一番欲するものを差し上げましょう
「何、アリス・エマールだと?」
「どうされましたかお父様」
ヴァロンタンの書斎に若手のメイドがやって来て、アリス・エマールという名の女性がヴァロンタンに面会を求めていると言った。
「ベアトリス、今アルノー家で使用人をしているアリス・エマールを知っているな?今一階に来ているそうだ。面倒はごめんだな、追い払うか」
「お待ちください、お父様。わたくしウジェーヌの元婚約者に興味がありますわ」
ベアトリスは口角を上げて言った。
「お通しなさい」
しばらくすると、白髪の執事に連れられてアリスが書斎に入って来た。ベアトリスとアリスは初対面だった。アリスは一礼して言った。
「ご無沙汰しております、ヴァロンタン様。そしてそちらのご令嬢はベアトリス様とお察しいたします。お初にお目にかかりますわ」
「久しいな、アリス・エマール」
「いつぞやは、お世話になりました」
「こちらへどうぞ」
ベアトリスは椅子を指差して言った。
「どうぞおかけください」
アリスが来客用の椅子に腰かけると、ヴァロンタンは口を開いた。
「それで、今日は何の用で来たのかね?」
「単刀直入に申し上げますと、我が主であるシャルル・アルノーへの告訴をお取下げいただきたいのです」
(ふん、そんなことだろうと思いましたわ……)
ベアトリスはアリスへ見下した表情を浮かべ、ヴァロンタンより先に口を開いた。
「で、見返りは?」
「見返り……ですか?」
「わたくしが過去にシャルルから暴力を受けた事実を曲げてまで、被害届を取り下げる価値のある何かをあなたは提供できるのですか、と聞いているのです」
アリスは、恐縮した表情を浮かべて言った。
「私はヴァロンタン様と交渉しに参りました。ベアトリス様はどうぞお控えください」
次の瞬間、頭に血が上ったベアトリスはアリスの座っている椅子を蹴飛ばした。椅子は倒れ、アリスは床に転がった。ベアトリスは腕を組みながらアリスの顔をヒールの付いた靴の踵で踏みつけて言った。
「生意気ね。あなたのような庶民が、オベール家当主に時間を取らせておいて、まさか何の土産もなしで帰るつもりじゃないわよねぇ?」
ベアトリスのヒールが、倒れたアリスの頬をグリグリとえぐった。
「おいベアトリス、あまりやり過ぎるなよ」
「このくらいしておかないとつけ上がるわ。この女」
アリスの口の中いっぱいに、血の味が広がった。地面に這いつくばったまま、アリスは言った。
「オベール家では、交渉の相手を踵で突き刺しながらお話しされるのですか……?」
「交渉の相手?命乞いしてくる相手の間違いでしょう?」
ベアトリスは、うつ伏せに転んだアリスの髪の毛を乱暴に掴むと、顔を近づけてゾッとするような冷たい声で言った。
「ここはオベール家の屋敷。ここで何か事故があっても、誰もあなたに何があったのか知ることはないのよ。……わたくしたち以外は、ね」
アリスは髪の毛を掴まれたまま、ベアトリスを無視してヴァロンタンに向かって言った。
「ヴァロンタン様。私は本日、アルノー家の当主代行として参ったのです」
「……何?」
その時、アリスは胸元から白銀に輝く鷲のペンダントを取り出した。ヴァロンタンは急に険しい顔になった。あの鷲の紋章には見覚えがあった。
「ベアトリス、そこまでだ」
「お、お父様?」
ベアトリスは、掴んでいたアリスの髪の毛を渋々離した。アリスは地面に這いつくばったまま言った。
「先ほどベアトリス様がおっしゃっていた見返りですが……。ヴァロンタン様が一番欲しているものを差し上げようと考えております」
「ほう……。なんだね」
「ベアトリス様にはあまり関係のないお話ですから、一旦外していただくことはできますでしょうか。二人きりでお話ししたいのです。もっとも、ベアトリス様がヴァロンタン様の求めるものをご存じなのでしたら話は別ですが……」
ベアトリスは不機嫌な表情を浮かべていた。ヴァロンタンはベアトリスの方をチラリと見て言った。
「ベアトリス、いつも私の近くにいるお前には、私の一番欲しているものが分かるかな?」
(お父様の一番欲しいもの……?何よそれ……)
アリスとヴァロンタンが、ベアトリスを見ていた。ベアトリスは黙っていた。正直に言って何も浮かばなかった。ベアトリスがまごついていると、アリスがゆっくりと口を開いた。
「それは……宰相の椅子にございます。オベール家は代々、私利私欲を捨てて貴族としての義務を全うされ、民と国家に尽くしていらっしゃいました。ヴァロンタン様は営利事業のみならず民のためとなる非営利事業にも精を出され、その民と国家に対する貢献は計り知れません。しかし、ヴァロンタン様はお気づきでいらっしゃいます。一貴族としてできる国家への貢献には限界があると。政治権力が無ければ達成できないことがどれほど多いことか、身に染みていらっしゃるはずです。例えば国の三分の一を占める公用地の活用。国の重要な天然資源の配分。税金を誰から取り、誰を免除するのか。これらは全て政治の名の元に決定されるものです。これまで最も民のことを考え、国に尽くしてきたオベール家こそが、それらを決定する中心の存在としてふさわしい。そして、宰相の椅子なしにそこへと至る道が開かれることは、決してありませんわ」
ヴァロンタンは厳しい表情でうなずくと、ベアトリスに向かって言った。
「ベアトリス、お前は自分の部屋に下がっておれ。私はこの者と一対一で話す」
ベアトリスが怒りを隠さずにドスドスと床を踏み鳴らしながら部屋から出ていくと、アリスはゆっくりと立ち上がり身体についた埃を払って、ハンカチで口の血を拭くと、ヴァロンタンの対面に座った。淀みのない美しい所作だった。
「さて……続きを聞かせてもらおうか」
ヴァロンタンはアリスを急かすように言った。
「宰相の椅子は、もう皆様のすぐ手の届くところにあります。バシュラール家とオベール家が一体となり、ウジェーヌが後を継げばその影響力は計り知れません。ウジェーヌが次期宰相選へ立候補すれば最有力候補の一人となるでしょう。そこで一番の障害になるのはなんでしょうか。シャルル・アルノーでしょうか。いえ、違います。現宰相のニコラ・ダヴーです。ニコラは地方貴族からの強い支持基盤があります。中でも激戦になるのはライラス選挙区でしょう」
(驚いたな……この女ここまで調べておるとは)
「ライラス地方で最も影響力のある貴族はどこか……ヴァロンタン様はご存じだと思います」
「……ドゼー家だ」
「ご名答です。現在は若きアントワーヌ・ドゼー様が当主を継いでいますわ。そしてアントワーヌ様はシャルル様の無二の親友にございます」
「まさか……」
「ドゼー家からウジェーヌへの全面的な選挙支援をお約束いたします」
ヴァロンタンはガタっと音を立てて立ち上がると目を見開いた。
「な、なんだと……!一体何の権限で……!!」
「この白銀の鷲に誓いますわ。この場で印を押して契約いたしましょう」
ヴァロンタンはそこで、うっ、と止まった。あの白銀の鷲による印はアルノー家にとって何よりも重いはずだ。シャルルは必ず約束を守るために全力を尽くすだろう。
「さらに……次の宰相選にはかつてない莫大な資金がご入用になるでしょう。バシュラール家とオベール家は大変な資産をお持ちですが、それら資産は代々受け継がれてきたものばかりですぐに換金できるものは多くないはずです。即動かせるキャッシュとなると、事業の運転資金も考えれば相当不安が残るでしょう。ましてや相手は強力な地方基盤を持つ現宰相ニコラ・ダヴーですから」
アリスはヴァロンタンにはっきりとした口調で言った。
「アルノー家は総資産では皆様に劣りますが、中核のアルノー銀行は破綻の危機を脱し、今やこの国最大の銀行に再び返り咲きました。一昨年ほとんどの債権を回収したことはご存じですね」
「あ、ああ、知っている」
(バラチエ金融の名をうまく利用して債権を回収したという噂もあったな)
「債権のほとんどを回収したために、アルノー銀行の貸出残高は激減し、その分必要以上に巨大な貸出余力が生まれております。今この時点でのアルノー銀行の貸出余力は、この国のアルノー銀行以外の金融機関、全ての貸出余力の合計に匹敵します」
アリスはヴァロンタンの瞳を真っ直ぐに見つめながら言った。
「このアルノー銀行からウジェーヌの選挙費用に関して、無制限の融資を確約いたしましょう」
ヴァロンタンは手が震えた。もはやウジェーヌが当選に至るまで一片の隙も無い。ウジェーヌが当主を継いでから十年ほどは様子を見て、次の次くらいに機が熟してから……と考えていたが、オベール家が代々求め、ついに得られなかった宰相の椅子がもうすぐそこにあるではないか……!
「……み、見返りは、なんだ」
「シャルル様の解放……と言いたいところですが、シャルル様が解放されなければアントワーヌ様からの援助は差し上げられませんから、それだけではフェアではありませんわ。当然、今アルノー家に向けてされている、全ての嫌がらせ行為は即刻止めていただきます。また、アルノー銀行から選挙戦へ無制限の融資を確約する代わりに、以後のバシュラール家とオベール家への融資は全てアルノー銀行を通していただきますわ。余剰金は置いておいても無駄なだけですから、そのできるだけ多くを優良な顧客……つまりあなた方に貸し出したいのです。こちらもビジネスですから、そこはご理解くださいませ」
「ま、待て。それにはバシュラール家にもお伺いを立てんと……」
「いえ、それには及びませんわ。オベール家もアルノー家の鷲の印と同様、『獅子の印』をお持ちではありませんか。そちらでオベール家として保証いただければ、私は問題ありません。それに間もなくオベール=バシュラール家となるのでしょう?」
アリスはペラリと二枚の紙を取り出し、バンッと勢い良くテーブルの上に叩きつけると言った。
「さぁ、こちらに『獅子の印』を。私の気が変わらぬうちにお願いしますわ」
***
ヴァロンタン・オベールは契約を終え、放心状態で書斎の椅子に座っていた。白昼夢でも見たかのようだった。オベール家が娘婿を通じて遂に宰相の椅子を手に入れる時が来たのだ。これほど素晴らしい取引はない。オーギュスタン・バシュラールも喜んで承諾してくれるだろう。しかし、あの女が帰ったあと、数多くの修羅場をくぐってきたはずのヴァロンタンが、気づいたら汗でびっしょりと濡れていた。ヴァロンタンの全身の細胞という細胞が告げていた。
(あいつはヤバい。アリス・エマールだけは絶対に敵に回してはならない)
即日ベアトリスの告訴は取り下げられ、シャルルは拘置所から解放された。




