アリス・エマール
主人公アリスの生い立ち回になります。
アリスは、なかなか子宝に恵まれなかったジョゼフィーヌ・エマールにとって待望の子供だった。ジョゼフィーヌはエマール家に嫁いだ身として、男子の世継ぎが残せないことは妻としての役割を果たせないことと考えて、いつも家を追われるのではないかと心配していた。だが、夫のルイ・エマールはそんなジョゼフィーヌにいつも優しかった。
「ジョゼフィーヌ、子供は天から授かり物だ。君が元気でいてくれさえすれば、僕はそれでずっと幸せだよ」
エマール家お抱えの医師の診察によって、ジョゼフィーヌがその身体にルイとの新たな命を宿したと知った時、ジョゼフィーヌはルイと共に飛び上がるほど喜んだ。彼女の年齢的には出産ができるぎりぎりのところだった。
「ねぇあなた、子供の名前はなんにしましょう?」
「アデレードというのはどうかな?」
「まぁ、素敵。とても甘くて高貴な名前ですわね」
ルイは男の子用の貴族服を買ってきては、ジョゼフィーヌに見せてはしゃいだ。
「どうだいこれは?きっとアデレードに似合うだろう」
「まぁ気が早いこと。まだ男の子かも分かりませんのに」
「いや、絶対に男の子さ。昨日夢で見たんだ。きっと神様のお告げに違いないよ」
ルイは何かある度に、まだ見ぬ息子に期待を膨らませて、息子用の物も合わせて買ってきた。ジョゼフィーヌのお腹が大きくなる頃には、ルイが趣味としている狩猟用の銃から、馬術用の高級馬に到るまで、何もかも二セットで屋敷に揃うようになっていた。
「君に狩猟や馬術は危険だからね。僕の相手はアデレードにしてもらうことにしたんだ」
ルイはジョゼフィーヌの身体を今まで以上に優しくいたわった。ジョゼフィーヌの腹部に手を当てては、子供の動きを感じて喜んだ。食事には細かく注文を出し、毎日ジョゼフィーヌの口に合う栄養価の高いものを腕のいいシェフに頼んで用意させた。二人はこの世界で一番幸せな夫婦だと思っていた。
出産予定日を過ぎても、ジョゼフィーヌには出産の兆候は表れなかった。
「今日高名な占星術師様に占ってもらったんだ。男の子で間違いないそうだ。これだけ長く君から栄養を得て、きっと立派な体格に育っているに違いない。もうすぐだよ、ジョゼフィーヌ。何も心配ないさ」
陣痛は、夜中に突然やってきた。ジョゼフィーヌが隣に寝ていたルイにその時が来たことを知らせると、ルイは眠気が吹き飛んだ。ルイは飛び起きると、お抱えの医師をはじめ、屋敷の使用人を全て起こした。出産に立ち会わない者たちには、すぐに大広間でお祝いの準備をさせた。屋敷の大広間は天井が高く、大理石の床に巨大なカーペットが敷かれ、複数の大きなテーブルの周囲には多くの豪奢な椅子が配置してあった。
ジョゼフィーヌは助産師経験のある使用人たちと医師によってすぐに出産の用意が整った別室へと移された。ジョゼフィーヌの陣痛の周期は徐々に早まっていった。この国では、夫の出産への立ち合いは良くないものとされていたため、ルイはハラハラしながらお祝いの準備が進む大広間で待った。
吉報はなかなかルイの元へ届かず、もうすぐ朝日が昇ろうという時間になっていた。ルイが大広間で不安そうにウロウロと歩き回っているところに、医師がやってきて告げた。
「旦那様、難産になりそうです」
大広間に用意されたご馳走は、すでに冷めきっていた。時間は無情にも過ぎていき、やがて再び夜がやってきた。ルイは心配で居ても立っても居られなくなり、分娩室のドアを開けた。そこには、苦しそうに真っ赤な顔をしたジョゼフィーヌがベッドの上に横たわっていた。
「あなた、心配しないで大広間で待っていて。もうすぐ終わるわ」
ルイはジョゼフィーヌの手を優しく握って言った。
「君の痛みを代わってやれればどんなにいいことか……。僕は、君にもしものことがあったら……。ジョゼフィーヌ……気をしっかり持って頑張るんだ。絶対に僕を置いて逝かないでくれ」
ルイはその場の助産師と医師にジョゼフィーヌと子供の命を救うことを厳命すると、再び大広間で不安な夜を過ごした。もう一日以上寝ていなかった。二度目の夜が明けようとしていた。大広間の壁にかけられた、自分用と子供用二本の猟銃を見つめると、敬虔なルイは神に二人の無事を祈った。
(神様、どうかジョゼフィーヌとアデレードをお救いください)
「旦那様」
その時、医師が大広間へと入ってきた。医師はその場にいた使用人たちに部屋から出るように告げ、ルイと大広間に二人きりになったことを確認すると、険しい顔をしながらルイに話しかけた。
「大変申し上げづらいのですが、医師として、旦那様に聞いておかなければならないことがあります。……もし奥様かお子様か、どちらかしかお命を救えない場合、どういたしますか」
ルイは凍り付いた。神はどこまで試練を与えるというのか。この時ばかりは敬虔なルイも神を呪った。ルイの脳裏に、ジョゼフィーヌとの出会いから結婚、幸せの日々がよぎった。ルイはジョゼフィーヌを心から愛していた。
答えは医師に聞かれる前からもう決まっていた。ルイは、ジョゼフィーヌさえいれば永遠に幸せの日々を送れると思っていた。
ジョゼフィーヌがルイの子供、アデレードをその身体に宿すまでは。
「……子供だ」
ルイの低い声が、大広間に静かにこだました。ルイには、もはやアデレード無しの人生は考えられなくなっていた。
***
それから再び時が過ぎてゆき正午を回った頃、分娩室から大きな赤子の声が聞こえ、極度の緊張と不眠が続き意識が朦朧としていたルイは飛び上がった。ルイの目の下には深いクマができていて、ひげも大分伸びてきていた。分娩室から医師が出てきた。医師は泣き腫らした顔をしていた。
「旦那様……。我々の力及ばず申し訳ございません。奥様は、お子様を残すことに全てのお力を……。とても安らかなお顔をされて天へと召されました」
ルイは呆然とした。全身から力が抜けていき、目の前が歪んだ。
「……それで……それで子供は、どうなんだ」
ルイは掠れた声を絞り出すように聞いた。
「はい、とても大きくて元気な、女の子です」
時が一瞬止まったかのように、ルイの身体が硬直した。その目は血走っていた。
「待て、お前今なんと言った」
「とても大きくて元気な、女の子です」
ルイはそれを聞くと、棒のように硬直した状態で、その場にばったりとうつ伏せに倒れた。手足はブルブルと震え、顔は横を向き片目だけ開いたまま、喉の奥から低いうめき声を上げ、その口からはよだれが床に垂れていた。