金庫の中には
「もうこんな時間……早くしないと」
夕暮れの空は、燃えるような赤と紫が交じり合い、空を覆う厚い雲が闇に飲まれつつあった。街灯の明かりが微かに照らすラファエル・ベルトラン侯爵邸の門をくぐったアリスは、重い足取りを押して前進した。一歩一歩、紅葉の落ち葉が緩やかに舞い散る石畳の道を進むごとに、彼女の胸の鼓動は速くなっていった。
ラファエル・ベルトラン侯爵邸は、重厚な歴史を持つ館であり、その壮麗な建築と美しい庭園は、何世代にもわたり賞賛と羨望を集めてきた。館の外壁には古びた蔦が絡み、年月の風化によって陰影が生まれ、優美な彫刻が刻まれた飾り柱が魅力的なシルエットを描いていた。庭園には、手入れの行き届いた美しい花々が咲き誇り、木々の葉が風に吹かれる音が、静かな空気に寄り添っていた。
アリスは、壮麗なダブルドアの前に立ち、心臓の鼓動を抑えつつ、チャイムを鳴らした。やがて、ドアがゆっくりと開いて、その向こうに現れたのは、上品でありながらも、一抹の悲哀を感じさせる黒いドレスに身を包んだ女性だった。彼女の顔立ちは整っており、高い鼻梁と澄んだ瞳が、彼女の気品ある雰囲気を際立たせていた。その長い黒髪は、ゆるやかに束ねられており、彼女の顔を縁取るかのように揺れていた。
「どちら様でしょうか……?」
「アリス・エマール・アルノーと申します。ルイーズ・ドゼーさんの弁護人ですわ」
「……何もお話しすることはございません。お引き取りを」
その女性はドアをすぐに閉めようとしたが、アリスはすかさず片足を出して閉まろうとするドアを止めた。
「待って……貴女はラファエルさんの義妹のクロエさんでは?この度は、お悔やみ申し上げます」
彼女は、半分開いたままの玄関のドアの隙間からアリスを上から下まで見ると、わずかに眉をひそめた。アリスは彼女の表情を観察したが、その瞳の色は深く、まるで暗闇の底に沈んだ翡翠のように、どんな感情も見せなかった。
「はい……。いかにも私がクロエ・ベルトランです。もう警察による証拠の回収は済んでいるはずです。当主を失った悲しみと捜査で皆疲れております。どうぞお引き取りを」
「重要な新証拠が見つかるかもしれないんです」
アリスは左手をドアの縁にかけて食い下がった。
「もしかしたら、ルイーズさんの無実を証明できるかも……」
「……」
次の瞬間、クロエはドアを閉めようと力いっぱい両手でドアを引っ張った。アリスがドアにかけていた左手が、「ガッ!」という音と共にドアに挟まれた。
「痛ッ……!!!!」
「……お引き取りを」
ドアの縁がギリギリとアリスの左手に食い込み、アリスはその痛みに悲鳴をあげた。
「お願い……痛いです……やめて」
「お引き取りを」
クロエは益々力を込め、アリスは苦痛に顔を歪めながら、頭を急回転させた。
「……ラ、ラファエルさんの隠し財産の場所が分かったんです……!」
途端にドアを引くクロエの力が弱まり、その機を逃さずアリスは右手もドアの隙間に差し込んでドアを引いた。クロエは半分開いたドアの向こうから、アリスに冷たい視線を向けていた。
「はぁ、はぁ。屋敷に入れていただければ、すぐに終わりますわ……」
「本当に義兄の隠し財産が?申し上げた通り皆疲れておりますので、三十分以内に終わらせてください」
アリスは、クロエに先導されて邸内へと進んだ。夕暮れ時の侯爵邸は、太陽の光が射し込む窓から、美しいガラス細工が揺れる陰影を描き出し、幻想的な世界へと誘っていた。クロエのドレスは彼女のスレンダーな身体にぴったりとフィットし、その腰のくびれや優美な肩線を際立たせていた。ドレスの裾は床にそっと触れるほど長く、彼女が歩くたびに繊細なレースが揺れた。
屋敷の中を進むアリスは、すれ違う使用人たちから警戒の眼差しを向けられているのを感じていた。中年で小太りのメイドはアリスに目を向けると、短くため息をつき、戸棚の整理に戻った。白髪の執事も、アリスの姿を見かけると、頬に浮かんだ皺をさらに深めた。
(皆、疲れているのは本当のようね。検察から口止めもされているかもしれない)
アリスは青く腫れあがった左手の甲をさすって歩きながら考えた。
(もう屋敷中を探しても新しい証拠は見つからないでしょうね……例の金庫を除いて)
「こちらが義兄の書斎です」
クロエはラファエルの書斎のドアを開いた。部屋の中は綺麗に整頓されていた。古い本の香りが漂う静かな空間であり、大理石の暖炉が壁に埋め込まれていた。部屋の中央には、重厚なダークウッドのデスクが置かれ、その上には美しい羽ペンとインク壺が並んでいた。デスクの横には、革張りの高級なアームチェアが配され、まるでラファエルがいつでも戻ってくるかのような気配が漂っていた。
壁一面には、ラファエルの好きだった絵画が掛けられていた。アリスは、その中で最も大きな絵画に目を留め、真っ直ぐに進むと壁からその絵画を外した。
クロエは絵画の裏に隠されていた金庫を見ると、思わず声を上げた。
「嘘でしょう……?なんであなたがこんなことを知っているのよ……!」
「開けますわ」
アリスは小さな鍵を取り出すと、金庫の鍵穴に差し込んだ。鍵はピッタリとはまり、金庫の扉はガチャリという音を立てて開いた。次の瞬間、バサバサと書類の束が床に落ちてきた。
「何よこれ……」
クロエは屈んでしばらくの間書類の束をあらためると、怒りの声をあげた。
「くだらないわ。これのどこが隠し財産なのよ!」
書類の束――それは、ラファエルとルイーズが交わした、大量のラブレターだった。一番新しいものの日付は、婚約破棄の前日のものだった。きっとラファエルは自分にとって一番大切なものだからこそ、この場所に隠していたのだろう。
「あー、くだらない!」
クロエは怒りの表情に顔を歪めていた。
「これのどこが……くだらないのですか?」
「隠し財産でもなければ、何の証拠にもなりやしないじゃないの。あんたも無駄足ね。私も期待して損したわ。読み終わったらさっさと帰りなさい」
クロエはそう言い残すと、書斎から去っていった。
アリスの考えは違っていた。これこそアリスが欲しかった確信――。ラファエルとルイーズが最後まで愛し合っていた事実。アリスはその手紙一つ一つを手に取って読みながら、ゆっくりと目を閉じてその胸に抱き締めた。




