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月夜の兎  作者: 望月あさら
■ 2 ■
12/36

2-5

「――もしもし?」

 乳白色の靄のかかった風景。

 全てがぼやけていた。

 自分に刺激を与えるのは、冴々とした空気と、凛とした水蒸気と、氷のように冷たい露。それと、

「……もしもし? 風邪、ひくわよ」

 声。

 こえ?

「…………」

 暖かな陽射しが見えた。木々の間から射している。

 靄は……ない。夢の中の情景だったらしい。代わりに現われるのは、顔。瞳子の、不思議そうな顔。

「目、覚めた? どうしちゃったの、玲司くん。何か、思いっきり寝呆けてない? それとも、こうしたくて、こうしたの?」

 こうしたくて……?

 自分は、仰向けになって寝ている。

 寝て、いる。

 瞳子の向こう側に広がる空……空?

 寝ているところは、芝生の、上。

 ゆっくりと起き上がる。両手を冷えた地面について。

 途端、右手の指先に痛みが走った。

 手を目の前に持ってきて、見た。

 指先に、無数の細かい切傷。

 その、赤い軌跡。

「――――」

 自然に、両眼が見開かれた。

 思い出した。

 夜、自分は――。

「サーナ……サーナは!?」

 瞳子に尋ねる。彼女はわけが分からないと微かに眉を顰め、それでも答えを返してくれる。

「……真恵ちゃん? まだ、部屋で寝ているでしょう?」

 部屋?

 違う。

 部屋だって? そんなはずはない。

 部屋の中にいるなど、そんなはずは……そんなはずは、ない……!

 立ち上がると同時に家屋敷の中に向かって玲司は走りだしていた。

 背後で瞳子が困惑の声をあげていたが、かまってなどいられなかった。

 空の明るさと、太陽の陽の強さと、瞳子が一人、普段着にエプロン姿で外にいたことを考慮すれば、今は早朝。六時か、六時半。そのあたり。

 この時間、家屋敷の住人で普段から起きているのは、朝食と弁当の支度のある瞳子か、玲司自身ぐらいのものだった。

 他の住人はぐっすり寝ているはず。真恵と公一と薫は七時すぎにならないと起きないし、律子に至っては昼近くだろう。

 だから、まだ静まり返っている家の中を、玲司は走った。階段を駆け上がり二階へ。

 叩く扉は真恵の部屋のもの。

「サーナ、サーナ!」

 後ろから瞳子が追いかけてきていた。何をしているのかと問いただしている。

「サーナ! いるのか!? いるなら返事をしてくれ!」

「ちょっと、玲司くん。どうしたっていうの!? ねえ、やめなさいってば。玲司くん!?」

「サーナ!」

 扉を叩き、叫ぶ。

 応答はない。

 隣の部屋から薫が出てくる。

「一体何なんだ、こんな朝早くから」

「サーナ!」

 応答が、ない。

 とっさにドアノブに手をかけた。

 押し開こうとした直前、その手を薫の手がとらえた。強く握り、ドアを開かせないようにしている。顔を上げると、彼女が厳しい目を自分に向けている。

「何をやっている!? 女の部屋を勝手に覗く気か!?」

 そうじゃない。そんなつもりはない。

 けれど。

「サーナが……!」

「どうしたっていうんだ、レイ。らしくないぞ!?」

 らしくない。

 らしくないのかもしれない。

 だが、そんなこと全てが今の玲司にはどうでもいいことだった。

 大切なのは体裁じゃない。建前じゃない。

 そんなことよりも、サーナが。

「サーナが……っ!」

 その時、その扉は内側から開かれる。

「――ちょっとぉ。なんなの? 何の騒ぎ? まだ眠いんだから寝かせてよ、ねぇ?」

 中から姿を見せるのは、この部屋の主、真恵。玲司の目の前で、一つ、大きなあくび。

「……サーナ?」

 いつもと変わらない真恵を目の前にして、玲司は言葉を失った。呼び続けていた名を惰性で口にすることしか出来なくなっていた。そして、思わず軽く開かれた口を閉じることを忘れてしまう。

「何なのよ、レイ。やぁだ。なんて惚けた顔してんの? で、何があったっていうの?」

「…………」

 玲司は答えられない。

 何もおかしいところが見られない真恵を前に、狐につままれたような気分になっていた。

 これは一体どういうことなのだろう。

 夜、真恵は家屋敷から出ていったはず。何かに操られるようにして、どこかに行ってしまったはず。自分はそれを阻止するのに失敗して、そのために朝まで芝生の上で寝る結果になっていたのではないのか?

 なのに、真恵はここにいる。いつもと変わらず、ここに立っている。起きたての顔をし、しわのついたパジャマを着、ここに立っている。

 どういう……ことだ? 自分が見たと思ったのは、夢だったのか? 全てが、夢だったのか? 本当に自分は、寝呆けていたというのか……?

「ところで、今朝の体調はどうだ?」

 変わらぬ真恵に薫が尋ねる。

「んー、そうねぇ。寝起きだからよく分からないけど、ちょっと、気怠い感じ、するわねぇ。何か、体が重いっていうかさぁ」

 いつもの口調と精細を欠く言葉で真恵が答える。

 確かに、気怠そうにしていた。顔色も悪い。あくびは止まない。しかしそれらは全て、いつもどおりの範疇で片付けられてしまうことばかりだった。

 ……本当に、何もなかったのか?

 それならそれでかまわない。否、むしろ喜ぶべきだ。彼女の身に何かが起こったわけではなく、あれは自分の夢だったのだ、と。自分が寝呆けていたのだ、と。

 それならそれで、喜べばいい。

 喜べば、いいのだ。

 そう。夢だったのだ。彼女の身に何かが起こったわけでは決してなかったのだ。

 自分がかってに作り上げた幻だったのだ。 そうだ。結局、そうだったのだ。

 自分の取り越し苦労だっのだ。

 何事も、初めからありはしなかったのだ、と――。

「あ、真恵ちゃん、また」

 後ろから瞳子の、声。

 振り返ると、彼女の視線が床に落ちていることに気が付いた。

 玲司もその視線の先を追っていく。

 辿り着く所には、真恵の素足。

「――――」

「やぁだ。まただ。一体何なのかしら。いつの間にこんなんになっちゃうのかしら」

 真恵の、素足が、汚れていた。茶色く、汚れていた。

 見れば、分かる。何が付着しているのか。 何が汚しているのか。

 土、だ。

 土。

「どうしてそうなっちゃうのかしらね。裸足のまま外に出たわけじゃないんでしょう?」

「なんで裸足で外に出なきゃいけないの? 大体、夜に外に出ていく用事なんてないわ」

「だったらどうして? ああ、またシーツ洗わなきゃね」

「どうしてなのか、私が知りたいわよ。……レイ? どうかした? 止まっちゃってるわよ」

 いわれて、気が付いた。真恵と瞳子が会話をかわしている間、自分が微動だにすらしていなかったことを。

 真恵の足に視線を落としたまま、息さえも殺してしまっていたことを。

「それで、レイ。朝早く何の用?」

 改めて尋ねられた。

 真恵の顔を見る。

 原因不明の衰弱のために痩せてしまった頬。青白い肌。それなのに、いつも気力に充ち溢れている、瞳。いつもと変わらない、真恵。

 平静を装い、玲司はゆっくりと彼女に答える。

「……いや、何でもないんだ。寝呆けていた、だけなんだ」

 寝呆けていた……違う。

 夢だった……違う。

 自分の妄想、違う。幻想、違う。

 違う、違う。

 全部、違う。

 薫と瞳子と言葉をかわす真恵の前で、玲司はじっと彼女の顔を見下ろしていた。

 変わらぬ、彼女。

 玲司が誰にも気付かれぬよう右手でそっとつくるのは拳。

 肌に触れる指先が痛い。傷口が、痛い。

 それが明快に自分に訴えてくる。

 真実を、伝えてくれる。

 全ては現実、と。

 真恵の笑顔。

 それを目蓋の裏に残し、玲司はその場を去っていく。

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