はじまり
冷たい風が吹き荒ぶ崖の上。
眼下には荒れ狂う波が【それ】を漆黒の海底へ誘わんとしている。
人の形をした【それ】は崖の淵に立ち両手を広げ全身で風を受けた。
「いこう。一緒にいこう。」
「来て。こちらに堕ちて来て。」
目を閉じれば聞こえてくるのは風たちの声。海の甘言。
薄目を開け姿の見えないその声に【それ】は言葉を返す。
「私は、そちらにはいけない。」
白く長い髪を風に靡かせ【それ】は静かに歌う。
世界の喜びを歌う。
怒りを歌う。
哀しみを歌う。
楽しみを歌う。
始まりを歌う。
終焉を、歌う。
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今や無人島と化した孤島。そこに聳え建つのはいつかの貴族が建てたのであろう大きな古城。
この世界の人間はこの島を地図の上から消し去った。ある悲劇をきっかけに。
かつては人とそれ以外のモノの触れ合いの場として存在していた美しい島。
柔らかく優しい陽の光。色とりどりの花が咲き乱れ、鳥たちが囀り、人も人以外も互いに存在を認識し合い、愛をささやく。
今やその面影は一つも見当たらない。人以外のモノだけが取り残された島。
訪れる人がいなくなり幾年。暗く廃れた島に何かが生まれた。
人の形をした【それ】は虚ろな瞳をしている。
淡く白い輝きを放つ体。白にも金にも見える腰まで伸びた髪は、ウェーブがかっており風に靡くたびに光の粒子を舞わせている。
宇宙を閉じ込めた不思議な色をした両の瞳。髪と同色の長いまつ毛に囲われたその瞳は【それ】の神聖さを際立たせていた。
桜貝のように薄く色づくその唇が静かに空気を震わせる。
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それは綺麗な歌だった。何も分からないまま頭に浮かぶメロディーをただ、紡ぐ。鳥も花も風も波も、そして神さえも魅了する。
天まで届く歌声。完璧に作られたその存在一つでこの世界はたやすく崩れる。
神々は恐れた。その存在はこの世界においてあまりにも異端で未知のものだったから。
既に数名の神は彼女に魅入られ仕事を放りだす始末。どのようにして自分だけのものにしようか画策し始めている。
このままではこの世界が混乱に陥ってしまう。その前に異端な【それ】を消そうとした。
ところが、強固な白い光に守られた【それ】は神々からの攻撃をことごとく跳ね返し廃れた孤島に存在し続けた。
孤島に誕生した【それ】は次第に言葉を覚え始めた。この島に存在する人ならざる者が使う言葉。天から聞こえる神々が使う言葉。この世界で使われる全ての言語を。そして【それ】は古城を住みかとし始めた。カビや埃だらけの部屋を綺麗にし自分の寝る場所を作った。【それ】は食事を必要をしない。寝ることによって日々の疲れを回復しているようだった。一人だけの部屋。広い孤島に一人だけ。それを見かねた動物たちや人ならざる者たちは【それ】に話しかけた。だが話しかけられた【それ】は興味のあるもの以外は答えようとしない。【それ】に興味を持っていたモノたちは話しかけるのをやめただ【それ】の姿に魅了されその声に酔いしれる。
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【それ】は歌う。ただ歌う。
神々は【それ】を消すことを諦めた。消せないのならこの島に閉じ込めてしまえばいい。歌声が、その姿が外部へ聞こえないように見えないように島の外見しか分からないような透明な壁で囲った。外部からの侵入を許さないよう厳重に。そして孤島に閉ざされた【それ】は島のモノたち以外との接触を完全に禁じられた。【それ】は神たちに告げられる言葉にただ頷いていた。
「私はただ歌えればいいのです。」
その様に告げ古城に戻る【それ】は今日も眠りに就く。
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【それ】が誕生してから長い月日が流れた。【それ】を孤島に封印した神々も封印したことを忘れるくらいの年月が経っている。
人間からも、神々からさえも忘れられた孤島。
そこに一人の青年が流れ着く。
「人間だ!人間だ!」
「人間を見たのはいつぶりだ?」
「もう忘れた。」
「男だ!男だ!」
「このままだと死んでしまうぞ。」
「見捨てとけ。」
島のモノたちが騒いでいた。
外が騒がしいと不機嫌気味に覚醒した【それ】は騒動の起きている場所へ向かった。
「どうした。」
うるさく話すモノ達に話しかける。
突然現れたそれに騒いでたモノ達は一斉に口を閉ざした。目を見開きそれを凝視している。
「どうしたと聞いている。」
いつもは自分から話しかけることのない【それ】が今自分たちに話しかけている事実に驚きを隠せないままこの状況をいち早く理解したモノがすぐさま答える。
「これはこれは、お目覚めになりましたか。」
「人間です。人間の男が流れ着いたんです。」
「野蛮です。野蛮な人間です。このままここに放置しましょう。さすれば時期に息絶えます。」
一人が発言したことにより次から次へと話しかけるモノ達。
だがそこに群がった者たちのよって【それ】からは漂流物を確認することはできなかった。
「どけ。お前たちで見えない。」
語気を強め命令すればそこにいたモノ達は【それ】に道を開けるように慌てて動き出す。
開けた漂流物への道をゆっくりと歩きついに【それ】は流れ着いた「人」というものを初めて目にした。
砂浜に打ち上げられた漂流物、もとい人間は砂に塗れていたがとても美しかった。
【それ】とは比較にもならないが、人間界では相当に美人の部類に入るだろう。
「まだ生きているのか?」
「はい。まだかすかにそやつの心臓は鼓動を打っています。」
「城に運ぶ。連れてこい。」
そういって【それ】は踵を返した。そこに集まっていた者たちはひそひそとささやき始める。
「なんで人間がここに。」
「皆殺しにしてしまえばいいのに。」
「あいつが面倒を見るのか?」
「そんなこと無理だろ。」
ひそひそと話すばかりで中々動かないモノ達を振り返り【それ】は低い声を放った。
「聞こえなかったか。連れてこい。」
威圧的にいうとモノ達は恐怖に身を縮ませる。
「どうして人間なんて助けるんですか?」
「ただの気まぐれだ。私は人間を知らない。暇つぶしにそいつで遊んでやる。」
相も変わらず何も写さないその瞳は何を考えているのか理解できない。
何にも興味を示さなかった【それ】がどうして気まぐれに人間を助けたのか。【それ】自身も理解はしていなかった。
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歌が聞こえる。綺麗な歌。これは夢だろうか。頬に一筋の涙が零れる。
「ここは?」
古城の一室。暗闇が立ち込める部屋で男は目を覚ました。
ふかふかのベッド。柔らかい枕。いいにおいのする布団にもう一度眠りに就きたくなる。
しかし、そんなことを言っている場合ではない。ここがどこだか把握しなければ安心してもう一度眠りに就くことなんて不可能だ。
「イタッ。」
男はベッドから動こうとした。だが、海に長時間流され岩に打ち付けられた体は痛みを訴え起き上がることは叶わない。
しかも男は信じがたい事実に気づいてしまう。男はなんと全裸だったのだ。布団にくるまれ心地よい温度に気づくのが遅れてしまったが生まれたままの姿でいることに落ち着かない。だからって自分の服がどこにあるのかも分からない状態で動きまわるのはあまりに滑稽だ。幸い、今のところは人の気配も感じない。近いところに危険が存在しないことに安心した男は「はぁ。」と息をこぼし誰もいない部屋にポツリと声が零れる。
「どうしてこんなことに........。」
絶望に涙が滲んだ。男は痛む右腕を上げ目から溢れる雫を拭う。
情けない。自分のやるべきことに邁進していたのにいまやそれも水の泡だ。
静かに男は涙した。
「起きたか。」
暗闇から唐突に声が聞こえる。驚きに涙の引っ込んだ男はかろうじて動く頭を動かし声の主を探す。
そして、見つけた。認識した。いや、してしまったというべきか。【それ】を目にした瞬間男は自分の運命を見つけたと思った。
暗闇でも眩い光を放つ【それ】は人の形をしているがとても人と呼べるような存在ではない。
「なんだ。話せないのか?」
光を放つ【それ】は驚きで声を出せないままでいる男に近づいて来る。
話してもいいのか躊躇している男に顔を近づけ目を瞑り、【それ】は自分の額と男の額をくっつけた。
近くで見える顔はものすごく整っている。宇宙を宿した瞳は白く長いまつ毛に隠され閉ざされている。長すぎるまつ毛はもう少しで男のまつ毛と触れ合いそうだった。
「熱は、下がったな。」
一瞬とも永遠とも感じられる時間額を合わせた【それ】は男から顔を離しその不思議な色の瞳で男を見つめる。
何か話さなければと思った。でも頭はその存在を理解することをやめようとしている。これはかかわってはいけないと脳が警鐘を鳴らしているのだ。何も話さない男に飽きたのか【それ】は男から視線をはずしどこかへ行こうとした。【それ】が動くたびに揺れる髪からは金の粒子が舞っている。
咄嗟に手が伸びた。真っ白で何の穢れも知らなそうな手。それはとても細く力を籠めると折れてしまいそうなほどだった。
「き、みは......。」
やっとの思いで出た言葉は途切れて最後まで紡ぐことは叶わなかった。白い何かは掴まれた腕を見つめ次いで視線をこちらに寄越す。
「なんだ。話せるじゃないか。」
無表情の【それ】はまた男に向き直り、掴まれた腕をそのままにベッドに腰掛ける。
「君の名前は?」
今度はまともな文章となって放たれた言葉に【それ】が言葉を返す。
「私に名前はない。それより君は?君の名前は何なんだ?」
男はぎゅっと【それ】を掴む手に力を籠め上半身だけでも起こそうと動いた。それに気づいたのか名前のない【それ】は起きやすいように手助けをする。
「私の名前はエルピス。」
初めまして。yuuです。
空想するのが好きで、頭の中で色んな世界へ旅しています。
突然頭に思い浮かんでしまう空想を足りない語彙力でなんとか形にすべく小説を書き始めました。
なので、唐突に終わってしまうことがあるかもしれませんがお付き合いいただけると嬉しいです。