゃぁっ!」
確実に地面に向かって倒れこんでいくところ、サーナがレイの体を受けとめていた。
直後、サーナはまた『結界』を張りなおす。
「サーナ……!」
なぜ逃げないのかと問うと同時に彼女の顔に目を向けようとした。しかし、それより先にレイの体は半回転して地に落ちていた。目の前にはサーナの顔。彼女が肩に腕を絡ませ体をひねり、レイを落としたのだ。
サーナが『魔』に対してレイよりも前に出る。レイを守るように、『魔』に正面を向ける。
彼女にはもう体力がないというのに……!
「サーナ!?」
「君が傷ついて誰も悲しまないわけがないでしょう? バカじゃないの、あんた。少なくとも、私が泣くっていってるの、分かんないの!?」
〈――汝、名を申せ〉
彼女が、泣く?
彼女が、自分のために泣く?
彼女が、――。
〈汝、名は?〉
分からない。彼女が何を意図しているのか、分からない。
なんで、自分のためなんかに。
なんで、自分のために。
なんで……。
〈汝、名は?〉
うるさいよ、『精霊』。
〈汝、名は?〉
いいや。
やはり、彼女は死んでは駄目だ。
彼女は逃げなければならない。
彼女は生きなければならない――。
「逃げて……」
「逃げないって、いってるでしょう!? ああ! なんでそんなところで頑固なのよ! いい!? 逃げないっていっても、私は別に死んでもいいなんて思ってないのよ! 私は生き延びるわ。ええ、絶対! こんな所で死んでたまるもんですか! だから、あなたも生きるのよ! 目の前の『魔』倒して、生き延びてやるのよ!」
生き延びる。生きる。
『魔』を倒して、生きる……?
無茶だ。
彼女には体力がない。『魔』を倒せるほどの力がもう残っていない。
倒して生き延びるなど無理だ。
彼女は必死に『結界』を支えていた。視線は『魔』の動向を追っている。空気の塊を幾度か『結界』に叩きつけてくる『魔』。瞳が妖しい光に満ちている。
「レイ、聞いて! 今から私が『精霊』で『魔』の気を引くわ。だから君は、隙見てあの『魔』を『浄化』して!」
サーナの告げた作戦にレイは恐怖した。
無理だと瞬間的に思った。
そんな作戦は成功しない、自分に『浄化』など出来はしない、と。
確かに自分は過去に『浄化』をしたことがある。しかしそれは勝手に出来てしまったものであって、意識的に発動させたものではないのだ。今だにどうすれば『浄化』できるかなど分かっていない。
なのに『浄化』をしろなど……無理だ!
「君は仮にも学校の研修生でしょう、『浄化者』でしょう!? なんで出来ないことがあるのよ! それに、生き延びるにはそれしか方法がないんだから、仕方ないじゃないの! 二人で生き延びるにはそうするしかないんだから、仕方ないじゃないのっ!」
二人で、生き延びる――。
いいのに。いいのに。
僕は、いいのに。
なぜ君は、そんなに一生懸命になって――。
「行くわよ!」
『結界』を解き、駆け出す彼女。
案の定、『魔』は彼女の姿をとらえた。
彼女の突然の動向に戸惑いを隠せない『魔』は、回り込もうとする動きをみせる彼女を目で追っていく。
途端、
「『光の精霊』!」
光の玉。
それが彼女の差し出された両手の上に現われたかと思うと、一直線に『魔』を襲った。
『魔』に激突したところで玉は四散する。
『魔』の足がよろめいた。が、彼女も踏み止まり、サーナに向けて手を差し出した。
片手。
そこに空気が集約され、渦を巻き、放たれる。
サーナの胸の前。
サーナはとっさに体を捻るが避けきれない。正面にそれを食らってしまう。
「!」
彼女が吹き飛ばされた。白い家の壁に叩きつけられる。線の細いその体が力なく地面に向かって落ちていく。
「――!!」
〈汝、名は――?〉
動いて。
願った。
〈汝、名は?〉
動いて。
恐かった。
目の前で崩れ落ちる身体。
もう嫌だと思っていた。
もう二度と目にはしたくないと思っていた。
自分の目の前で人が倒れる。
その、おぞましさ。気持ち悪さ。
〈汝、名は?〉
嫌だ。
絶対に、嫌だ。
動いて。
お願いだから。
動いて。
絶対に。
〈汝、名は?〉
「……し……っ」
地に俯せる身体。
投げ出された手。指の先。
求めるのは僅かな動きだけなのに。
ほんの少しの力だけなのに。
お願いだから。
〈汝、名は?〉
「……し……なない、で……」
全身を悪寒が駆け抜けた。
その瞬間。
〈汝、名は――?〉
「お前は彼女を見殺しにする気か!?」
声がしたのだ。
知らない声だ。女の人の声だ。
反射的に顔を上げた。
屋根の上。
真っ青の空を背負って、三人の人がそこにいた。その中の一人が、レイに向かって口を開いている。
「お前には『精霊』が呼び掛けているのだろう? なぜ『精霊』を呼ばない? 『精霊』を呼べはお前は勝てる。彼女も救える。なのにお前は『精霊』に応えず、彼女を見殺しにする気なのか!?」
見殺しに? そう。見殺し。けど、自分でも救える? 彼女を、救える?
どうして――。
「お前は、自分の下手な価値観だけで彼女の命を奪う気なのか!」
「――――」
真正面から『魔』が駆けてきていた。
自分を喰おうと、駆けてきていた。
妖しい光を湛える瞳。異様に伸びた十の爪。本来人間にはありえない上下の牙。
それらが迫ってくる。
自分の真正面から。
自分の力を喰おうとして。
両の腕を自分の首元に伸ばし。
『魔』が来る。
『魔』が迫り来る。
『魔』が、来る。
『魔』が、迫ってくる……!
「……父さん……」
自分は知っていた。一目見て分かっていた。 この『魔』は自分の父親なのだと。自分の父親を殺した『魔』なのだと。自分が以前、完全に『浄化』しそこねた『魔』なのだと。
そして、取りついたはずの父親の信念に逆に取りつかれた『魔』なのだと。
父の、信念に――。
――レイ――。
だから、この『魔』は自分の呼び掛けで姿を現した。
だから、自分はこの『魔』に殺されようと思った。
この『魔』になら命を奪われても悲しくないと。この『魔』になら、自分は――。
――父さん――。
迫る、『魔』。
首に絡み付く、指。
締め上げる、指。
食い込む、指。
自分の両眼を覗き込む、狂気の光。
息が、止まる。
〈――汝、名は――?〉
息が、止まる――。
〈――汝、名は――?〉
「――――。僕は、……レイ」
為されたのは契約。
『精霊』と人間との、聖なる契約。
同時にしかれたのは、『結界』。
契約者の身を守り、『魔』をはじき出す『結界』。
それと、
「『浄化』」
完全なる『浄化』。消滅。
瞬時にして、『魔』の存在は消え失せる。