シンシティ
アリスは薄給ではあったが、毎月父親のルイに仕送りをしていた。パートタイムのお手伝いさんを呼んで父親のお世話をしてもらうには十分なお金だった。週に二回は手紙のやり取りをして、父親の無事を確認する度にアリスはホッとした。
ある日、アリスが屋敷の床を雑巾がけしていると、メイドのエマが親しげに話しかけてきた。エマは黒いショートヘアーにくりっと丸く大きな瞳をした、小柄の可愛らしいメイドだった。とにかく有名人になるのが夢で、アリスにセレブの動向に関する話をよくしていた。
「ねぇアリス、アリス」
「あら、エマさん。こんにちは。どうされましたか?」
アリスは手を止めてエマの方を向いた。
「あなたが来てから、とっても屋敷の雰囲気が良くなったのよ。ありがとうね」
「いえいえ、私は何もしておりませんわ」
「みんな気付いてないけれど、本当は全部あなたのおかげなんでしょう?農場の件も、銀行の件も」
アリスはやや焦りの表情を浮かべた。
「わ、私には何のことか……。皆さまの日頃のおこないがいいからアルノー家に運が巡ってきたのではないでしょうか?」
エマはニコッとして言った。
「いいわ、あなたが言いたくないなら、それでいいのよ。屋敷の他の人たちは気付いていないし。それでね、なんと!臨時ボーナスとして屋敷のみんなで二週間の旅行に行けることになったのよ!シャルル様も車いすで一緒にいらっしゃるわ」
「ええー!それはとても素敵ですわ!」
アリスは目を輝かせて言った。
「ね、ね、凄いでしょう?でね、行き先はどこだと思う?」
「えっと……どこでしょう?」
「ネオン輝くカジノとショーの都、シンシティよ!」
***
屋敷の執事三名、メイド三名にアリス、シャルルを加えた総勢八名は、馬車に揺られてシンシティを目指していた。シンシティはアルノー家の屋敷がある街から遥か南部にあり、荒野を通る一本道をひたすら進んで移動に丸一日かかる。
アリスは、馬車で隣になったシャルルに話しかけた。
「シャルル様、ご体調はよろしいのですか?」
「ああ、最近の中では特にいいよ。シンシティには小さい頃家族と行った良い思い出があってね。是非みんなと一緒に来たかったんだ」
シャルルは優しい目をアリスに向けて言った。
「アリスもうちに来て半年になるね。何か困ったことは無いかい?」
「いいえ、皆様とっても優しくて。私、ここで働けて幸せです」
シャルルはそっと手をアリスの手に重ねると言った。
「それは良かった。何か心配があったらすぐに僕に言ってね。ここではみんな家族なんだ」
アリスは顔に血が上っていくのが分かった。アリスは至近距離でシャルルを見つめた。シャルルはガリガリに痩せてしまってはいたが、その顔は彫刻のように整っていた。艶やかなチャコールグレーの髪の毛の合間に見える、ブラウンの瞳はとても澄んでいた。
(なんて美しい人なの……)
その時、シャルルの胸に鷲をあしらった大きな白銀のペンダントがきらりと光った。
「まぁ、素敵なペンダントですね」
「ああ、これかい?これはアルノー家当主の印、鷲の紋章の首飾りだよ。百年以上も前から歴代の当主が受け継いできた重みがある。アルノー家に関係のある人たちの生活を預かる僕にとっては、命よりも大事なものなんだ」
シャルルが鷲の部分を開くと、中から印が見えた。
「アルノー家の交わす重大な契約は、全てこの印が押されることで初めて有効とされるんだ」
百年以上、という時の重みにアリスは想いを巡らした。同時に、「アルノー家の交わす重大な契約」とはどのようなものがあるのだろう、と思った。バラチエ金融とアルノー銀行との大型契約でも、この印鑑は必要なかった。
「まぁ、『血判』のようなものかな。僕も実際にこれが押された契約は見たことがないんだ。まぁ古い考え方だけど、覚悟を示すようなものじゃないかな」
「なるほど……。興味深いですわ」
やがて辺りが暗くなってきた頃、執事の一人、茶髪で短髪の若手ポールが馬車から身を乗り出して叫んだ。
「ほら、きっとあれだよ!見てごらん!」
ポールの指の先を見ると、何もなかった暗い荒野の向こう側に突如として大きな街が現れていた。巨大な建物が立ち並び、光り輝くネオンがそこに到る一本道と馬車を照らしていた。眩しいほどのネオン管の装飾で一際目立つ大きな看板がアリスの目に入った。
(シンシティへようこそ!)
アリスは、初めての街にワクワクしながらも、シャルルの隣にいる時間がもうすぐ終わることに一抹の寂しさを覚えた。シャルルは子供のように目を輝かせて街の光景に見入っていた。
一行を乗せた馬車は、巨大なカジノ兼ホテルが立ち並ぶ街のメインストリートの中でも、一際大きい「シンシティパレス」の前に到着した。
「まぁ……まるでお城ですわね」
アリスがそう呟くと、若手の執事ポールが前の席から後ろのアリスの方を向いて言った。
「シンシティで一番大きなホテルだからな!あの天下のバシュラール家が経営しているホテル兼カジノだぜ!」
バシュラール家、と聞いてアリスはピクリと眉を動かした。その様子を見た隣のシャルルが小声で言った。
「そうか、君の元フィアンセはバシュラール家のウジェーヌ様だったね。そこまで考えが至らずに申し訳なかった。今から宿泊先を変えよう」
「いいえ、それには及びませんわシャルル様。お気遣いいただきありがとうございます」
アリスは笑顔でシャルルに向かって言った。
ホテルの一階の広大なフロアには、たくさんのスロットマシーンやルーレット台、ブラックジャックテーブル、ポーカーテーブルなどがずらりと並び、洒落た格好をした人々がカクテルを飲み、煙草をくゆらせながらギャンブルを楽しんでいた。チェックインが終わると、歳の近いエマとポールはその足ですぐに大興奮で一階のカジノへと向かおうとしていた。
「アリスも一緒に行こうよ!」
エマがアリスの手を取ると言った。
「でもシャルル様が……」
シャルルは両脇を執事たちに抱えられ、車椅子に乗ったところだった。車いすの押し手を、屋敷で一番年長、四十代の赤髪の執事、マテオが握っていた。
「僕のことは気にしなくていいんだよ、アリス。マテオもいることだしね。僕たちは先に食事に行ってくるよ。あまりない機会だし、エマとポールと楽しんでおいで」
アリスはエマとポールに両手を掴まれるとカジノフロアへと引きずられていった。シャルルとマテオはその様子を微笑ましく見ていた。
「若い者同士、仲がよろしいですな。いや失敬、シャルル様もお若いですが……」
「ああ、そうだね。次来る時までには病気を治して、彼らと一緒にはしゃぎ回りたいね」
エマ、ポール、アリスの三人はまずルーレット台へと向かった。ちょうど三席分、横並びの空きがあった。ポールとエマは早速手持ちの紙幣をチップに換えてもらった。アリスは手持ちのお金があまりなかったので、二人がプレイする様子を見守ることにした。
「このチップが百ルーク、こちらが千ルーク、そしてこのゴージャスな見た目のものが一万ルークよ」
アリスが興味深そうにチップを見つめていると、エマが説明してくれた。人々は数字の書いてあるマスにチップを乗せ、その後ルーレットを回るボールの行方を見つめて一喜一憂していた。アリスは何回かプレイを見て、ルールをなんとなく理解した。ボールが自分の賭けた数字のところに落ちれば勝ちなのだろう。
「ひゃっほう!!二分の一を引いたぜ!」
ポールが両手を挙げて喜んだ。ポールはその時「赤」のマスに一万ルークを賭けていた。
「あの緑色の0と00というマスはなんなのですか?」
アリスがエマに尋ねた。
「ああ、あそこに入ると赤に賭けても黒に賭けても負けてしまうのよ。だから、正確には二分の一で勝てるわけではないの。まぁ滅多にないんだけれど」
アリスは思った。
(なるほど、それが積もり積もってカジノの儲けになるのね。ずっとプレイを続けたら勝てない仕組みになっているんだわ)
ポールは「うひょー!」とか「くそー!」とか叫びながら、手元のメモに何か書きつけていた。
「ポールさんは何を書いているのですか?」
「ああ、あれは今までの出目を記録しているんだわ」
そこでポールが口を挟んだ。
「ギャンブルは流れが全てなんだ。今は黒の流れが来てる。一気に行くぜ!」
「なるほど、流れですか……。とても興味深いですわ」
ポールは今度は黒に一万ルークを賭けたが、ボールは無情にも赤へと転がった。
「くそー、今絶対黒の流れだったんだけどなぁ」
「ポール、もしかしたら今ので流れが変わったんじゃない?次は私は赤に賭けるわ!アリスはやらないの?」
「私、勝てないかもしれない勝負はいたしませんわ」
その時、ウエイターがテーブルにやって来てカジノ客に飲み物を聞いて回っていた。
「何かお飲み物はいかがですか」
「おお、これは流れを変えるチャンスだな!俺はラッキーコーラ!」
「あの、普通のコーラしかありませんがよろしいでしょうか……」
「ちぇ、なんだよ~。まぁ普通のコーラでいいぜ、ありがとな」
横でエマが言った。
「私はメロンソーダにしまーす」
最後にアリスが言った。
「じゃあ、私は牛乳をお願いしますわ。あればで構いませんので」
「牛乳ですか……。瓶であればあるかもしれませんので確認いたしますね」
その後しばらくしてウエイターが飲み物を持って来た。ポールとエマの二人は手に汗握りながら賭けを続けていた。アリスは手にした瓶の牛乳を飲みながら、エマに聞いた。
「エマさん、ここではベットする金額に上限はあるのでしょうか?」
「このカジノではどのゲームでもベット額無制限をウリにしているから、どんな金額でも賭けられるはずよ。例えば一億ルークとかも、凄いVIPだったらあり得るかもね」
「なるほど、無制限……ですか」
アリスはそれを聞いて、ふふっと口元を緩ませた。
「エマさん、ちょっと込み入ったお話があるのですが……。エマさんは有名人になりたいのでしたよね?」
「え、うん。どうしたのアリス……?」
「エマさんをとっても有名にする方法を思い付いたんです」
その日、アリスは少し用事ができたので一度街へ帰ると言い残すと、エマと一緒にシャルルから暇をもらい、三日後にまたシンシティパレスへと戻ってきた。




