アントワーヌ・ドゼー
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アルノー家では、ようやくシャルルが歩ける程度まで体力を回復していた。
「もうすっかり良くなられたのですか、シャルル様?」
エマが廊下で見かけたシャルルに話しかけた。
「エマ、心配をかけて済まなかったね……アリスはどこだい?お礼を言わなくては」
「アリスはここのところ大忙しで……選挙戦の融資に、ビジネスに大変なんじゃないですかね。昨日は屋敷に戻らなかったようですよ」
「アリスは一人で?」
「はい、昨日は一人で出かけたようです」
「どこに行ったか分かるかい?」
「さぁ……私には分からず申し訳ありませんシャルル様」
シャルルは嫌な予感がした。「一人で外出し、昨日は屋敷に戻らなかった」という響きがシャルルの頭に引っ掛かった。シャルルは少し考えてから言った。
「エマ、すぐに馬車を手配してくれるかい。僕はアントワーヌ・ドゼーのところへ向かおうと思う」
***
「アントワーヌ、久しいね。元気だったかい?」
「シャルル、また会えて嬉しいよ」
大きな牧場が併設されたドゼー家の屋敷にて、シャルルとアントワーヌは三年ぶりの再会を果たしていた。アントワーヌは長い黒髪に彫りの深い顔、浅黒い皮膚と黒い瞳を持った野性的な美男子だった。二人は再会後すぐに、馬に乗って散歩へと出かけた。朝日で二つの長い影ができたウッドチップの敷き詰められた早朝の馬場を、二頭の馬がゆっくりと並足で歩き出した。
「それで……アリスはここに来たのかい?」
「あの手紙をくれた人かい?いや、ここには来ていないよ。しかし、びっくりしたよ。君が拘置所に捕われていたなんて。君をそんな目に合わせたオベール=バシュラール家に選挙戦で肩入れするなんて気が進まないけど、君を救うためだからもちろんOKしたよ。もう体調はいいのかい?」
「ああ、もうすっかり大丈夫だよ。持病の薬が持ち込めなかったせいで、結構危なかったみたいだけどね。医師はもう数日遅れていたら助からなかったかもしれないとおっしゃっていた。アリスには感謝しかないよ。てっきりアリスはここに来ていると思ったんだけど……」
シャルルが気落ちした様子なのを見て、アントワーヌは言った。
「アリスさんは君にとってとても大事な人みたいだね」
「ああ……とてもね」
「君が誰かに対して入れ込むなんて珍しいじゃないか。アリスさんは幸せだな」
「そう……かな?誰かに対してこんな気持ちになるのは初めてなんだ」
アントワーヌはフフッと笑って言った。
「オベール=バシュラール家や君のところほどじゃあないけど、ドゼー家も全国にそこそこネットワークがあるから、もしアリスさんの足取りに関する情報が入ったら連絡するよ。心配することないさ。きっと君の代わりに仕事をこなして飛び回ってるんだろう」
「そうだと思うけどね。彼女は頑張り屋だから、無理をしていないか心配なんだ。いつも頼りにしてすまないねアントワーヌ」
「君と僕の仲じゃないか。遠慮はいらないよ」
アントワーヌは謙遜していた。ドゼー家は探偵業を強みとしていて、全国各地に張り巡らされたファミリーの頭数とネットワークで言えばこの国随一のものがあった。シャルルがアントワーヌを頼りにして会いに来たのもそれが一番の理由だった。
***
しかし、シャルルがアントワーヌに会い、アルノー家の屋敷に戻ってから一週間が経ったものの、アリスの消息は全くつかめなかった。さすがに外出後連絡のないまま一週間は長すぎる。シャルルの心配は日に日に増していった。シャルルはアルノー家のあらゆるネットワークを駆使してアリスを探し出すように号令を出していた。
エマとポールとマテオの三人は、アルノー家屋敷、エマの部屋で話をしていた。エマが泣きそうな声で言った。
「アリス、一体どこに行っちゃったの……」
ポールが続けた。
「なぁ、俺らもアリスを探した方がいいんじゃないのかな?あのシャルル様の狼狽っぷりと言ったら……」
マテオが、頷きながらも二人に言った。
「ええ、私もポールさんの言う通り、アリスさんをシャルル様と一緒に探したい。ただ私には、アリスさんがこうなることをある程度予測していたようにも思うのです。アリスさんからの手紙が私の部屋にありました。選挙戦中アリスさんが長期不在になるようなことがあれば、この手紙に書いてある通りのことを実行してほしいと」
エマとポールが驚きの表情を浮かべて言った。
「私宛の手紙もありました」
「俺宛の手紙もあった!書かれた通りのことをやってるぜ!」
マテオが二人の表情を見ながら言った。
「やはり皆さんにも……。私も手紙に記載されていた内容の通りに行動しています。現在、シャルル様が本気でアリスさんを探してくださっています。我々が個別にアリスさんを探そうとしたところで、せいぜい近所を探し回る程度で限界があります。ここはシャルル様を信じて、我々はアリスさんが我々にして欲しかったことを今までの通り粛々と実行するのがいいと思うのです」
三人は互いに顔を見合わせると、頷いた。三人とも、その表情は決意に満ちていた。
(アリスのために)
***
この頃選挙戦は、ウジェーヌ・オベール=バシュラールと現宰相ニコラ・ダヴーとの壮絶な一騎打ちの様相を呈していた。この国の宰相となるためには、貴族からの票集めに多額の費用がかかる。国を二分するかつてない札束の殴り合いが始まった。国中のありとあらゆるバーやレストラン、街角で茶封筒を渡す光景が日常茶飯事となった。
アルノー銀行のバックアップを受けたオベール=バシュラール家だったが、一方のニコラ・ダヴーも現宰相としての政治力を生かしてか、潤沢な資金をかき集めて応戦した。どちらが一体優勢なのか、まだ誰にも分からなかった。
「まだだ、まだ足りないぞ。どんどん融資を引くんだ!」
ウジェーヌは選挙対策本部に指令を出した。ライラス地方ではドゼー家のサポートによりウジェーヌが優勢を確保していたが、現宰相のニコラがどこから調達したのか、潤沢な資金で応戦してきているのは想定外だった。他国から強力な資金援助を受けているとの噂もあった。最終的に一ルークが勝敗を分けてもおかしくはない。担保を増やしてでも、条件は気にせずとにかく融資を引いて資金面で少しでも差をつけることが勝利に不可欠だった。そのため、アルノー銀行の無制限の融資はウジェーヌにとって生命線だった。多額の借金を重ねても、宰相となればあらゆる権益を左右する力がある。オベール=バシュラール家の地盤と組み合わせればきっと数年で回収できるだろう。
選挙戦は、ついに終盤を迎えつつあった。




