3-5
今日は、十日に一度与えられる休暇日だった。この日ばかりは学校での授業はない。研修生たちが一日、ゆっくりと好きなことが出来る日であった。
サーナはこの日、昼過ぎからいつも一緒にいる友達たちとリル=ウォークの街中に買物に出ていた。
サーナは二つの進路の授業を取らなければならないので、友達に比べると普段好きに出来る時間が少なかった。だから特に休暇日は貴重なものであった。
彼女は休暇を、いつものんびりと過ごしていた。貴重だからといって何もかもをやろうとあくせくしたりはしない。街に出ない時も王宮内の寄宿舎でゆったりとした気持ちを楽しんでいた。今日も、欲しいものはあったが、それをすぐに買いにいくことはなく、ゆっくりと友達とお喋りをしながら店が立ち並ぶ中を歩き、店頭の品をじっくりと見、またお喋りをし、目に付いたものを追い、またお喋りをし、を繰り返した。
店が並ぶ大通りには、学校の研修生の姿がよく目についた。休暇日は学校全体の休暇日であるので、研修生全員が今日は休みなのである。
研修生の中にはリル=ウォークや近隣の都市からやって来た者ももちろんいて、そのような者はほとんど実家に帰っているが、大半が一日では移動など出来ない所からやって来た者であったり、帰る場所すらない者であったりするので、十日に一度の休暇となると、一斉に街に出、大通りに皆が集まってくるわけである。
特に今日は天気が良いために、いつもに輪をかけて見知った顔がいた。また、人自体がたくさんいて、大通りは人で溢れ返っていた。
サーナはそんな中、一つの髪飾りに惹かれ、足を止めていた。
装飾屋の店頭に並べられた、先を乳白色色の珠と、金の細工の小さな花があしらっているかんざし。
サーナの髪は肩を過ぎるぐらいで、茶色に近い黒い色をしていた。
学校の授業では体を動かすことが多いし、第一学校内にいてはお洒落をする機会などないが、それでも、祝いの席に参列することが全くない訳でもない。
その時に髪を束ね、かんざしをさす。
いいじゃないの。
じっとそれを見つめていたら、その気になってきたのだ。
だが、それはどう考えてもサーナの手が届くようなものではなかった。
学校から一介の研修生に支給されるこずかい。多額であるはずなどない。
まだサーナは店の人にかんざしの値段を尋ねてはいなかったが、諦めるしかなかろうと割り切っていた。
大きなため息を一つついてしまう。
そんな時に友達に呼ばれた。友達たちは最早その装飾屋に興味などなく、次に目星を付けた服屋に向かおうとしていたのだ。
後ろ髪をひかれる思いではあったが、サーナはかんざしに背を向けた。友達を追っていこうとする。が。
「……ねえ?」
それほどぼんやりとしたいたつもりはなかった。時を忘れるほどかんざしに引き込まれていた気もなかった。
けれど、サーナが振り返ったその先に、友達の姿はなかったのだ。一人も、いない。
人込みで見失った。それもあるだろう。だがそれよりも、サーナが友達を追って動きだすのが遅かったのだ。置いていかれてしまったのだ。
「……あらら」
サーナは慌てたりはしない。彼女たちがどこに行ったのか、その見当はついていたから。
サーナは一人、人込みの中央向かって足を進める。
なぜだか今日は、せっかくの休暇だというのにサーナは完全に浮かれた気分にはなれていなかった。
街はいつもどおり賑々しいし、友達たちともいつもどおり笑いあっているのに、心がすかっと晴れない。
かんざしのこともそうだ。せっかく強く惹かれるものを見付けたというのに、それを手に入れられないなんて。悔しいったらありゃしない。諦めたはずなのに、歩きながらどうにかならないだろうかと考えてしまう。結局は諦めきれていないということだ。
やっぱりここはあの店に戻って、誰かが買ってしまう前に店の人に頼んで金が貯まるまでとっておいてもらおうか。しかし、その金が貯まるのはいつのことなのだろう。想像すら出来ないではないか。
ああ、浮かない。つまらなくはないはずなのに、浮かない。友達とはぐれたのがいけないのか? かんざしが買えないのがいけないのか?
もうそんなことはどうでもいい。どちらにしろ、浮かない。浮かないっていったら浮かないのだ。理由など、いい。
いやしかし。そうだ。別に浮かない気分は今になって始まったことではない。
そうだ。よくよく思い返してみれば、ここの所ずっと浮かないのではないだろうか。休暇が来ればなんとかなると思って日々頑張ってきただけで、本当は近ごろずっと、浮かない気分なのではないか? 楽しくなんかない日々を送っているのではないか?
サーナはまた、ため息をついた。
口をきゅっとすぼめ、人込みの中を歩いていく。
浮かない浮かないと一人心の中で愚痴っていてもしかたのないことだった。
今は、そう。友達と合流しなければ。こんな気持ちを忘れてしまわなければ。
と、すれ違う人の群れの中に、一つ、サーナの目を奪っていくものがあった。
ゆっくりと歩きながらも、サーナはそれにつられ顔を後ろに向けてしまう。
レイ少年だ。
相変わらずどこか薄汚れた橙色の肌に、真っ黒の色彩をまとう彼。
前を見据え、人の間をぬって進んでいく。サーナから離れていく。
「…………」
サーナは自分の顔を進行方向に戻した。ゆっくりと歩みながら、考える。
あいつも街に出ているんだ。休暇といっても友達もいないし、何をするってわけでもなさそうだから、ずっと寄宿舎にいるのかと思ったけれど。買物でもするのだろうか。ただの気晴らしだろうか。けれどあの様子からして、この雰囲気を楽しんでいるって感じでもなかったような。真っすぐ前なんか見ちゃって。こっちのことなんか、気付きもしない。そう。ちらりとも見なかった。気付いていないんだ。
「――――」
足を止めた。
友達たちがいるであろう服屋は、もう目の前。
あそこにいけば、いつもの賑わいが戻ってくる。いつもの笑顔が、笑い声が、戻ってくる。
けれど。
「……いいでしょ」
サーナは踵を返した。レイの後を追うことにした。
友達たちに一言もいわず別行動をとることは気が引けたが、それほど本気になって怒るような友達たちでもない。寄宿舎に帰ってから、少し弁解すれば済むだけのこと。
そう結論付けると、サーナの心の中から友達の姿は消えていっていた。
サーナは今来た道を戻りながら体を左右に揺らし、人々の間からレイの後ろ姿を見付けようとする。
いた。十人ぐらい先。
ぼろの洋服を着た、細い肩。
本当になんて細さなのだろう。隣を歩く人と比べたら余計に際立つ。
腕なんか、今にでも折れるのではないかという不安さえ抱かせる。
サーナも、周りからは散々細い細いといわれていた。自覚も危機感もないが、周りがあまりにもいい立てるものだから、ああ、そうなのかな、という気にはなっていた。
そんな自分が見ても、彼は細いと感じる。
栄養状態がすばらしく良くない。学校に来てから一ヵ月が過ぎるのだ。もうそろそろ、改善が見られてもいいようなものなのだが。
「……食べてないんじゃないの?」
サーナの脳裏に浮かんだ光景は、彼が食事の場でもいじめられ、食べ物を取り上げられているという図。
ありえない話ではない。
少し、目を細める。
レイは、人影に見え隠れしながらも、サーナの前を歩いていた。その距離は縮まらない。サーナは早足で歩いているつもりだったが、向こうもそれなりの速さということか。
サーナは少し駆けてみることにした。
人に体をぶつけながらも距離を縮めていく。頭上から文句をいわれても気にしない。自分は急いでいるのだ。
彼の背が目の前にくる。彼は振り向かない。
手をのばし、サーナは彼の肩をつかんだ。
ぐいっと、彼を振り向かせようとするかのごとく、引く。
レイの目が、自分をとらえた。
突然のことだったはずなのに、彼の表情に驚きはなかった。
無理に自分に気付かせたのに。
相変わらずの、無表情。
気に入らない。
「レイ。なんで気付かないのよ。さっきすれ違ったのよ。知っている人に会ったんだから、ちょっとあいさつぐらいするのが普通でしょう?」
彼は自分に気付いていなかっただろう。意図的に無視したわけではないのだろう。
けれど、サーナにはどちらでも良かった。自分は彼の存在に気が付いた。彼はそんな自分と目を合わせなかった。そこがいけないのだ。
「それとも、私のことなんか知らないっていう気? そんなことないわよねぇ。君にとって私は、いじめられているところを助けてくれた、恩人ですものねえ」
口調は粘ついていた。顎を少し上げ、ほとんど視線の高さは変わらないも拘らず、見下ろすような目付きを向けた。口元は、これ見よがしに歪んでいる。
なのに、彼は反応を示さない。呼吸一つ乱れた様子はない。
その上で、踵を返した。歩き出す。先程まで向かっていた方角に、再び足を向ける。
サーナを蔑ろにして。
「ちょっとっ! 待ちなさいよっ」
あまりの仕打ちに呆気に取られてしまって、行動に出るのに少し遅れてしまった。
サーナは急いで彼の後を追う。
背に張りついて、後を付いていくのだ。
「それにしても驚いたわ。何がって、君が街に出ていることよ。君って友達いないでしょ? それに性格も、なんていうか暗いじゃない? 休暇日に街中出て遊ぶって、想像つかないのよね。今日は一体何の用で出てきたのかしら?」
真後ろから、攻撃。
もちろん今更、こんなことで彼は振り返りなどしない。
それでもサーナは人込みを縫って進んでいく彼について歩き、悪態をつき続けた。容赦はない。
「買物? 気分転換? 一体何なのかしら? 私、気になるわぁ。これっていい話のねたになるのよ。だって君ってとっても目立っているんですもの。みんな、君の行動、一つ一つに興味あるのよね。『闇夜の魔物』さんが、どういうことをしているのかって。普通の人と違うものねぇ?」
「…………」
「本当に君って変わっているわよねぇ。喋れるのに喋らない。笑えるのに笑わない。泣けるのに泣けない。そうなんでしょ? 喋れない、笑えない、泣けないっていうならまだ分かるけど、そうじゃないっていう話じゃないの。それに、『精霊』の声が聞こえるのに契約を結ばない、ですって? 不思議ねぇ。謎だわぁ。みんな、『精霊』と契約結びたくって仕方ないのよ? なのに君は結びたくない! どういうこと?」
「…………」
「それは『浄化』の力だけで充分ってことかしら? それとも、『精霊』が嫌いなの?」
不意にレイの進行方向が変わった。
彼は器用に人の間を擦り抜け、脇道に入っていく。サーナも遅れまいと必死に付いていった。
二人が足を踏み入れた先は、住居が立ち並ぶ場所。両側にはくすんだ白い石壁の家々。
人影は疎らだ。商店が立ち並び、人で溢れかえる大通りの賑やかさが嘘のように遠いものとなる。
サーナの声も、大通りにいたときと同じ音量では大きすぎるようになる。だが、彼女は音を下げなかった。
これでもかと、背後から迫ってやるのだ。
「『精霊』が嫌いって、いい考えだわ。今まで聞いたことないけど。そうねぇ。そういうの、あってもいいわよねぇ。『精霊使い』に嫌なことされた、とか。ない話じゃないわね。そういえば、君をここに連れてきたのって、『精霊使い』だったよねえ?」
「――――」
「…………」
一瞬、空気が変わったと感じたのは気のせいか。何か変化が訪れるのではないかと身構えたが、そうではないらしい。
奇妙な沈黙だけが流れ、結局は何も変わっていないことに気付く。また、サーナは口を開く。
「そう。君って本当に私たちの中では注目の的なのよ。君のことについてならどんなに小さなことだって噂になるわ。今ではね、いろんな噂が流れているの。例えばね、君は本当は太陽が苦手で、強い陽射しにずっと当てられていると溶けちゃうとか、夜になると起きだして、植物の生気を吸い取って、それを栄養にしているとか。ふふ。こんなのもあるわよ。寝言、よくいうらしいじゃない。普段喋らない分、寝ながら喋っているってことかしら。『お母さーん』って。夜な夜ないっているらしいじゃない」
「…………」
また、空気が変わったような気がした。
今度こそは気のせいなんかじゃないかもしれない。いや、やはり気のせいなのかもしれない。表面上は全く変化はない。
だが、変化があろうがなかろうが、もうかまいはしなかった。サーナは勢いに乗っていた。
勢いに乗って、言葉を吐き出し続けていく。
「『お母さーん』ですって。笑っちゃうわ。君、いくつになったと思っているの? 私より一つ上って聞いているけど? そんな年になっても保護者いないとやっていけないってこと? そうそう。こんな話もあるわよ。『精霊使い』や『浄化者』が学校に誰かを連れてくることはよくあることだけど、大体の人は入れっぱなしじゃなくて、最低一回は会いにきて様子を見るものなのね。でも、君を連れてきた『精霊使い』、一回も会いにきていないでしょ? なぜだか知ってる? それはね、あの人、君を学校に入れて、これから君の保護者になるんだ、みたいなことを王宮にいって、養育費をもらってとんずらしたっていう話よ。ふふ。笑っちゃうわ。とんだだしに使われたものね。とんだ人間に捕まったものだわね!」
その時だ。
彼の纏う空気があからさまに変わると同時に、彼が足を止めたのだ。
サーナの全身に鳥肌が立った。術をかけられたかのように、一瞬動けなくなってしまった。
そして、彼はとうとう振り返ったのだ。
自分に、反応を示したのだ。
「――――」
勝った。
そう思った。
何に対してなのか、どうしてなのか、理由は分からない。説明しろといわれてもそんなものは出来ない。けれど、勝った。確実に自分は勝った。そう、感じたのだ。
どこからともなく、笑いはこみあげてくる。サーナの口を突く。
「ふふふ……。あはははは。やっと、やっと振り向いたわね。ふふふふ。よく顔を見せてよ。うふふふふ。君の顔、見たかったのよ。ふふふふ。こうして君の顔を真っ正面から見れる人なんて、そんなにいないんでしょうね。ふふふふふ」
体は震えている。
こみあげてくる笑い声は精彩に欠き、やはりどこか震えている。
鳥肌は立ったままだ。
万年夏のリル=ウォークの昼中に、寒いと感じるだなんて。
「――今、何て――?」
すぐには判断が下せなかった。
その声が、一体どこから発っせられたのか。
けれど、視覚は確実に彼の口の動きをとらえており、間違いなく、それと同時に言葉は聞こえてきていたのだ。
小さな、声。
なのに、鋭く耳に届く声。
徐に彼が口を開いていた。
「……君、喋った?」
「――今、なんていったんだ? 君は、……なんていった?」
真っ正面から。
彼の黒い両眼が迫ってくる。
強い圧迫感。何だというのだろう。
息が、苦しい。
「何、って……。き、聞いてなかったの? ちゃんと、……ちゃんと人の話は聞きなさいよ。――君を連れてきた『精霊使い』が、とんでもない人だったって……そう、いったのよ。そう……そうよ。君って相変わらず不幸の道まっしぐらなのよ。かわいそうよねえ。ええ、かわいそう……! 何? もしかして、今日街に出たのは、その『精霊使い』探すためだったとかいうわけ? ああ、本当にかわいそう! なんて酷い人に捕まったのかしら! 忘れちゃいなさいな、あんな『精霊使い』! 極悪人だって、憎んじゃえばいいのよ! そうよ。そう憎んだらいいじゃない! あいつは極悪人! 極悪人よ! 惨い詐欺師よ! 最低の人なのよっ!」
直後。
突然それは訪れた。
静寂がサーナを覆った。
一瞬にして、視界も頭の中も真っ白になっていた。
「――――」
何が起こったのか、把握できない。
視点は定まらず、空虚な地を映し出している。
何が、起こったのか。
ただ、左の頬に痛烈な痛みだけが走っていた。左頬の熱だけが、一瞬の出来事を報せるかのごとく、残っていた。
視線を動かす。
怒りを顔に、目に、顕にしている彼を――レイを、見る。
彼が、自分を殴ったのだ。
彼が、殴ったのだ。
いきなり、殴ったのだ。
怒って、殴った。
自分を、殴った。
レイが、殴った。
殴った。
左頬に、手を添える。
痛み、そして彼の顔。
笑いが、歪んだ口元にこみあげてくる。
「……ふふ……。何よ、特別ぶっちゃって……不幸をみんな寄せ集めてきたっていう顔しちゃって……。何よ、何よ……何よっ! 所詮、あんただって単なる人じゃない! かっときたら手を上げる、単なる人じゃない! 普通の人じゃない! あんたは特別なんかじゃない! みんなより不幸なんじゃない! あんただって、普通の人間じゃないかっ!」
叫んだ。駆けた。
サーナは彼の脇を駆け抜けた。
走った。
走るしかなかった。
逃げ出したんじゃない。
逃げたかったんじゃない。
違う。
ただ、感情の高ぶりを、こうしなければ押さえ付けることが出来なかったのだ。
こうしなければ、……いけなかったのだ。
「……あんたも、普通の人間なんだからっ……」
普通の、人間。
特別不幸なわけじゃない。
彼一人が、不幸なわけじゃない。
彼一人だけが、不幸なわけじゃない。
彼一人だけが、不幸を感じているわけじゃない。
「あいつ、あいつ……!」
自分は、幸せ。
そう。幸せ。
力がある。居場所がある。
だから、幸せ。
幸せ。
しあわせ。
しあわせ――何?
「あいつ、あいつ、あいつ……!」
胸の中で行き場のない感情が渦巻いている。
それを沈めようと、サーナは走る。
サーナは、走る。
走って、レイから離れていく。