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許しますわ、ルイ。

「あともって一か月といったところでしょう」

 

 アリスがエマール家の屋敷に到着すると、父親のルイは安らかな顔をして眠っていた。見慣れたはずの父親の顔は、いつの間にか皺が増えて老人のそれになっていた。長年の病を経て、大きかった背中は丸く細くなり、アリスと変わらないほどの小さな身体となっていた。


 それからアリスは昼夜を問わずつきっきりで父親のルイを看病した。一日のうちほとんどは目を閉じて眠っているか、あるいは意識が混濁したような状態だったが、稀に意識のはっきりしている時もあった。


 毎朝の医師の診察のあと、アリスはルイの意識の有無に関わらず、昼間はエマール家の書庫から持ってきた、父親の好きそうな本を読み聞かせした。読み聞かせが終わっても、手を握って絶えず話しかけ、父親が昔話してくれた母ジョゼフィーヌの思い出話や、アルノー家の楽しい仲間たちについて面白おかしく説明したり、また春に咲いた美しいチューリップの花壇やシャルルについての話をした。アリスは自分がやがてベッドの横で眠りに落ちるまで、毎日ほとんど一方通行の会話を続けた。


 医師が言った余命の一か月を大きく超え、父親が倒れてから早三か月が経とうとしていたある雨の日、ルイが珍しくはっきりした意識を持ってアリスに話しかけてきた。


「アリス……アルノー家のし、仕事は大丈夫なのか」

「はいお父様、どうかお気になさらないで」

「その分だとせ、責任のある仕事はま、まだ任されていないようだな」

「ふふ、お父様のようになれるのは、まだまだ先になりそうですわ」


 看病期間中、何度も繰り返された同じ会話だったが、アリスはたまに父親が意識のはっきりしている時に交わせるたわいもないこのような会話がこの上なく幸せだった。


「アリスよ……私が死ぬまでに、お前に、どうしてもつ、伝えなければならないことがある」


 ルイは骨と皮だけになった手で、アリスの手を力の限り握ると、アリスの目を見て言った。


「はい、お父様」


 この会話の展開は三か月前に看病を始めてから初だった。ルイは口を開くと、枯れた声で話し始めた。


「……お前の母さんを殺したのは、こ、この私だ。お前が生まれた日、医師に、妻か子か、ど、どちらかを選べと」


 ルイは苦しそうに呼吸をし、考え込むように言葉を選びながら、しばらく沈黙した。


「……わ、私は、子を選んだ。だが、それはお前ではなく、む、息子を選んだのだ。娘であると知っていたなら、わ、私はジョゼフィーヌを選んでいた」


 ルイはそこでからからの声を詰まらせた。ルイの目からは涙が溢れてきた。


「それから、わ、私の心は死んでしまった……!お前に息子アデレードの亡霊を追いかけて、お、同じ意味のアリスという名前を付けた。酒に溺れ、エマール家は没落し、う、ウジェーヌ様と仲良くさせる下心を持って、お前をバシュラール家に連れていった。お前とウジェーヌ様が結婚すれば、し、借金が帳消しになるからだ」


 そこまで言い終わると、ルイは苦しそうに大きく息を吸った。ルイの声は震えていた。


「だ、だが信じてくれアリス。今はお前が生まれてくれてよ、良かったと心から思っている。すまんアリス、ウジェーヌ様のことでお、お前を傷つけてしまった私を許してくれ……。ああ、ジョゼフィーヌ……!どうか私を許してくれ……!」


 ルイの掠れた声が、寝室とアリスの心に響いた。アリスはこの三か月間、これほどしっかりとした声で、意識を持った父親が話すのを見たのは初めてだった。父親のその目からは涙が深い皺を伝って流れていた。


「……許しますわ。お父様」


 アリスは父親の皺が寄った額を、優しい手付きで撫でながら言った。


「私はお母様に見た目も性格も瓜二つなのでしょう……?であれば、自信を持って言えますわ。お母様も子供を残すという、お父様と同じ決断を下していたと。ジョゼフィーヌは天国からきっとこう言うでしょう」


 アリスは優しいまなざしでしっかりと父親の目を見据えて言った。


「許しますわ、ルイ」


 ルイは遠くを見つめると、口元に僅かな笑みを浮かべて目を閉じた。

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