3-7
それと、同じ頃。
「――謎だ」
騒がしく繰り広げられている光景を目の前にしながら、彼はしみじみと呟いていた。
「――不思議だ」
彼は自分の前の床で胡坐を組み、腕を組んでいた。
そんな彼の肩に、のしかかるもの。それは続いて、彼の焦茶色の短い髪をひっぱり、傾いた頭にのしかかり、重みをかける。
最後は顔に、よだれでべと付いた、小さな手を乗せる。それでもって、撫で回す。
「――にゃぞりゃ」
彼は口の中に指を入れられ、うまく言葉を発することも叶わなくなった。力任せにひっぺ剥がすことも可能ではあろうが、それをする気はさらさら起きないらしい。
叱っても改善の余地のないことは、重々承知しているということか。
「あ、リュウク! やめなさいよぉっ。リオンお兄ちゃんが困っちゃっているでしょ」
彼を助け出したのは、リュウク・チェイルのすぐ上の姉、ニィナ・チェイル。
とたとたと駆け寄ってきて、あだあだいい続けているリュウクをリオン・ビィノから引き剥がした。
今年四つになったニィナは、身体全体を使って必死に、一歳になってやっと両足で歩けるようになったばかりの暴れるリュウクを押さえ付けていた。
「いいのよ、ニィナ。リュウクにはやらせたいようにやらせれば。だって今日は、リオンがリュウクの面倒を見てくれるんだから」
そういってのけたのは、隣の部屋で、リュウクとニィナの姉、ナイナ・チェイルと鏡に向かっているはずの、フィル・ユイカ。
彼女は姿も見せずいうだけいうと、また自分たちの世界に入っていったようだった。どのように髪を結うか、論議している。
そのような彼女の言を耳にしてしまったものだから、リオンの表情は、あからさまに完璧に、憮然としたものになるのだ。
こんな一部始終を、リュウクを解放し、今は静かに絵を描いているニィナの前の食卓の椅子に座り、無言のまま眺めていたヌース・マイレスは、そこでしみじみと呟いた。
「興味深い光景だな」
途端、きっと下から睨み付けてくるのはリオン。彼は再び、ニィナから解放されたリュウクのおもちゃになっていた。
「興味深い? 何が?」
笑って余裕ぶろうとしているらしい。口端が微妙に震えているのが見て取れる。
ただでさえそんな姿である上に、彼の背後には、訳も分からず「あーあー」いいながらペタペタとリオンの体を叩きまくるリュウクがいる。
「何がって、今のお前のその有様が」
興味深い。それ以外に何があろう。
リオンの顔が再び憮然としたものになった。拗ねているのもよく分かるので、ヌースにしてみればおかしくて仕方ない。
声をたてて笑いたいところではあるが、あまりにもかわいそうかと、笑う代わりに思考を切り替え、口を開いた。
「で、お前は何が謎で不思議なんだ?」
「?」
リオンの表情が一変した。と、リュウクが体重をかけていた手をリオンの肩から滑らせる。落ちてきたリュウクの頭をとっさに胸の前で受けとめ、彼を膝の上に抱きかかえ、一つ、ほっ、と息を付くと、リオンはまた、きっと見上げてくるのだ。
その顔面はまさに百面相。
「だから、この状況が、だよ」
リオンがやっと答える。
「この状況とは?」
「この状況といったらこの状況だ。なんで俺が謂れのない子守をしなきゃいけないんだ?」
「謂れのない?」
「そうだろう? なんで俺が、フィルの弟子の姉弟の子守を、わざわざここに出向いてまでして、しなきゃいけないんだ?」
――ヌースたちのいる場は、学校の『精霊使い』『浄化者』進路に籍を置く研修生、コウイ・チェイルの実家、である。
リオンはコウイと面識はあったが、それほど親しいというわけではない。なのになぜ、リル=ウォーク内とはいえ、一研修生の実家に出向いてそんな彼の一つになったばかりの、手のかかる盛りの弟の面倒を見なければいけないのか。それが、分からないというのだ。
彼のいい分は一見尤もの様に聞こえた。
だが、ヌースはその裏に隠された真相を知っているので、彼に同情などしない。
ただじっと、彼のいい分を聞く。
「それに、今、俺たちには仕事があるはずだ。この間、統括部が依頼してきた件、まだ片付いていないんだろう? あれは早々に解決しなくちゃいけないはずだ。なのに、よりによってその依頼を受けた三人が、しかも『司』が、こんなところでのんびり子守をしていていいのか?」
リオンは真面目に切々と語っていた。その表情は真剣そのものなのに、胸の前ではあどけない幼子が暴れ、リオンもそれに気をかけちゃんと制しているのだから、説得力も半減するというもの。
まあ、半減しようが倍増しようが、ヌースには関係のないことなのだが。
なぜなら、ヌースは「事実」という切札を備えており、
「しかし、私とフィルとチェイル兄弟と一緒に、祥瓏亭の飯を食べにいかないか、と誘ったら付いてきたのはお前じゃないか」
と、それを突き付ければリオンは閉口せざるをえないのだ。
「――奢ってくれる、とフィルはいったぞ」
口を尖らせての、反撃。
「ならなおのこと、子守ぐらいするんだな」
「…………」
言葉が続かず、リオンの負け。
彼はリュウクの相手を始める。
そんなリオンの様子をうかがって、ヌースは嘆息した。
素直じゃないな、と思う。
リオンは決して子供嫌いじゃないはずだ。いや、むしろ子供は好きなほうだろう。なのになかなか素直に子守に励めないのは、方法を知らないということと、弱みを見せたくない自分やフィルの手前だからなのだろう。
今は嫌々といった感じで子守をしているが、これで自分とフィルがいなくなったら、結構張り切るのかもしれない。
要領は悪いが心の内は悪くなさそうだった。現に、リュウクは充分リオンに懐いている。
「よしっ。これでどう? ね、可愛いでしょ?」
その時、隣の部屋からフィルとナイナが姿を見せた。
ナイナは着飾っており、髪は上で結われ、花があしらわれている。
髪型はフィルの力作だ。
ちなみに、フィル自身も、ヌースもリオンも、今日は余所行きの格好をしていた。
これからヌースたちが食事をしにいこうとしている祥瓏亭は、いわゆる高級料亭で、それなりの身形をしていなければ入れてもらえない。豪華でおいしい料理が食べられるわけだが、それ相応に値が張るため、いくら『土の大陸』の重鎮である『司』といえど、そう簡単に入れるところではない。
だから、チェイル兄弟は着飾らなければならず、それを手伝うためにヌースとフィルとリオンがいるのであるが。
「――しかしところで、なぜこの面子なんだ?」
リュウクのために木で出来た玉を床に転がしながら問うのはリオン。答えるのは、次の用意のために妹のニィナを呼ぶ、フィル。
「だからぁ、四日前がリュウクの誕生日だったのっ。だからね、お祝いよ」
「お前はな、弟子のコウイの兄弟の誕生日だから分かるが、俺と、ヌースも?」
「私だけでチェイル兄弟の面倒は見れないから、ヌースに応援頼んで、ああそういえば、リオンが祥瓏亭に行ったことないっていってたかなって思い出したから、なんならリオンも呼ぼうかってことになったのよ。察し悪いわねっ」
フィルは釈然としない顔をしているリオンを無視し、「さあ、ニィナも可愛くなろうねー」と口にしてあっさり隣の部屋に消えていってしまう。
「何だよ、察し悪いって。俺、リュウクの誕生日なんか知らないんだからなっ。……けど、そうか。お前一つになったばかりなのか、へえ。ああ、そうか。今日、学校は休暇日だから、コウイが休みなんだな。いいよな、休暇日。『司』はさ、定休ないんだぞ。勝手に休めってことになってんだぞ。知っているか、お前」
転がした玉を追い掛け、捕まえ、なめまわしているリュウクにしみじみと呟いている。まだ言葉の分からない幼子に愚痴っている辺りがひどくリオンらしかった。
ヌースは、ニィナの代わりに、用意の整ったナイナに落書をするための紙と筆をあたえ、口を開く。
「時に、そのコウイはどうした?」
そういえば、ずっと姿を見ない。
リオンと共に視線を走らせるのは、閉ざされたままの、一つの扉。中でコウイが支度を整えているはずの、部屋。
時を謀ったかのように、気配を感じた。
たんっという音がした。
直後、扉は勢い良く開かれる。
「ほーらっ。用意完了っ!」
部屋の中から現われたのは、着飾ったコウイ・チェイル。
本人はひどくノッている。
しかし、ヌースもリオンも完全に言葉を失っていた。目は点。
不様に口を開け、その格好から、目が離れないでいる。
「なっ。どうどう? 色々悩んだんだけどさ、これって、いいだろ?」
「…………」
「…………」
コウイの自信に溢れた顔の前で、ヌースとリオンは何もいえなかった。いってみれば、二人はかちんこちんに凍り固まっていた。
そんな二人を解凍してくれたのは、ニィナの、直球の一言。
「兄ちゃん、へーん!」
――そうだ。変だ。変なのだ。
どう考えても、変なのだ。
何がかといえば。
服、ではない。
金糸が入り、胸元に花の刺繍の施された服は、確かに、年令不相応に豪華かつ派手で、悪趣味ではあるが、言葉をなくし凍ってしまうほどのものではない。
では何か。
それは、顔。
コウイの地味な作りの顔面に乗せられた、真っ白の白粉と、桃色の頬紅と、深紅の口紅。
これでは道化師だ。
「え? ニィナ、兄ちゃん変か?」
真面目に問い返しているところをみると、本人、ウケを狙ったということではないというのか。
「へーん! 変、変!」
「そうかなぁ? なあ、ヌース、リオン。俺、変か?」
「…………」
「…………」
今度は自覚症状皆無という事実に言葉が出ない。思わず二人は顔を見合わせてしまう。
何といっていいものやら。
「兄ちゃん、へーん! へーん!」
ニィナが騒ぎ立てる。気持ちが分からなくもない。
そんな彼女の声を聞いてか、雰囲気の異様さを察してか、とうとうフィルが姿を現した。
まずは騒ぐニィナを見、その後、ニィナの視線の先を追ってコウイを見る――と。
「――――」
絶句。続いて、顔面蒼白。
唇がかすかに震えている。
「なっ、なっ、なっ……」
「フィルぅ。俺、変かぁ?」
御愁傷様でした。と、ヌースは内心、呟く。
途端、フィルは爆発するのだ。
「なっ、何なのよっ、それーっ!」
「何なのって……支度したんだけど」
「支度は分かっているわよっ。そうじゃなくってっ。いえ、私としてはその服も許せないけどっ、どーしてもコウイがそれ着たいっていうなら許すわよ、許容範囲内よっ。けどっ。なんであんた、化粧なんかしてるのよぉっ!?」
「だってさあ。おめかししろっていったじゃん。フィル、いっつもこうしてるから、それ、真似したんだけど」
ぷっ。
思わずヌースとリオンは吹き出してしまった。フィルが化粧に命かけているのは事実だからだ。
だが、フィルは二人がこんなところで笑っていることになど気付きもせず、捲くしたてる。
「私の真似!? 私そんなことしてないわよっ。それじゃ化け物じゃない! そんなに白粉塗りたくっちゃって、まぁ!」
「だってフィル、白い肌白い肌っていってるじゃん。だから、フィルの白さ目指したんだけど」
「私とコウイじゃ、元の肌の色が違うでしょ!? 私の肌は元から白いけど、コウイの肌は黄色いでしょ!? 同じになるわけないじゃないの!」
「あ。そういえば、母さんは化粧をしてももっと黄色かったかな」
「もう! 何でもいいからっ、早くその不気味な化粧、洗い落としなさい!」
「ええー!? やだよぉっ。俺の力作なんだぜ?」
「力作でも何でもいいからっ。そんなんじゃ外に出れないんだから、落とすのっ」
「やだよぉっ。せっかくだから、このまま出る!」
「あっ。駄目っ。ヌース、物理結界!」
命じられて、とっさに家全体に結界。胸元の首飾りの、一つの珠のなかから『地の精霊』の力があふれ返り、一瞬、それが文字通り土の壁を家全体に張り巡らせた。
ヌースは『精霊使い』『浄化者』あるが、簡単な魔術なら使うことのできる魔術師でもあるのだ。いくつかの珠が数珠繋ぎになっている首飾りは、『精霊』の力が閉じ込められている魔術具である。魔術はこのような魔術具を用い、『精霊』による物理的効果を求めて行使される。
ヌースはフィルの言葉に反応して、わけもわからず土壁を出現させていたが、どうやらコウイは瞬間移動で外に出ようとしていたらしい。
悲痛な叫びが響き渡るのだ。
「あー! ヌース!」
「ほら、落とすのっ」
「やだよぉっ。落としたくないよぉっ」
「落とすから、こっちに来なさいっ」
「やだぁっ」
コウイはのばされたフィルの手から身軽に逃げる。
「待ちなさい!」
フィルが、そんなコウイを追う。
リオンがリュウクを胸に抱いた。
フィルとコウイが部屋の中をぐるぐると走り回り始めたからだ。
動いたら、危ない。弾き飛ばされる。
「待ちなさいって!」
「やだよぉっ!」
「やだじゃないのっ。大体、その化粧品、どうしたの!?」
「母さんのがあったから借りたんだよっ」
「その悪趣味な服は!?」
「これは自分で買ったっ。安売りしてたから」
「買った!? いつよ!?」
「いつ!? なんでそんなことまでフィルにいわなきゃいけないんだよっ」
「いいから! いつなの!?」
「ついさっきだよっ」
「ついさっき!? 何時の間に家出たの!?」
「いいじゃんか、もう!」
「よくない! コウイ、あんた飛んだわね!? くだらないことで飛んだわね!? 瞬間移動は体力使うから、むやみに使っちゃいけないってあれほどいったじゃないのっ」
「いいじゃん、べつにぃっ」
「よくないのっ!」
一周、二周、三周、四周、五周、十周、十一周、と半。
そこでフィルは作戦を変えた。
彼女はふっと消える。
現われる先は、コウイの目前。
「うわっ」
「こらっ」
フィルが、がしっ、とコウイの腕をとらえた。
暴れるコウイにかまわず、彼女が口にするのは、
「『水の精霊』!」
彼女の右手から出現する、水。ばしゃーっっとコウイの顔を引っ掻き回し、化粧を落としていく。続いて、
「『風の精霊』!」
ごおうううう、と、今度は風。
きれいに、濡れたコウイの顔を渇かす。
そうしていつものノーメイクコウイの出来上がり。
ただし、出来上がったばかりのコウイは少々ぐったりしていた。
フィルに開放されてから、ふらふらと歩き、ナイナの隣の椅子に座り、食卓に突っ伏すのだ。
「さあ、ニィナ。あんなお兄ちゃん無視して、可愛くなろうねー」
コウイをそんな風にした張本人であるフィルは、もはや気持ちを切り変えたのかなんなのか、至極明るい口調でそう告げると、ニィナの待つ隣の部屋に戻っていった。
先程までの静寂が部屋には帰ってきていた。
呆れ返ってしまって、ヌースには言葉なぞなかったが、とりあえず、邪魔だと結界は解いた。
もぞもぞとコウイが動きだす。
「なんだよぉ。自分だってくだらないところで飛んでるじゃんかー」
コウイは頬杖を付くと、しみじみ呟いていた。一つ、ため息を付く。
「くだらないところで飛んでしまうあたり、そっくりなんじゃないのか、お前たち師弟は」
はいはいで動き回ろうとするリュウクを押さえ付けているリオンがいう。
コウイは頬杖をとった。
そして彼は、いつもどおりの顔に戻って、しばし、リオンを見る。
「リオンさ、師弟師弟って、俺、まだ正式にフィルの弟子になったわけじゃないんだよ」
コウイの、言。
その事実はヌースもリオンも知っていた。だが、二人とも、いや、二人に限らず周りはもう、コウイのことをフィルの正式な弟子として扱ってるだろう。
フィルという『司』の正式な弟子――つまりは『司』候補生として。
「まあな。正式にはな。けど、フィルはもうお前のことを弟子にすると四方に明言しているし、私たちも認めている。いいじゃないか、師弟と呼んでも」
ヌースがいう。
フィルがコウイを正式な弟子としていないのは、彼がまだ若すぎるためだった。若いということは、内に限りない可能性を秘めているということだが、あまりにもその部分が未知の世界のために、説得力にいまいち欠けてしまう。だから、事実コウイが実力を備えていても、コウイという人物を知らず、なおかつ『司』の制度を快く思っていない者は、コウイを『司』候補生と認めようとはしないだろう。
『司』候補生に正式になるには、師匠である『司』が明言すればいいだけの話ではあるが、『司』も国家の一機関である。あまり好き勝手にやるわけにもいかない。
「ま、確かにそうだけどね。俺もね、別に呼ばれても、いやだとかそういうわけじゃないんだけどね。たださ、学校の中でさ、時々勘違いしている奴、いてさ。なんでお前、『司』候補生なのに学校にいるんだよ、とかいわれちゃってさ」
「なんだそれ? 勘違いも甚だしいな。そんなこといったら、クァロはどうなるっていうんだ? あいつは正式な『司』候補生だが、まだ学校にいるじゃないか」
学校内から選出された『司』候補生は、正式に選出後、学校を形式的に卒業して、『司』の元で修業に励むのが通例である。それは通例であって決定ではないのだが、その通例が続いているために年若い者たちは勘違いをしている。
現に、もはや『司』候補生として選出されているクァロ・バリューマーは、まだ学校に在籍しているのだが。
「クァロはさ、特殊じゃん。本人も、師匠も。なんつーか、ちょっと違うじゃん。周りの目もさ」
「まあな」
クァロ・バリューマーは、優等生と呼ばれるコウイのまた遥か上をいく優等生。
現在齢十にして、炎、水、風、地、光、氷、雷、霧の、八つの『精霊』のうち、雷以外の『精霊』とすでに契約を結んでいるという者。また、とうてい女には見えない外見をし、性格は堅く、周りと馴れ合うどころか打ち解けようともせず、友達はいない。今、その優秀さ故に学校では年中級に所属し、自分より年上の人間に囲まれていながらも卑屈になる事無く、堂々とした態度でいるという。
そんな彼女が唯一心酔したのが、人間嫌いといわれ、やはり、周囲からは一歩ひかれて見られる現『司』、ネレウス・ルーイン。彼女は、弟子を取らないといい続けたネレウスの元を何度も何度も何度も訪れ、弟子として受け入れることを約束させ倒したのだ。
クァロ・バリューマーとはそのような人物。
やはり、周りからは偏屈扱いされてしまう者。
「クァロもなー、レイとは違った意味で、変な奴なんだよなー」
コウイが思わずそう口にした言葉の一部が、ヌースの耳には引っ掛かかっていた。
レイ、という少年。
彼が学校に来た当初より、自分はその名を耳にしていなかったが。
「レイ、か。近ごろ彼はどうなんだ?」
コウイに問う。彼は答える。
「どうもこうも。来た頃と変わりはないよ。相変わらずいじめられているし、友達出来ないし。俺もさ、最初の頃は助けてやったりもしたんだけどさ、あいつ、やっぱ反応ないからさ、虚しくなっちゃって、やめちゃった」
「相変わらず、か。『精霊』とはどうだ?」
「ああ。そっちも変化なし。『精霊』からの求愛は続いてるけど、あいつは無視しっぱなしって話」
求愛をふっているわけではなく、相手にもせず無視しているというのか。なんという仕打ち。全く、『精霊』が気の毒で仕方なくさえ思えてくる。
だが――。
ヌースは、思考する。
その姿を目にしたこともない、名をただ聞くだけの、少年。
引っ掛かりを覚えるのはなぜか。
名に込められた言霊、とでもいうつもりか?
「そう。学校にさ、サーナっていう女、いるじゃん」
「ああ。名前は聞いたことがあるな。けっこう力持っているんだろ?」
「うん。そいつがさ、レイにちょっかい出し始めたっていう話もあるけど」
「へえ。それが、どうかしたのか?」
「うん……ま、どうもしてないんだけどね。ただ、サーナは色々と目立つから」
「何が?」
「力も、だけど、外見が。可愛いって男の中では評判いいんだ。……俺にしてみれば、あんな奴のどこがいいか分かんないけどねー」
リオンとコウイの会話。
ヌースは心のどこかでそれを聞いていた。
この間もそうだ。
レイという名前を聞くと、何かを感じた。
具体的にどうとは口に出来ない。
けれど、なぜだろう。
頭がぼうっとしてしまう。
何かを必死に考えようとして考えられないというか……。
言霊。
自分でその考えに行き当たりながら、納得させられる十分なものだ。
「レイ」という名に術がかけられているとか。
まさか。
ヌースはあまりにも脈絡のない自身の思考に愕然としてしまう。
その名を頭の中から振り払おうとするが、余計にこびりつくようだった。
レイ。
これほど気になるのはなぜなのだろう。
「さあ! ニィナも完成! どうどう? 可愛いでしょ?」
そして、隣の部屋からは、すっかり明るい表情に戻ったフィルとニィナが現われていた。
ヌースは視線を向ける。
ああ、本当に可愛い、と思った。
ナイナとニィナが並ぶと、その可愛さも二倍、それに無邪気なリュウクも加われば三倍になる。
フィルがチェイル兄弟を実の子のように溺愛する気持ちもわかるような気がする。
「じゃ、用意完了ということで、……。コウイ、やっぱりあなた、その格好で行くの?」
「え? さっきいいっていったじゃん、フィル」
「許容範囲内だっていったの。出来れば、着替えてほしいけど」
「だったらいいじゃん。さあ、行こう!」
「ちょっと、待ちなさいっ。そういうならやっぱ駄目! こっちいらっしゃい! 見繕って上げるから!」
「ええー!? いいよぉ。着替えるの面倒だもん!」
「着替えましょう!」
「ええーっ!?」
その瞬間だ。
ほのぼのとしていた空気が、一瞬にして張り詰めたのだ。
今にもはち切れんばかりの緊張が駆け抜けていったのだ。
リュウクが泣きだす。ヌースとフィルとリオンとコウイの四人が顔を見合わせる。
しかし四人は、そうして自分の確信を確認する必要はなかった。あまりにも明瞭すぎる、忌ま忌ましい気。
嘔吐感を誘う、気――『魔』の、気配。
尋常ではない。
リル=ウォークにおいて、これほどの『魔』が出現するなど――。
「目標――」
リオンが口にする。それは、数日前にもたらされていた情報。
「……私いやよ。だってこんなにおめかししたんだから。汚したくないわ、この服」
「……ああ。確かにこの家を守る人間も必要だな。コウイ。飛べるか?」
「うん。一人だけと一緒なら。大丈夫。こんだけ強い気、放ってんだから。迷いっこないよ」
「じゃあ、私を連れて飛べ。リオンは後で合流」
「俺には地面走って行けって?」
「私一人でも片は付くだろうが?」
「……分かったよ。援護に回る」
そうして、ヌースは姿を消す――。