3-9
四年前。
自分は、家の中にいた。
小さな家。
生業の狩りの道具以外、何も置かれていない家。
寒かった。
暖炉で火は燃えていたけれど、それでも、寒かった。
冬の、日。
――レイ――。
名を呼ばれたので振り返ると、外から父親が帰ってきていた。
開け放たれた扉の向こう。
逆光で、立派な口髭をたくわえているはずの父親の顔は、黒い影に覆われていた。
――父さん――。
父親に向かって走っていった。
自分はこの父親のことが好きだった。
母親のことも好きだった。
二人とも、自分のことを抱き締めてくれる。
その腕の中は暖かくて。
――父さん――。
この時も、自分は父親に抱き締めてもらうつもりで駆けた。
けれど、足を絡ませ、床に転がってしまった。
痛くても転んだぐらいで泣くもんじゃない、おまえは男だろう。
それが、父親のいい付けだった。
だからこの時、泣きたかったけれど、我慢した。
膝がじくじくしたけれど、痛いともいわなかった。
父親を、見上げる。
よく我慢したな、と、頭を撫でてくれるはずだったから。
我慢したら、いつもそうしてくれたから。
父親が、寄ってきた。
目の前に差し伸べられる、両手。
両手?
撫でてくれるときはいつも片手だ。
強ばった厚い皮の、右手。
今日は、両手。
抱き上げてくれるの?
――父さん――?
そんな腕に、赤い筋があった。
左腕の肘の下に一つと、右腕の肘の上に一つ。
くっきりとした、筋。
朝見たときはそんなものなかった。
今日付けたものなのか。
赤い、筋。
傷? 傷。
赤い、傷。
なのに、あるべき物が、ない。
本来あるはずのものが、見当らない。
血。赤い血。
それが、ない。
自分の擦り剥いた膝からはにじみ出ているのに。
その深い傷からは、出ていない。
赤い血が。
代わりに、きらめいているものがあった。 蜜色の、液体。
それが、傷口から流れ出ている。
蜜色の、液体。
色素を失った、血。
――父さん……――?
――レイ――。
寄ってくる。
父親が、自分の体を抱き上げようとしている。
両手が、自分に迫ってくる。
――いや――。
心のどこかで思った。
――こわい――。
聞いたことがある。
蜜色の血を持つ者。
それは、『魔』に喰われ、『魔』に生かされている者。最早、生を失っている者。
――父さん――。
――レイ。おいで――。
顔が、はっきりと見えた。
青白い、肌。
見開かれ、瞬きしない、両眼。
その目は、自分をとらえていない。
なのに、父親は確実に自分に向かって歩んできている。
ゆっくり、ゆっくり、来る。
異様な光を放つ、瞳。
『魔』。
――レイ。おいで――。
嘘だ。
嘘だ。
違う。
違う。
この人は、父さんじゃない。
この人は、自分の好きだった父さんじゃない。
この人は、この人は、
――れい。オイデ――。
この人は、『魔』。
差し伸べられる、両手。
身を引いた。
逃げようとした。
この化け物から逃げようと。
生き延びようと。
けれど、思うように体は動かない。
がたがたと震えるだけで、動けない。
――れい――。
迫る。迫ってくる。
触れる。
自分の肩に、その両手が触れようとしている。
蜜色の血を垂れ流しにした、両腕が、自分を抱き上げようと。
肩に、触れる。
首を絞める、両手。
――イヤダ――!!
爆発。
閃光。
朦朧とした意識を呼び戻したのは、女性の悲鳴。
――きゃぁぁぁっっ――!
母さん。
扉の向こうに。絶叫する、母親。
床に尻を付く自分の前に、仰向けに横たわる、父親。
死んだ、父。
――あなたぁっ! あなたぁっ――!?
扉口で騒ぐ母。
髪を振り乱し、頭を振り、現実を否定しようとする、母。
――あなたぁっ! あなたぁっ――!!
何が起こったのか、その時自分は理解した。
『浄化』という力。
それが、爆発したのだ。
それが、自分の中にはあり、自分の身を守ったのだ。
『魔』と化した父の手から。
自分の命を救ったのだ。
――母さん、母さん、僕、僕ね、――。
悲しかった。
父が死んでしまって。
けれどそれよりも恐かった。
もう少しで自分も死んでしまうところだったから。
恐怖はまだ拭い去れやしないから。
抱き締めてほしかった。
恐かったでしょう、と、優しく声をかけてほしかった。
だから、腰を上げた。
体はまだ強ばっていたけど、立ち上がった。
母親の胸に向かって飛び込んでいこうとした。
――いやぁぁっ。来ないでぇっ――!
何に対してそう叫んだのか分からなかった。
だから、もう一歩、近付く。
――いやぁぁっ。来ないで化け物――!
化け物……?
なにが?
――あなたは誰!? 誰なのよっ。あの人を殺して、私まで殺そうっていうの!? 来ないでっ、来ないでぇっ――!
何を……。
――かあさん、ぼく……――。
――化け物! あの子をどうしたの!? あの子を、レイをどこにやったの――!?
――なんで……――?
――来ないでぇっ。来ないでよぉっ! レイ、レイどこなの!? お父さんが、お父さんが大変なのよぉっ。ねえ、レイっ。レイぃっ。母さんの側に来てぇっ。レイぃっ――!
僕は、ここにいる。
僕は、母さんの目の前にいる。
僕は、いるのに。
――寄ってこないでっ。化け物――!
僕は、化け物なの?
僕は、化け物なの?
僕は、化け物なの?
僕は、誰なの?
〈汝、名は――?〉
心に直接囁きかけてくる声。
あなたは、誰?
〈我は、『地の精霊』〉
『精霊』?
〈我、汝と契約を結ばんと思う〉
けいやく?
ああ。聞いたことがある。
『精霊使い』とかいう人。
『魔』を、倒せるんだよね。
〈いかにも。汝、名を申せ〉
名? 名前?
分からないよ。
僕は、誰?
〈汝、名は?〉
誰だろう。
僕は、誰だろう。
レイ、だったような気がしないでもないけど、違うようだし。
それに、それにね、『精霊』。
〈汝、名は?〉
僕は、君と契約なんて結ばないよ。
〈汝、名は?〉
だって僕、これ以上化け物って呼ばれたくないもの。
〈汝、名は?〉
だって僕、これ以上母さんに嫌われたくないもの――。
〈汝、名は――?〉
あの時から、あの人は彼岸に旅立ち、帰ってこなくなった。
帰ってこず、あの人は――。
自分を、捨てた。
――あの家で、お世話になりなさい――。
母親が正気を失ってから数週間後。
その間自分の面倒を見ていてくれた親戚の女の人がいった。
――そのうち、帰って来てもいい――?
――駄目だよ。お前は、あの家に買われたんだから――。
買われた?
どういうことか、分からなかった。
けれど、もう二度と母親には会えないのだということは分かった。
自分が生きるためには、あの家にいるしかないのだということは。
あの家にいるしか――あの家で、頑張るしか。
もう一度、暖かい家庭に戻るには――。
『魔』。
自分を弄ぶ主人のいい付けで出たお使いから戻ったら、家には誰もいなかった。
周りには誰もいなかった。
探し回っているうちに出逢ったのが、異様な光を両眼に宿らせた男だった。
一目で分かった。
『魔』。
そして、理解した。
自分は犠牲だと。囮だと。
他の人たちが逃げるための時間稼ぎだと。
自分は、ここでも見捨てられたのだと。
『魔』。
自分は、それだけの存在。
この家で頑張ったけど、所詮はそれだけの存在。
簡単に切り捨てられてしまう存在。
自分は――誰?
『魔』。
どうでもいいと思った。
『魔』であっても、その人の原動力となれるのなら、それでもいいのだと。
そんな存在価値でも、いいのではないか、と。
迫る『魔』に抵抗する気はなかった。
なるようになればいいと思った。
もう、どうでもいい、と。
〈――汝、名は?〉
『地の精霊』。
知らないよ。
名前なんか、知らないよ。
〈汝、名は?〉
もう、いいんだ。
死んだほうが、いいんだ。だから君は、必要としてくれる人の所に行きなよ。
〈汝、名は?〉
――『風の精霊』――!
その時、介入があった。
知らない、人。
知らない、男の人。
自分の前に、立ちふさがって。
――お前、大丈夫か――?
上から投げ掛けられる声。
見上げる。
優しそうな顔がある。
守ってやると、いってくれる。
けれど。
いらないのに。
――死ぬのを覚悟しているんじゃないだろうな? 生きるのを諦めているんじゃないだろうな――?
そうだよ。
僕は、もう生きたくなんかないんだ。
余計なこと、しないで。
――散々傷ついたって顔しているな。苦労、したんだな、お前――。
……苦労?
苦労って?
――待ってろ。今、この『魔』を排除するから――。
いいよ。
そんなこと、しなくていいよ。
だから逃げてよ。
だったら逃げてよ。
逃げてよ。
――『風の精霊』!
やめて。
お願いだから、やめて。
人が傷つくのは見たくない。
自分の目の前で人が倒れるのは見たくない。 だから、やめて、やめて……!
――『風の精霊』!
やめて。
あなたが傷つく。
僕のためなんかに、あなたが手を汚す必要はない。
だから……!
〈汝、名は?〉
知らないよ。
名前なんか知らないよ。
お前なんか、知らないよっ……!
〈汝、――〉
『浄化』。
守りたいと、思ったから。
『浄化』。
目の前の『魔』が消えていくのが分かった。
自分は、化け物なんだ。
こんなことが出来るなんて、やっぱり自分は化け物なんだ。
死んだほうがいいんだ。
――お前、すごいな。『浄化者』か。しかも、口にする事無く力をだせるなんて、見たことないぞ。すごいな、お前――。
すごい?
なにが?
――お前、俺と一緒にいかないか? 『土の大陸』の、リル=ウォークって所にな、お前のような力を持った奴が集まって、勉強しているんだ。そこで、その力をもっと磨いて、人の役に立たないか――?
人の、役に……?
自分は、死んで当然の化け物なのに……?
――なあ。一緒にいかないか――?
一緒に?
一緒に?
――一緒に、いてくれるの――?
彼の目が見開かれた。
それは無理なのだと思った。
その望みはやはり叶えられないのだと、思った。
だったら、だったら、いい。
行かない。行きたくない。
――ああ。一緒にいてやるよ――。
え?
――お前、見ていないと、いつ壊れるか分かったもんじゃないしな。俺にも仕事があるからずっとって訳にもいかないが。ああ。一緒にいるよ。大丈夫。一緒にいる。約束するよ――。
本当に?
――だからお前も約束しろよ。諦めないって。諦めるのはいつでもできる。だから、絶対に諦めないって――。
諦め……ない。
――お前の努力は、俺が見ているから。いつまでも、見ているから――。
いつまでも。
それで救われたのだと、分かった。
自分は生きるのだと、決めた。
彼がいる限り、頑張ると、決めた。
レイは、決めた。
彼が、いる限り――。