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召集がかかり、玲司、真恵、公一の三人に試験の通達がいい渡された次の日の夜、深夜一時。
家屋敷の住人たちは、皆自室にいた。六人の内の何人が、もう床に就いているのかは分からない。だが、夜更かしをするような人間はいないので、ほとんどが眠りの中だということは容易に想像がついた。
玲司は、床に就いている人間の内の一人だった。彼は普段から夜更かしというものをほとんどしない。ほぼ毎日、深夜零時にはベッドの中に入りその数分後には深い微睡みの中に落ちていっていた。
だが、今夜は少し様相が違った。零時前にベッドに入り、目を閉じたところまでは一緒だった。が、その後が違う。一時間近くが経過した今になっても眠りに落ちていけないのだ。
仕方なく、玲司は両目を開いた。体を横向きにしていたところ、仰向けになる。くすんだ白い天井を見据えたまま、両手の平を頭の後ろにやった。ゆっくりと息を吐く。
なぜ眠ることが出来ないのか。その理由は分かっていた。つまり、気持ちが高ぶっているのだ。高ぶっているといっても、それはよいことの予兆ではない。むしろ逆。不安が心を支配し、鼓動をはやくしているのである。
そのために、眠れない。体をゆっくりと休めることが出来ない。
「…………」
暗闇の中、玲司はじっと天井を見つめていた。基本的に、闇は好きだった。周りが見にくいということは自分も見られにくいということ。その中で自分がどんな顔をしていようが、周りがどんな顔をしていようが分からなかったから。暗闇の中の対象物に対して一つ判断を下しても、それが絶対に正しいということは出来なかったから。他の解釈の余地が、自分のいいように納得する余地があるということだったから。その事実は結局、お互い詮索の意味がないということでもあったから。
闇の中なら、じっと考えることが出来た。周りが、見えない。やっと見えない。見えるのは自分の世界だけ。在るのは自分の世界だけ。
普段玲司は決して周りの干渉を避けようとしているわけではなかった。それを本心からいらないといったことはなかった。だが、自分の時間がないといけないことも分かっていた。そうでなければバランスが取れないでいた。他者の深い干渉――不快、とはいわない。が、負担、ではあった。望むか望まないかと問われたら、迷った。望みたい、気は、ある。しかし、望んだところで、努力してみたところで、成功はしないだろうと思っていた。成功を信じたことがないわけではない。努力は報われるのだと、信じたことがないわけではない。他人と深く関わりたいと、望んだことがないわけではない――後戻りが出来なくなるぐらい、傷つくまでは、ぼろぼろになるまでは、捨てられるまでは。
正直、今はどうでもいいと思っていた。なるようになればいい、と。他者に深く関わろうが関わるまいが。それなりに穏やかに生きていければ。他人など、どうでもいい、と――ただ、一人のことを除いては。
サーナ。彼女のことは、大切だった。自分のそばにいてくれる。自分から口に出して望んだわけじゃない。なのに、彼女は自分のそばにいてくれた。たくさんの笑顔をくれた。自分に、命の貴さを教えてくれた。
大切だと思った。誰よりも幸せになってほしいと願い、守りたいと思った。
その感情は恋愛のそれとは違うのかと、問われたことがある。相手は公一。その時はまだ何も分からず、「違うと思う」とだけ答えた。けれど、今なら「違う」とはっきりいうことが出来る。確かに、彼女のことは大切。かといって、そばからいなくなるのを恐れているのかといえば、そうではない。彼女を独占したいとも思わない。彼女が幸せでさえあれば、そばにいずともかまわない。自分が嫌われることも厭わない。
恐れるのは、彼女が幸せを手に入れられないということだけ――。
「…………」
その彼女の様子が、変だった。今日の、昼、学校での、昼食時。突然、彼女は倒れた。意識を失った。彼女のクラスで騒ぎがあったことを聞き、駆け付けると、床の上に彼女の体が横たわっていた。生徒と教師が駆け寄り、救急車を呼ぼうとしていた。それを阻止したのは、やはり騒ぎを聞き付けやってきていた公一だった。彼は周りにいた人間に「しばらく寝かせれば大丈夫だから、真恵のことは昔からよく知っていて、時々こういうことがあるけど、寝かせておけば大丈夫だから」といい続け、なんとか保健室に連れていき、人がいなくなったところを見計らって真恵を連れて家屋敷まで瞬間移動したのだ。どうやら方向音痴のおかげで一度飛んだだけでは家屋敷に到達することが出来なかったらしく、体力を使い果した公一まで学校に戻ってこなかったのだが、事後処理を結果的に任された玲司はなんとか周りを誤魔化し、納得させ、事無きを得ることが出来ていた。
しかしその後、真恵の目はなかなか開かなかった。玲司が学校から帰ってくる時間になっても、夕食の時間になっても、真恵は目覚めなかった。その両眼が開いたのは午後十時ごろ。彼女は虚ろな目で周りを見、惚けた状態で目の前に出された食事を半分食べると、また気絶するように眠りに落ちていった。
その時の彼女の様子は、特別変というわけではなかった。長時間眠り続けた後目覚めた時に虚ろなのは仕方の無いことであるし、目覚めてすぐにたくさん食べられないのも理解できる。またすぐに眠りに落ちていったのも、完全に目覚めていたわけではないといえば説明がつく。問題はその辺りにあるわけではないのだ。問題は、なぜ彼女がそのような状態にあるのか、ということだ。
あの日から――そう。真恵が木の根元で倒れていたあの日から、何かが狂い始めた。昨日は召集から帰ってきたらもう日が暮れていたし、今日は今日で真恵が倒れたということもあってあの現場には行ってないが、確実にあそこに何かがあるのだと玲司は考えていた。召集の最後に有喜から現場に行ってもよいという許可が下りたのことからも、そう思われた。
あそこに何かがあるのだ、と。
「…………」
玲司は一つ、深呼吸をした。
色々と考えていたら、余計に目が冴えてしまったようだ。少しだけ自分にまとわりついていた眠気も飛んでいってしまったらしい。しかも、喉まで乾いている。
一度一階に下りて喉を潤そうと思い立つ。
ベッドから抜け、パジャマの上にカーディガンを羽織る。静かに部屋を出て、暗闇の中階段を下りて一階にいく。台所に向かう。
辺りは静かだった。山の中にあるために、昼間から周囲の騒音に悩まされることはほとんど無く、冬の雪の降る夜など、耳を澄ませば雪の落ちてくる音が聞こえるほどだった。
玲司は出来るかぎり足音をたてないように歩いた。台所に入るとガラスのコップを一つ食器棚から取り出し、水道の水を注ぎ飲み干して、コップを流しに置く。
嘆息するといくらか気が落ち着いたようだった。
やっと眠れるかもしれない、そう思いながら、ゆっくりと玲司は部屋に戻っていこうとした。
階段に向かう。階段は玄関の右斜め前にある。――が、そこに到達しようという時に、人影が見えた。階段から下りてくる人。足音一つたてず、玄関を出て行こうとする人――。
「…………?」
サーナ。
裸足の、ままだった。パジャマ姿の、ままだった。
真っすぐ前だけを見て、彼女は出ていった。
どこへ? こんな時間に、一体どこへ? どこへ、行く?
「…………」
おかしい。どう考えてもおかしい。
真恵の様子が、おかしい。
「サーナ」
駆けていた。駆けて、その後を追った。玄関を飛び出した。
静寂の月夜の下、真恵が獣道を下りていこうとしている。その手前で、玲司は名を呼ぶ。
「サーナ!」
反応はない。声が周囲に広まる中、真恵は振り返るどころか戸惑いさえ見せない。定められたかのような速度のまま、獣道に向かっていく。
「サーナ!」
寄っていく。目に見えない重圧が玲司の進行を阻んでいた。空気の壁。動きが制限される。足が、思うように動かない。
「サーナ……っ!」
それでも玲司は近寄っていった。徐々に歩みを進める真恵に近付いていった。
必死になって右手をのばす。彼女の歩みを止めようと、その腕をとらえようと、手をのばす。
「サーナっ!」
体に触れる直前、真恵が振り返った。
玲司は目を見張った。
真恵の、顔。
表情が、ない。
いつでも気力を湛えていた両眼に、光が、ない。
傀儡のような、顔。
感情の抜け落ちた、顔。
「――――」
指先が彼女の手に触れた。
冷たい。
瞬間、
「!」
光。
爆発。
玲司の意識が、途切れる。