鬱病患者における意味の崩壊
つまり、近代的に高度に発展した法秩序のもとでは、その正当性を疑うことは個々人の単位の利害のためには無意味・ナンセンスであり、そこにおける意味認識の支配構造を「意味論」として俯瞰的に浮かび上がらせることは難しい。しかし、人間存在において「意味論」がなお存在することは、例えば鬱病や児童虐待といった極端なケースを考えれば論理的に示せる。
ある種の鬱病の臨床においては、行動意欲が生活の継続を害するほど、つまり病的に、失われる。あるいはさらに、「生きる意味が感じられない」、「生きること自体が苦しい」として自死を招く。しかし、考えてみれば、人間という動物の行動は、経験や学習によって形成された確率的な期待と、実際に行動してみて得られた報酬(や避けられた損失)の恒常的なサイクルによって成り立っている。したがって、期待して努力したが報われない体験を繰り返し強いれば、いかなる頑強な精神力を備えた個人でも必ず鬱病にすることができる。
ただし、「期待して努力したが報われない体験を繰り返し強いる」ことは空想的であって、現実性が乏しいかもしれない。ある年齢の兵士が敵に捕らえられて拷問を受けるとしても、それまでは周囲に愛されて育ち、地位や尊厳や収入に報われるキャリアを歩んできたかもしれないからだ。逆に言えば、意味論の高度な空白は、幼少期に愛情の不足した虐待児童において形成されると考えられる。特に、子などの弱者に対して否定ばかり浴びせ価値観を強要する精神的な異常者を親に持ったヤングケアラーなどにおいて、精神的虐待は顕著だ。
共感的知力が欠落した親のうち加害的な者は、単に自分自身のためでしかない価値観を子などに強いて、子自身の主体的な価値観や感情を認めない。そこにおいては、「価値」の尺度はすべて与えられるものであり、自分自身の感覚的な快・苦から来た経験は否定される。自分自身の感情や意見を表明することは危険な状況に置かれ、自分自身の感情や意見を感じることも自ら抑圧されていく。あるいはさらに、「高学歴でない人間に生きている価値はない」という価値観で連日殴られれば、劣悪な生い立ちによって良い学歴が得られなかった子は、自らの人生においてある程度の食事や恋愛をしても、その日常に生きる喜びを感じなくなる。一言で言えば、「意味論の崩壊」が起こるのだ。
させられている我慢に価値があり、我慢しつづけた先において幸福に報われると希望して努力しながら、結局はその報酬が何もない。例えば専制国家において特殊部隊員やエリート工作員として育てられた子供達は稀にその洗脳構造に気づくが、一部の加害的な発達障害者によって深刻な精神的虐待を受けた子供達も同様の立場に置かれている。なぜなら、その「我慢」は、自称天才で客観的には出来損ないの、親本人のための世界観・意味論にすぎず、子の幸福のためにはむしろ的外れな目標設定であり、単に幼児という弱者を便利に奴隷化するために形成された洗脳手段にすぎなかったからである。




