「妹の方が好きだ」と言って婚約破棄した殿下、すぐ振られたそうです
「――婚約を、破棄してほしい」
婚約者であるユリウスにそう言われた。
エリスは一瞬、何事かと思った。
耳がおかしくなったのかと、そんなくだらない考えすら浮かんだ。
けれど、彼の口からその言葉が出るまでに、彼女の中ではすでに何度も似た会話を想像していた。
だから驚きはなかった。
ただ、思っていたより早かっただけだ。
「……理由を、聞いても?」
ユリウスは少し目を伏せ、芝生を見つめた。
陽光に照らされた横顔は誰が見ても絵になる。
けれどそのまぶしさの裏で、彼がどれほど多くの人を泣かせてきたかを知っているのは、エリスくらいだろう。
「……君の妹に、心を奪われた」
また、か。
エリスは小さく息を吐いた
ユリウス・フォン・リステイン。
王家の第一王子にして、あらゆる女性が夢を見る男。
舞踏会のたびに相手を変え、どんな令嬢にも同じ微笑を向ける。
けれどその笑みを「特別だ」と思わせる術を生まれながらに心得ている男。
エリスは、その笑顔に恋をしたひとりだった。
今思うと、馬鹿げている。
あの笑みが誰にでも向けられていたことなど、少し考えれば分かったはずだ。
それでも当時の彼女は、そこに“自分だけ”を見ていた。
王子が微笑むたび、世界の中心に選ばれた気がして、胸の奥が熱くなった。
恋とは、人を盲目にさせる病だと知ったのは、そのずっと後だった。
ユリウスは、優しかった。誰に対しても。
だからこそ、彼の言葉は軽かった。
そして彼の優しさは誰のものでもなく、誰のためにもならなかった。
彼は傷つけることを何よりも恐れていた。
だが、誰も傷つけないために選んだやり方が――結局、最も多くの人を泣かせていた。
彼は数えきれない恋愛の行く末に、エリスという女性と出会い、改心をした――少なくとも、そう見えた。
彼のまわりを取り巻いていた喧噪が、嘘のように静まり返った。
軽薄な冗談を言わなくなり、夜会では他の令嬢に目を向けることも減った。
酒の席でさえ、彼は早くにグラスを置き、穏やかに笑うだけだった。
「殿下は変わられた」と人々は言った。
王子の心を癒したのは、エリスだ――と。
だが、エリスは知っていた。
彼は手に入れた時点で既に飽きていたという事を。
ユリウスは熱に浮かされたように生きる男だった。
人を好きになるたびに心が輝き、飽きた瞬間に失う。
彼にとって愛とは、焚き木の火のようなもの。まるで燃え尽きることこそが証のように。
しかし、よりによって次の恋の相手が「自分の妹」だとは、エリスも思いもしなかった。
リリア、社交界では“社交の寵児”と呼ばれるほど明るく愛らしい娘だ。
「お姉さまはいつも冷静すぎるのよ」
リリアはかつて、そう言って頬を膨らませたことがある。
「殿方なんて、ちょっと褒めて笑ってあげればいいの。簡単だわ」
その軽やかな言葉を、エリスは笑って受け流した。
ある意味では、ユリウスとよく似ていたのかもしれない。
ただ、リリアの笑顔には罪の意識がなかった。
彼女は誰かを惑わそうなどと思っていない。
ただ、愛されることが当たり前だと信じているだけだった。
だからこそ、より厄介だった。
エリスはその夜会で、二人が並んで笑う姿を見たとき、胸の奥に針のような痛みを覚えた。
けれどそれを嫉妬だと気づくより先に、「ああ、やっぱり」と思ってしまった自分がいた。
ユリウスは、眩しいものに弱い。
リリアのように、まっすぐに笑う人間を放っておけるはずがない。
彼の心がどこに向かっているのか、エリスにはもう分かっていた。
「……そう。やっぱり、そうなるのね」
エリスはゆっくりと笑った。そこには怒りも涙もなかった。ただの呆れ。
「次は誰かしらって、ずっと考えていたの。まさか妹とは思わなかったけれど」
ユリウスが顔を上げる。その瞳に、わずかな痛みが浮かんだ。
けれど、それもまた――彼の“優しさ”の一部に過ぎないと、エリスは知っている。
「エリス、君を傷つけたくはなかった」
「それを言う人ほど、いつも誰かを傷つけてるわ。……あなた、まだ気づかないの?」
彼女は立ち上がり、ドレスの裾を払った。
陽の光が彼女の影を芝生に落とし、二人の間に伸びる。
「でもね、殿下。あなたが妹を選ぶのなら――それでいいの。ただひとつだけ、覚えておいてほしいの」
ユリウスは黙ったまま、彼女を見つめる。
「――“あなたの愛”は、絶対じゃないのよ」
風が通り抜け、花壇の白い花びらを散らす。
エリスは振り返らずに言葉を続けた。
「おめでとう、ユリウス。ようやくあなたらしい結末ね、どうぞ末永くお幸せに」
そう言い残して、彼女は歩き出した。
彼の背後で、鳥の鳴き声だけが遠く響いていた。
◇
結局、リリアとユリウスの恋は長続きしなかった。
聞くところによると、リリアから別れを切り出したらしい。
ユリウスは本気だったそうだが、リリア曰く――「生理的に無理」だとか。
ユリウスは相当ショックを受けていたそうだ。
寝込んだだの、夜会に顔を出さなくなっただの、あちこちで噂が飛び交っている。
けれど、エリスにとってはもう他人事だった。
むしろ、妹が涙ながらに恋愛話を持ちかけてくるたび、いつもなら鬱陶しく思えたその声が、今日はなぜか妙に心地よく聞こえた。
「お姉さま、あんなに格好つけてるのに、意外と面倒くさい人だったのよ!」
「そう……」
「何かあるとすぐ気取ったこと言うの。“君の瞳に永遠を見た”とか。もう鳥肌が立っちゃって!」
エリスは紅茶を口に含みながら、喉の奥で笑いを噛み殺した。
まさに、彼らしい。
あの人は、愛を言葉で飾るのが好きだった。
だが結局、そのどれもが自分の気分を正当化するための詩句にすぎなかった。
我ながら、よく婚約関係までいったものだと思うくらいだ。
「でも、リリア」
「うん?」
「あなた、泣いてないのね」
リリアは一瞬きょとんとした顔をして、それからあっけらかんと笑った。
「泣くほどの相手でもなかったわ」
その笑顔を見て、エリスはようやく心の底から安堵した。
これでいい、と。
今ではもう、“過去の物語”にすぎない。
ふと、窓の外で風が花壇を揺らす。
白い花びらが、あの日と同じように散っていた。
「……お姉さま、どうしたの?」
「いいえ、ちょっと懐かしくなっただけよ」
リリアは首をかしげ、すぐまた恋の話を始める。
エリスはその声を聞きながら、静かにカップを置いた。
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