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月夜の兎  作者: 望月あさら
■ 3 ■
23/36

3-9

 四年前。

 自分は、家の中にいた。

 小さな家。

 生業の狩りの道具以外、何も置かれていない家。

 寒かった。

 暖炉で火は燃えていたけれど、それでも、寒かった。

 冬の、日。



 ――レイ――。



 名を呼ばれたので振り返ると、外から父親が帰ってきていた。

 開け放たれた扉の向こう。

 逆光で、立派な口髭をたくわえているはずの父親の顔は、黒い影に覆われていた。



 ――父さん――。



 父親に向かって走っていった。

 自分はこの父親のことが好きだった。

 母親のことも好きだった。

 二人とも、自分のことを抱き締めてくれる。

 その腕の中は暖かくて。



 ――父さん――。



 この時も、自分は父親に抱き締めてもらうつもりで駆けた。

 けれど、足を絡ませ、床に転がってしまった。

 痛くても転んだぐらいで泣くもんじゃない、おまえは男だろう。

 それが、父親のいい付けだった。

 だからこの時、泣きたかったけれど、我慢した。

 膝がじくじくしたけれど、痛いともいわなかった。

 父親を、見上げる。

 よく我慢したな、と、頭を撫でてくれるはずだったから。

 我慢したら、いつもそうしてくれたから。

 父親が、寄ってきた。

 目の前に差し伸べられる、両手。

 両手?

 撫でてくれるときはいつも片手だ。

 強ばった厚い皮の、右手。

 今日は、両手。

 抱き上げてくれるの?



 ――父さん――?



 そんな腕に、赤い筋があった。

 左腕の肘の下に一つと、右腕の肘の上に一つ。

 くっきりとした、筋。

 朝見たときはそんなものなかった。

 今日付けたものなのか。

 赤い、筋。

 傷? 傷。

 赤い、傷。

 なのに、あるべき物が、ない。

 本来あるはずのものが、見当らない。

 血。赤い血。

 それが、ない。

 自分の擦り剥いた膝からはにじみ出ているのに。

 その深い傷からは、出ていない。

 赤い血が。

 代わりに、きらめいているものがあった。 蜜色の、液体。

 それが、傷口から流れ出ている。

 蜜色の、液体。

 色素を失った、血。



 ――父さん……――?



 ――レイ――。



 寄ってくる。

 父親が、自分の体を抱き上げようとしている。

 両手が、自分に迫ってくる。



 ――いや――。



 心のどこかで思った。



 ――こわい――。



 聞いたことがある。

 蜜色の血を持つ者。

 それは、『魔』に喰われ、『魔』に生かされている者。最早、生を失っている者。



 ――父さん――。



 ――レイ。おいで――。



 顔が、はっきりと見えた。

 青白い、肌。

 見開かれ、瞬きしない、両眼。

 その目は、自分をとらえていない。

 なのに、父親は確実に自分に向かって歩んできている。

 ゆっくり、ゆっくり、来る。

 異様な光を放つ、瞳。



 『魔』。



 ――レイ。おいで――。



 嘘だ。

 嘘だ。

 違う。

 違う。

 この人は、父さんじゃない。

 この人は、自分の好きだった父さんじゃない。

 この人は、この人は、



 ――れい。オイデ――。



 この人は、『魔』。



 差し伸べられる、両手。

 身を引いた。

 逃げようとした。

 この化け物から逃げようと。

 生き延びようと。

 けれど、思うように体は動かない。

 がたがたと震えるだけで、動けない。



 ――れい――。



 迫る。迫ってくる。

 触れる。

 自分の肩に、その両手が触れようとしている。

 蜜色の血を垂れ流しにした、両腕が、自分を抱き上げようと。

 肩に、触れる。

 首を絞める、両手。



 ――イヤダ――!!



 爆発。

 閃光。



 朦朧とした意識を呼び戻したのは、女性の悲鳴。



 ――きゃぁぁぁっっ――!



 母さん。

 扉の向こうに。絶叫する、母親。

 床に尻を付く自分の前に、仰向けに横たわる、父親。

 死んだ、父。



 ――あなたぁっ! あなたぁっ――!?



 扉口で騒ぐ母。

 髪を振り乱し、頭を振り、現実を否定しようとする、母。



 ――あなたぁっ! あなたぁっ――!!



 何が起こったのか、その時自分は理解した。

 『浄化』という力。

 それが、爆発したのだ。

 それが、自分の中にはあり、自分の身を守ったのだ。

 『魔』と化した父の手から。

 自分の命を救ったのだ。



 ――母さん、母さん、僕、僕ね、――。



 悲しかった。

 父が死んでしまって。

 けれどそれよりも恐かった。

 もう少しで自分も死んでしまうところだったから。

 恐怖はまだ拭い去れやしないから。

 抱き締めてほしかった。

 恐かったでしょう、と、優しく声をかけてほしかった。

 だから、腰を上げた。

 体はまだ強ばっていたけど、立ち上がった。

 母親の胸に向かって飛び込んでいこうとした。



 ――いやぁぁっ。来ないでぇっ――!



 何に対してそう叫んだのか分からなかった。

 だから、もう一歩、近付く。



 ――いやぁぁっ。来ないで化け物――!



 化け物……?

 なにが?



 ――あなたは誰!? 誰なのよっ。あの人を殺して、私まで殺そうっていうの!? 来ないでっ、来ないでぇっ――!



 何を……。



 ――かあさん、ぼく……――。



 ――化け物! あの子をどうしたの!? あの子を、レイをどこにやったの――!?



 ――なんで……――?



 ――来ないでぇっ。来ないでよぉっ! レイ、レイどこなの!? お父さんが、お父さんが大変なのよぉっ。ねえ、レイっ。レイぃっ。母さんの側に来てぇっ。レイぃっ――!



 僕は、ここにいる。

 僕は、母さんの目の前にいる。

 僕は、いるのに。



 ――寄ってこないでっ。化け物――!



 僕は、化け物なの?

 僕は、化け物なの?

 僕は、化け物なの?

 僕は、誰なの?



 〈汝、名は――?〉



 心に直接囁きかけてくる声。

 あなたは、誰?



 〈我は、『地の精霊』〉



 『精霊』?



 〈我、汝と契約を結ばんと思う〉



 けいやく?

 ああ。聞いたことがある。

 『精霊使い』とかいう人。

 『魔』を、倒せるんだよね。



 〈いかにも。汝、名を申せ〉



 名? 名前?

 分からないよ。

 僕は、誰?



 〈汝、名は?〉



 誰だろう。

 僕は、誰だろう。

 レイ、だったような気がしないでもないけど、違うようだし。

 それに、それにね、『精霊』。



 〈汝、名は?〉



 僕は、君と契約なんて結ばないよ。



 〈汝、名は?〉



 だって僕、これ以上化け物って呼ばれたくないもの。



 〈汝、名は?〉



 だって僕、これ以上母さんに嫌われたくないもの――。



 〈汝、名は――?〉



 あの時から、あの人は彼岸に旅立ち、帰ってこなくなった。

 帰ってこず、あの人は――。

 自分を、捨てた。



 ――あの家で、お世話になりなさい――。



 母親が正気を失ってから数週間後。

 その間自分の面倒を見ていてくれた親戚の女の人がいった。



 ――そのうち、帰って来てもいい――?



 ――駄目だよ。お前は、あの家に買われたんだから――。



 買われた?

 どういうことか、分からなかった。

 けれど、もう二度と母親には会えないのだということは分かった。

 自分が生きるためには、あの家にいるしかないのだということは。

 あの家にいるしか――あの家で、頑張るしか。

 もう一度、暖かい家庭に戻るには――。



 『魔』。



 自分を弄ぶ主人のいい付けで出たお使いから戻ったら、家には誰もいなかった。

 周りには誰もいなかった。

 探し回っているうちに出逢ったのが、異様な光を両眼に宿らせた男だった。

 一目で分かった。



 『魔』。



 そして、理解した。

 自分は犠牲だと。囮だと。

 他の人たちが逃げるための時間稼ぎだと。

 自分は、ここでも見捨てられたのだと。



 『魔』。



 自分は、それだけの存在。

 この家で頑張ったけど、所詮はそれだけの存在。

 簡単に切り捨てられてしまう存在。

 自分は――誰?



 『魔』。



 どうでもいいと思った。

 『魔』であっても、その人の原動力となれるのなら、それでもいいのだと。

 そんな存在価値でも、いいのではないか、と。

 迫る『魔』に抵抗する気はなかった。

 なるようになればいいと思った。

 もう、どうでもいい、と。



 〈――汝、名は?〉



 『地の精霊』。

 知らないよ。

 名前なんか、知らないよ。



 〈汝、名は?〉



 もう、いいんだ。

 死んだほうが、いいんだ。だから君は、必要としてくれる人の所に行きなよ。



 〈汝、名は?〉



 ――『風の精霊』――!



 その時、介入があった。

 知らない、人。

 知らない、男の人。

 自分の前に、立ちふさがって。



 ――お前、大丈夫か――?



 上から投げ掛けられる声。

 見上げる。

 優しそうな顔がある。

 守ってやると、いってくれる。

 けれど。

 いらないのに。



 ――死ぬのを覚悟しているんじゃないだろうな? 生きるのを諦めているんじゃないだろうな――?



 そうだよ。

 僕は、もう生きたくなんかないんだ。

 余計なこと、しないで。



 ――散々傷ついたって顔しているな。苦労、したんだな、お前――。



 ……苦労?

 苦労って?



 ――待ってろ。今、この『魔』を排除するから――。



 いいよ。

 そんなこと、しなくていいよ。

 だから逃げてよ。

 だったら逃げてよ。

 逃げてよ。



 ――『風の精霊』!



 やめて。

 お願いだから、やめて。

 人が傷つくのは見たくない。

 自分の目の前で人が倒れるのは見たくない。 だから、やめて、やめて……!



 ――『風の精霊』!



 やめて。

 あなたが傷つく。

 僕のためなんかに、あなたが手を汚す必要はない。

 だから……!



 〈汝、名は?〉



 知らないよ。

 名前なんか知らないよ。

 お前なんか、知らないよっ……!



 〈汝、――〉



 『浄化』。



 守りたいと、思ったから。



 『浄化』。



 目の前の『魔』が消えていくのが分かった。

 自分は、化け物なんだ。

 こんなことが出来るなんて、やっぱり自分は化け物なんだ。

 死んだほうがいいんだ。



 ――お前、すごいな。『浄化者』か。しかも、口にする事無く力をだせるなんて、見たことないぞ。すごいな、お前――。



 すごい?

 なにが?



 ――お前、俺と一緒にいかないか? 『土の大陸』の、リル=ウォークって所にな、お前のような力を持った奴が集まって、勉強しているんだ。そこで、その力をもっと磨いて、人の役に立たないか――?



 人の、役に……?

 自分は、死んで当然の化け物なのに……?



 ――なあ。一緒にいかないか――?



 一緒に?

 一緒に?



 ――一緒に、いてくれるの――?



 彼の目が見開かれた。

 それは無理なのだと思った。

 その望みはやはり叶えられないのだと、思った。

 だったら、だったら、いい。

 行かない。行きたくない。



 ――ああ。一緒にいてやるよ――。



 え?



 ――お前、見ていないと、いつ壊れるか分かったもんじゃないしな。俺にも仕事があるからずっとって訳にもいかないが。ああ。一緒にいるよ。大丈夫。一緒にいる。約束するよ――。



 本当に?



 ――だからお前も約束しろよ。諦めないって。諦めるのはいつでもできる。だから、絶対に諦めないって――。



 諦め……ない。



 ――お前の努力は、俺が見ているから。いつまでも、見ているから――。



 いつまでも。



 それで救われたのだと、分かった。

 自分は生きるのだと、決めた。

 彼がいる限り、頑張ると、決めた。

 レイは、決めた。



 彼が、いる限り――。

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