3-6
「――――」
なぜ、なのだろう。
どうして、なのだろう。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
「――――」
右手を、見つめる。
まだ痺れている、手の平。
「――――」
殴ってしまった。
人をたたいてしまった。
今まで、殴られることはあっても、殴ることはなかったのに。
それはしてはいけないことなのだと、知っているから。
殴られた人は痛いのだと、よく知っているから。
なのに。
殴ってしまった。
とっさに、殴ってしまった。
自分が罵られることは慣れていた。
どんなことをいわれても何も思わないでいられる術を身につけていた。
だから、自分が何かいわれることはよかった。気にならなかった。
なのに。
あの人の悪口は、許せなかった。
どうしても感情を抑えることが出来なかった。
なぜなのだろう。
どうしてなのだろう。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
彼女のことは、嫌いじゃないのに。
「――――」
殴ってしまった。
右手が、痛い。
「…………」
胸の前で、その右手を握り締めた。
顔を上げると、歩きだした。
向かうのは、彼女が過ぎていった方。
どうしていいのかは分からない。
謝っても無意味なことは、分かっていた。
謝っても、「謝るぐらいなら最初からそうするな」と、散々前にいた家の人にいわれ続けたから。
謝っても、仕方ないのだろう。
けれど、何もしないでいるというのもいやだと思った。
会って、どうすればいいのかは分からないけれど。
捜さないわけにも、いかないような気がして。
「…………」
――探す――。
自分が今日街に出たのは、彼女のいったとおり、自分を連れてきた『精霊使い』を探すためだった。
彼のことは何も知らなかった。
王宮勤めの『精霊使い』だということ以外、何も。
会いにきてくれると約束してくれたから会えるものだと信じていた。
なのに、会いにきてくれなかった。
理由が知りたいわけじゃない。
事情が知りたいわけじゃない。
ただ、彼の顔が見たかったから。
あてはなかったけれど、街に出た。
街に出て、歩き回ればいつか会えるのではないか。
そう、思って。
けれど、もし、彼が彼女のいったとおりの人だったとしたら? 彼はただ単に、自分を騙していたのだとしたら?
会って自分はどうする?
いや。もしそうだったとしたら、もうあの人はリル=ウォークなどにはいないだろう。
二度と会うこともないだろう。
二度と、会えない。
「――――」
優しかった、あの人。
自分を救ってくれた、あの人。
自分にほほえんでくれた、あの人。
もう、会えない。
もう、いない。
二度と、二度と、まみえる事はない。
二度と、あんな気持ちになることは……あんな幸せを感じることは……ない。
二度と――。
戻らない、過去。
「――――」
足が、止まった。
自ずと止まっていた。
人気のない、細い路地。
白い家の壁と、白い地面とに覆われた空間。
何もない、空間。
そこで一人、佇む。
両手をぎゅっと握り締め、佇む。
俯き、体を震わせ、佇む、一人。
「――誰か――」
口の中で、呟いた。
自分の中に封印していた言葉。
それを、消え入るような言の葉にする。
「――助けて――」
そして、呟く、名。
それは、どこかにいるであろう、人。
「――お母さん――」
もう一人。
それは、もはやこの世に存在しない人――。
「――お父さん――」
瞬時、空間が歪んだ。
けたたましい音が響いた。
自分の背後。
はっと振り返る。
開け放たれた、家の木の扉。
石の壁にぶつかり、崩壊している。
レイは見つめた。
そこから、人影。
ゆらり、と現われる、人。
知らない。
黒い髪の女。
俯いている顔。
知らない。
自分は知らない、こんな女の人。
知らないのに。
彼女は徐に顔を上げた。伏せられていた両目を開けた。
黒い目。
異様な光。
知らない。
自分は、知らない。
この人のことを、知らない。
なのに。
「――知っている――」
彼女が、妖しく微笑む。