3-2
レイという少年の存在を知ってから、サーナは彼を授業で幾度となく見かけることになった。彼の慣らし期間が終わり、他の研修生達と同じ授業内容になったためだった。
確かに、レイはコウイがいったように変わった少年だった。
ここには学校の性格、機能ゆえに「変わった」人間がよく集まるといわれていたが、その中でも彼は一際群を抜いていた。
それは全てその顔のせいだった。
全く表情の出ない顔。全く部位の動くことのない顔。
何をしても何をされても、体力づくりのために走りこんだ後であっても、彼は顔を崩さなかった。いつも同じ、活力の感じられない顔をしていた。
そんな彼に同じ級の少年たちはあだ名を付けた。
「闇夜の魔物」
髪と目が闇のように黒く、話さず、太陽の光を避けるように一人木陰にいて、いつも死人のような表情をしているためだった。
実際、夜、月明かりの下で彼が一人佇んでいるのを目撃した少年もいた。
彼はいつの間にか少年たちの格好の遊び道具になっていた。この間サーナが目撃したように、追い立てられ、暴力をふるわれ、罵りを受け、陰険な嫌がらせをされた。最初はかばっていた教師陣も、彼があまりにも無表情で相変わらず礼の一つもうまくいわないためか、そのうち、無関心になっていき、少年達のいじめはとどまることを知らず、毎日のようにレイは少年達の遊びの標的となっていた。
そうして、彼が学校に来てから一ヵ月近くが過ぎた頃。
サーナはその日の昼、一人急いで庭を横切ろうとしていた。
彼女は『精霊使い』と『浄化者』の両方の力を持っているので、二つの授業を取らなければならなかった。そのため、他の研修生に比べ倍忙しいのであるが、今日は昼食後に、溜まった疲れのため自室で寝てしまい、昼からの授業に遅れてしまっているのである。同室の友達たちは午前中で授業が終わっているので昼食後の休み時間から町に出ていて、起こしてくれる人がいなかったのが最大の敗因だった。
サーナは普段から全く授業に遅れないわけではない。そう、ちょくちょくと授業開始に間に合わないことはサーナにはあった。だが、次の――すでに始まっているので今の――授業だけは絶対に遅れてはならなかったのだ。担当の教師が半端ではなく恐ろしいのだ。
なのに、この有様。
寝起きのために絡まった髪をなおすことも、しわになった服を整えることもなく、サーナは庭を駆け抜けていこうとしていた。
近道だ。
年少級の人間のほとんどが自由時間であるにもかかわらず、庭は静かで、緑の木の間を縫って駆けていくサーナの足が土を蹴っていく音がよく耳に届いていた。それと、自分の呼吸音。
なぜよりによってこんな時なのだろう。なぜ今日こんなことにならなければいけなかったのだろう。
心の中で自分の所業を強く呪いながらサーナはひたすら走っていた。
が、そこで、他の音がしたのだ。
人の声だった。
何事だろうかと少し興味をそそられたが、今はそんなことにかまっている場合ではないと、音に反応して遅くなった足を必死に動かし先を急ぐ――はずだったのに。
ばきばきっ、どさっ。
「…………」
サーナの行く手を阻んだのは、少年。
木の中から背を向けて現われ、そして地に倒れこんだ。
身を小さくし蹲っているが、声はしない。
思わずサーナは立ち尽くして彼のことをまじまじと見下ろしてしまう。
レイ、だ。
「ほら! 泣いてみせろよ! 痛かったんじゃねぇのか? そういったら許してやるから、泣けよ!」
「それとも涙も出ないのか? 闇夜の魔物だからか? 涙なんていう人間っぽいの、ないのかよ!?」
「どうなんだよ!」
「なんとかいえよな!?」
少年が、四人。木の向こう側から現われる。レイを囲み、見下ろし、足蹴にまでしている。
サーナは、その様子をしばらくじっと見ていた。
動かない、レイ。
痛め付ける少年たち。
少年たちは皆、サーナより年下だった。後輩にあたる。四人を相手取ったとしても、サーナなら勝ててしまう力しか持たない者達。
「…………」
しばらくその様子をうかがうと意を決した。
どうせ授業はもう遅刻なのだ。
遅れるなら、とことん遅れてもいいかもしれない。それに、遅れた理由をこれにこじつけられないだろうか?
「やめなさいよ! 何やってるのよ! 先生にいい付けるわよ!? それともあなたたち、ここで私の相手をしたいわけ!?」
声を張り上げると少年達の動きが一瞬止まった。揃ってサーナの顔を見、皆の顔を見、そして、最終的には去っていく。
そんなに私の相手が嫌なのかしら。それとも、先生にいい付けるっていったのが効いたのかしら。
すごすごと去っていく少年達の背を見ながらそのようなことを考えてしまう。
すると、四人の少年たちから少し遅れてこの場を立ち去ろうとする少年がまた一人、視界に飛び込んできた。
レイだ。
彼は立ち上がり、素肌や服に付いた土を払い落とすとサーナに背を向ける。やはり、無言のままで。無表情のままで。
この前、一度同じような時に出くわしたわけだし、話にも散々聞いていた。その時は大して何も思いはしなかったが、自分が当事者となるとこの状況は決して許されるものではなかった。
わざわざ助け出してやった自分に一言もないとは。
一度にして、哀れみが怒りに代わる。
「ちょっと、待ちなさいよ、君! 何なのよっ。私、君のこと助けてあげたのよ!? お礼の一つぐらいいったらどうなのよ!」
彼が足を止めた。
振り返り、サーナを見る。
だが、その口は開かれそうにもない。
奇妙な静寂。息苦しくなる。
「…………」
冗談じゃないとサーナは感じた。
私は彼のことを助けたのだ。その上で礼ぐらいいえといったのだ。
何か自分は間違っているか? いいや。間違ってなどいない。自分は何も間違ってなどいない。
なのになぜ良いことをした自分がこれほど嫌な思いをしなければならない? これほど重苦しい空気を耐えなければならない? 現状の打開をわざわざ図らなければならない?
余計な労力。
冗談じゃない。
「ま、いいけどね。これで授業に遅れた格好のいい訳が出来たってもんだし。四人の男の子にいじめられていた、かわいそーな、不幸を目一杯抱え込んだ子を助けて慰めていましたって。素晴らしいじゃない! 私ってとってもいい子だわ。最高だわ。覚えがめでたいわ。印象がよいわ。君、どうもありがとう。お礼をいっておくわ。君がいじめられていてくれたおかげで助かったんだから。これからも私が授業に遅れそうな時にはよろしくお願いしたいものだわね」
口調はひどく刺々しかったはずだ。
皮肉という概念がない相手でも口調から嫌味をいわれているということは分かるようにいったのだから。
彼を怒らせてみたかったのだ。
サーナとしては、真正面から喧嘩を売ったつもりでいたのだ。
なのに――彼の表情は動かない。
口元も、前髪に多く隠れている瞳の彩も、変わりはしなかった。
そして彼は、きびすを返してやはり去っていこうとする。
何もいわず、何も告げず、感情を吐露しないで、行ってしまおうとする。
サーナを無視して――。
「待ちなさいよっ!」
足を踏みだしサーナは彼を追い、その腕をとっさに掴んでいた。
出来るかぎりその細い腕を締め付け、力一杯に引っ張る。顔を無理矢理自分の方に向けさせる。
表情の宿らない黒い瞳。
「何なのよ、あんた! 何者なの!? 本当に人間なの!? どうして何も反応しないのよ。返しなさいよ。何でもいいから、いってみなさいよ!」
彼の目はサーナをとらえていた。なのに、その目から彼が何を考えているのかはさっぱり分からなかった。感情がこもっていないのだ。目にすら、感情がない!
どうして!?
「なんで何もいわないわけ!? 本当に感情がないっていうの!? 感情がないならないでそういってみたらどうなの!? 自分は感情を持っていませんって。それもいわないって、どういうこと!? 待っているわけ? 誰かが気付いてくれるまで、待っているわけ!?」
待って、いるのか?
本当に、待って、いるのか?
何かを、待って、いるのか?
なぜ待つ?
自分の事を知ってほしいと、待っている?
どういうことだ?
どういうことだ?
どういうことだ?
どういう……ことだ!?
「あんた、自分のことを不幸だなんて思ってるんじゃないでしょうね!? 自分はこの世で一番不幸だから、誰かが助けてくれるの待っているっていうんじゃないでしょうね!? 自分は不幸だから、人が哀れんでくれるのは当然だと思っているんじゃないでしょうね!?」
不幸だから、自分は誰よりも不幸だから、他人が自分のことをかわいそうだと思うのは当然のことだと。自分は不幸だから、それだけの見返りがあるのは当然のことだと……!? 手に力をこめた。
一層彼の腕を締め付ける。
彼の指先が変色するほどに、締めあげる。
「そうよねぇ!? 君って不幸ですものねぇっ。幼い頃に両親とは離れ離れになって、拾ってくれた家ではこき使われてぼろぼろになって、挙げ句の果てに見捨てられて『魔』にもう少しで殺されそうになってっ。やっと今、ちゃんと君のことを守ってくれる場所に来たんですもの、ここではちやほやされて当然なのよねぇっ。君はこの世の不幸、全て体験してきたのよねぇっ。世界中で一番不幸だったのよねぇっ。そうそう、君は以前、拾ってくれた家の御主人様の、慰みものになっていたんですって?」
その時だ。
彼が動いたのだ。
締めあげていたサーナの腕を力付くに振りほどいたのだ。
双眸を見開き、サーナを正面から見たのだ。
「!」
風が吹いた。
彼の黒い前髪がなびいた。
瞳が、顕になる。
「――!」
サーナは、慰みものという言葉の意味を知らなかった。
コウイがいったから知っただけで、意味は、分かっていない。
ただ、コウイの口調から、その時の空気から、それが今のレイに絶大な効果を及ぼすのだと、それだけは感じていたのだ。
深く、彼の心をえぐるのだということだけは。
「…………」
レイは、去っていった。
駆けて、視界から消えた。
サーナは彼の消えた方を見つめていた。
彼の細い腕をとらえていた手の指先が痛い。
振りほどかれたときに彼の腕に弾かれたのだ。
だから、痛い。
「……あいつ……」
脳裏にある残像は、彼の瞳。
風の悪戯で見ることができた、彼の瞳。
濡れた珠のようだった。
「……あいつ……」
指先を、もう一方の手で包み込む。
彼の去った方を見つめる。
指先が、痛い。