宰相選挙戦開幕
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ついに選挙の火蓋が切られた。ウジェーヌの立候補が決まり、新聞は連日選挙の動向を伝え、選挙戦はかつてない盛り上がりを見せた。事実上、地方で高い支持率を誇り再選を目指す現宰相のニコラ・ダヴーと、国を代表するオベール=バシュラール家の若き当主、ウジェーヌ・オベール=バシュラールの一騎打ちの様相となっていた。
バシュラール家の屋敷では、いよいよ選挙戦が開始されたことにウジェーヌが武者震いをしていた。
「ついにあなたが宰相となる日が来るのね、ウジェーヌ」
「君のおかげだよ、ベアトリス。僕は必ず勝って宰相になる」
ベアトリスはウジェーヌを抱きしめるとその頬にキスをした。
(ついにわたくしが宰相夫人となる日が来るのね)
その二つ隣の部屋では、ジョセフ・バシュラールがアリス・エマールに関する調査の最終報告を受けていた。ジョセフは、アリスがアルノー家の当主代理としてオベール家に乗り込み単独で重要な契約を交わしたことを知り、不吉な予感がして再度アリスの調査を依頼していた。
「それで、何が言いたいのかね、この報告書は」
「はっ!限りなくクロに近い……完全なシロということでございます!」
「怪しいことには怪しいが、証拠という証拠はゼロということじゃな?」
「はっ……!確かに間違いなく百%ただの使用人でございます……ただジョセフ様のおっしゃる通りアルノー家の復興に関する全てのことがアリス・エマールの意図したことと考えても、まぁそれはそれで辻褄が合う、ということでございます」
「つまり、ワシの勘が間違っていると。そういうことが言いたいのじゃな?」
「いえ……その、何と申し上げたら良いのやら……」
「もうよい、下がるんじゃ」
ジョセフは改めて報告書を隅から隅まで読んだ。ジョセフの頭の中では、大きな音で警鐘が鳴り続けていた。それはバシュラール家を一代で築いた、百戦錬磨のジョセフだから分かる本能的なものだった。特に今回のアルノー家との契約の際、シャルルが拘置所に居たからとはいえ、ついにアリス本人が登場した。ヴァロンタン・オベールは最近ジョセフに会った際、こう言った。
「いやぁ、ジョセフ様が以前警戒されていた意味が分かりました。あの女だけは敵に回すべきではありませんね」
この件だけを考えれば、単にシャルルを助けるためだったとも考えられる。ただ、アリスが何か企んでいたとすれば、融資元アルノー銀行の意向によって今後のオベール=バシュラール家の行動が縛られる可能性を持つ今回の契約は非常に危険だったかもしれない。例えば仮に選挙戦中、アリスが何かを画策し理由を付けられて突然融資を止められれば、ウジェーヌは窮地に陥り勝利は危ういものとなる。しかし、アリスが何か企んでいたとしても、具体的に何を企んでいるのかまではさすがにジョセフにも分からなかった。
(もしも、アルノー家に奉公に出てからの行動全てが我々に復讐するためのアリスの策略じゃったとしたら……さすがに考えすぎかのう)
頭では否定しても、ジョセフの本能が今すぐ行動するべきだと警告を発していた。ジョセフは立ち上がると、便箋を開き筆を取った。
***
アリスは、ダウンタウンの外れにあるレストランへと来ていた。ジョセフ・バシュラールと会うためである。ジョセフからの手紙には、「二人きりで話したいことがあるから食事でもどうか」と書かれていた。ジョセフは僅かに白髪が増えているように見えたが、以前と変わらぬ姿で丸眼鏡をかけ、奥の席に座っていた。店の中は他に十組ほどの客で賑わっていた。アリスは約束の十五分前に到着したが、ジョセフはそれよりも前から席に座って待っていた様子だった。
「やぁアリス、どうも久しぶりじゃな」
ジョセフはアリスを見つけると立ち上がり、アリスに握手を求めた。
「こちらこそご無沙汰しております、ジョセフ様。お待たせして申し訳ありません」
「ワシが早く着いただけじゃ。ささ、おかけくだされ」
ジョセフは給仕の者に食事のコースをスタートするように告げると、アリスの方を向いて話し始めた。
「もう以前会ってから何年になるかのう」
「ウジェーヌとの婚約解消から二年以上経ちますから、それよりも前になりますかね」
ジョセフはハァ、と溜息をついて言った。
「あれは……申し訳なかったのう。それから一切アリスに連絡すらしなかったと聞いておる。我が孫ながら、馬鹿な孫じゃ」
「いえいえ、いいのです。過ぎたことですから」
ジョセフはアリスのその様子を見て、ほっとした表情をして言った。
「正直なところ、アリスがまだ我々のことを恨んでやしないかと心配でのう。ウジェーヌは今大事な宰相選の最中じゃ。そしてアルノー銀行からの融資が、選挙戦にとって非常に重要となる。まさか途中で融資を突然止められたりしないものかと。ほら、アリスは例の契約の担当者だったんじゃろう?」
「ああ、そんなことでしたか……。ご心配なく。すでに契約書上で無制限の融資を確約しておりますし、アルノー銀行にも指示が出ていますので、ご安心くださいませ」
アリスは、ジョセフのことを以前から「物分かりの良いおじいちゃん」として尊敬していた。バシュラール家に遊びに行った際も、ジョセフだけは対等の物事の理解を持って会話が楽しめる存在だった。ジョセフにはこれだけ言えば十分だと思った。
「それと……シャルル・アルノーの件は申し訳なかったな。まさかベアトリス嬢があそこまでするとは。ワシの好きなフェアプレーに反する行為じゃ」
「ええ……シャルル様が無事だったから良かったものの、持病の薬が拘置所に持ち込めなかったために、本当に危ないところでした。アルノー家一同、次に同様のことがあった場合はさすがに許しませんわ」
アリスはキッと鋭い視線でジョセフを見た。
「この通りじゃ……許してほしい」
ジョセフは目を閉じると、テーブルに手を付いて頭を下げた。アリスはジョセフの態度に驚いた。先々代の当主とはいえ、バシュラール家の重鎮が一介の使用人相手に取る態度ではなかった。
「それほど我々がアルノー家を脅威に感じていたということじゃ。今回の契約を持って我々は同盟を組んだも同然。何か不愉快なことがあればワシ宛になんでも言ってほしい。これでもまだ多少の影響力はあるもんでな」
(同盟、ね……)
「頭をお上げくださいジョセフ様。ジョセフ様の入れ知恵でないのであれば、謝る必要はございませんわ」
ジョセフはゆっくりと頭を上げて、アリスを見た。ジョセフの目は誠実さに溢れていた。二人は静かにグラスを合わせ、ディナーが始まった。二人の間には無言が続いたが、しばらく経ってからジョセフが口を開いた。
「……ところで、ポーカーの話なんじゃが……」
「うふふ、ジョセフ様、本当はそのお話がされたかったのではなくて?」
二人は時間を忘れ、楽しく談笑した。バシュラール家へ訪れた昔の日々が戻ってきたようだった。もしかしたらウジェーヌと話した時間よりも、ジョセフと話した時間の方が長かったかもしれない、とその時アリスは思った。ジョセフは頭脳明晰で、そのウィットに富んだ会話はいつもアリスを楽しませてくれていた。
「あら、もうこんな時間」
アリスが時間を確認すると、すでに深夜零時を回っていた。店内はまだ多くの客で賑わっていた。
「そろそろ帰らないと……」
「このあたりは夜は暗い。誰か人をつけようか?」
「いえ、大丈夫ですわ。ここから乗り合い馬車の乗り場まで近いですし」
「そうか、ワシはまだもう少し飲んでから帰ろう」
ジョセフは立ち上がると、アリスを店の入り口までエスコートした。
「アリス、今日は会えて楽しかった。ありがとう。まるで昔に戻ったかのようじゃの」
「ええ、ジョセフ様。とても楽しかったですわ」
「また食事に誘ってもいいじゃろうか?」
「ええ、喜んで」
アリスは笑顔を見せてジョセフの差し出した手を握ると、冷たい風の吹く店の外へと出て行った。
アリスの目指す馬車乗り場は、三ブロック程離れた大通りにあった。アリスはコートの襟をぎゅっと押さえると、真っ直ぐと歩き出した。一ブロック程進んだところで、ジャリ……という音と共に、割れたガラス瓶を踏んだ。よく見ると、昼間には気付かなかったがその辺りにはあちらこちらに割れたガラス瓶が落ちていた。あまり治安の良い雰囲気とは言えない。ダウンタウンでは、一つ通りを挟むと急に治安が悪くなるといったことはよくあった。
(あまりゆっくりと歩いていたくないところですわね……)
アリスは早足で歩みを進めた。あそこの角を曲がって小道に出て、真っ直ぐ進めば大通りに出るはずだ。角を曲がろうとした時、行きには気が付かなかった看板が薄暗い街灯で浮かび上がって見えた。
「重大犯罪多発地帯注意」
アリスはそれを見て急に怖くなった。冷たい風がアリスの髪の毛の隙間を吹き抜け、アリスは身体を震わせた。その震えが寒さから来るものなのか、恐怖から来るものなのかアリスには分からなかった。
(……気にしない気にしない。さっさと抜けてしまいましょう)
角を曲がってすぐ、後ろの草むらから「カサ……」と音がしてアリスは思わず飛び上がった。心臓が飛び出しそうになるほど激しく脈打った。それは猫が近くの塀から草むらに飛び降りた音だった。
(私ったらどうかしてるわ……。猫にこんなに驚くなんて)
アリスは再度馬車乗り場へ向けて歩みを進めた。消え入りそうな街灯が心許なかった。暗がりの十字路を過ぎた時、右の脇道から何か黒い影のようなものがアリスの歩く道にサッと入ってきたように感じた。それからヒタヒタと、静かに足音がアリスの後ろからつけてきた。アリスはさらに歩みを早めたが、足音はピッタリと後ろからついてきた。
(きっと私と同じように誰かが急いで馬車乗り場へと向かっているんだわ)
アリスはそう思い込もうとしたが、アリスはもはや後ろを振り返ることができないほど恐怖に包まれていた。
(ジョセフ様に誰か付けてもらえば良かった……)
アリスがそう思った時、アリスの首が後ろから強い力でロックされた。
「……アリス・エマールだな。声を出したり、抵抗したら殺す」
聞き覚えのない、男の低い声がアリスの耳元に響いた。
***
その頃、ジョセフはまだ先ほどのレストランでワインを飲んでいた。久しぶりのアリスとの会話は刺激的で楽しかった。そのやり取りを反芻して酒のつまみにすると、ワイングラスを持つ手が進んだ。
(もう選挙戦に関する融資の契約は、我々とアルノー家との間で結ばれていて有効じゃ。仮にアリス・エマール一人が忽然と消えたとしても、融資はおこなわれウジェーヌの選挙戦に悪影響はあるまい。……あの娘のことは嫌いではない。本意ではないが、ほんの僅かでも悪しき可能性があるのであれば、その芽は完全に摘み取らんとな)




