表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/58

春が来て

誤字報告ありがとうございます。修正しております。

 十日ほど前のこと。


「はぁ……、はぁ……。こんなことさせられるって知ってたら、首都シサルピーヌになんて来てなかったって……」


 エマは、毎日ひたすら同じ山に登って下りてを繰り返していた。首都シサルピーヌ最高峰、ベネギストである。葉や小枝をざくざくと踏みしめながら、標高約千メートルのこの山の登山道をエマは毎日往復していた。山の傾斜に沿うように時折風がひゅうっと吹いてはカサカサと木々の葉を揺らし、エマはその度に身体を震わせた。


 シサルピーヌに着いてから、エマはアリスの指示に従い、まず山頂近くにある山小屋で鳩を飼い始めた。それからしばらくして、五十キロメートル程離れた市街地にいるアリスと、伝書鳩がちゃんと戻ってくるかのテストをした。うまくいくようになってからは、ひたすら伝書鳩を担いで市街地に下り、そこから馬車に乗ってアリスのところへ行き、伝書鳩をアリスに渡して山に戻ることの繰り返しだった。エマはほとんど山の仙人になったような気分だった。


「う~、さぶいさぶい……」


 エマは毎朝十時過ぎに山小屋で目を覚ますと、アリスがシサルピーヌのチューリップマーケットから飛ばした伝書鳩が巣箱に戻ってくるのを待った。山小屋を一歩出ると、辺りの地面一体は霜で銀色に染まった草に覆われている。山小屋の裏手に木で作られた鳩用のかごを開け、伝書鳩の足に付けられたメモを持って、山中の開けた場所に出る。そこで百五十キロ先の、ポールのいる真南を向き、鏡に日光を当てながらメモの通りに動かすのである。


「ピカ、ピカピカ、ピカー、ピカピカピカ……」


 ポールは十時半頃、アルノー家の屋敷の裏手にある小高い丘に登って合図を待ち、望遠鏡で光を見ながらメモをする。ミスが少なくなるよう、情報の内容は値上がりした、取引の多いいくつかの球根に限定されていて、間を開けて数回同じ鏡のシグナルが繰り返される。メモを取り終わったら、ポールは歩いて十分のサヴォイホテルへ行って、指示された銘柄を買い付ける。


***


 アリスとエマは、首都シサルピーヌの滞在最終日を迎えていた。二人とも、充実感に満ちた表情を浮かべていた。チューリップの価格は一部で異常な高騰を見せ、球根の実際の引き渡し時期が近づいて、いよいよバブルも末期の様相を呈していた。


「アリス、挨拶したい銀行の取引先は全部回れたの?」

「はい、おかげさまで全て回れましたわ。エマさんには、大変な役回りをお願いしてしまい申し訳ありません」

「いいのよ、帰ったらポールにたんまり奢ってもらうんだから」


(しかし、もうベネギストに登れないと思うと寂しいわね。南部にもいい山はあるかしら?)


 エマはすっかり登山の虜になっていた。毎日往復していた時はもう山登りなんて懲り懲りだと思っていたが、その日々をいざ終えてみると、山頂に着いた時の達成感が忘れられなくなっていた。山の土の、木々の香りがエマの鼻腔の奥の方に残っていた。エマの頭の中は、帰ったらどんな登山グッズを揃えようかということでいっぱいだった。


***


 弟分から「すぐにチューリップを全て売り払ってください」という手紙をもらったその日、アドリアンはサヴォイホテルに着くと、ここ数日の弱い相場が嘘のように、久しぶりにチューリップ相場は急上昇を見せていた。


(この強気相場は……!やはりあの野郎ども、俺を騙そうとしてやがったな。今日こそ裏をかいてやる。オールインだ!!)


 ポールは、同じく相場の急上昇を指を加えながら見ていた。


(くそ、アリスとエマはもう帰る途中だから何を買えばいいのか分からないぜ。ここは大人しくしといた方がいいよな……。だよなポール!)


 ポールは心の中のミニポールに話しかけていた。その日、特に無窮の皇帝の上昇は激しかった。元々はアリスとエマからの最後の連絡をもってチューリップの球根を全て換金する予定だったが、ポールの独断で持ち続けたところ、その持ち分は信じられない金額にまで高まっていた。これまでの利益を確定するべきか、ポールは悩んだ。そのすぐ横でアドリアンが無窮の皇帝に強烈な買いを入れ、さらなる相場の上昇をエンジョイしていた。


「チューリップの秘術師さん、今日は動かないじゃないか。一体どうしたんだい?」


 アドリアンはポールを見下したように言った。


「くっ……!」


(駄目だ、今は我慢の時だポール。計画通り今日球根を全て換金するんだ……)


 一方、サヴォイホテルの他の多くのトレーダーたちは、やや冷めた目でその価格の上昇を見ていた。すでに「無窮の皇帝」は球根の重さで違いはあれど、球根一個数千万ルークという異常な高額になっていて、高値警戒感が広まっていた。


 その上、トレーダーたちはすでにチューリップ自体への関心を失いつつあった。もう間もなく実際の球根の引き渡し時期となるが、「風の取引」でペラペラの紙だけのやり取りが続いていたので、本当に引き渡しがあるか疑問視する人間も多かった。それに実際に球根が引き渡されたとしても、誰もきちんとしたチューリップの育て方を知らなかった。皆「いつ売り抜けるか」ということだけ考えていた。


 ポールがどうしようか迷っている間に「無窮の皇帝」にまた買い注文が入った。買い注文は止まず、ぽつぽつと、やがて立て続けに入った。さらに価格が上昇してきたのを見て、アドリアンも全財産を投入しさらに買い増した。


***


 アリスとエマは休暇も兼ねて楽しく寄り道しながら帰途につき、一週間後アルノー家の屋敷に帰ってきた。その頃には、すでにチューリップバブルは崩壊していた。ある日シサルピーヌのマーケットにぱったりと買い手が来なくなり、その情報が全国に伝播して恐慌が広がったのだという。特に暴騰していた「無窮の皇帝」の値下がりは激しく、バブル前の水準以下にまで価格が下がった。アリスとエマはその話を聞き、チューリップバブルの崩壊前に作戦が完了したことにほっと胸を撫でおろした。


 サヴォイホテルでは暴落したチューリップにより、ついに破産者が出ることになった。


 破産したのは、アドリアンとポールである。


***


 アリスとエマがアルノー家の屋敷に帰ってくると、入り口でポールが凄い勢いで走ってきて来て滑り込みながら土下座をした。


「エマー!!ごめん!!!!」

「はああああ?!私が貸した五千万ルークも全部失ったの?」


 エマは目を丸くしてポールに問いかけた。


「あは、あはは……。いやぁ、面目ない。最後の最後に勝負師の血がたぎっちゃって……。翌日に暴落を始めて売るに売れなくなっちゃったんだ。てへ」


 アリスは人差し指をあごに付けて考えていた。アリスはポールの間抜け度合いをすっかり読み違えていた。


(まさか、ポールさんまで暴落に巻き込まれてしまうとは計算外でしたわ……)


 エマは両手をヒラヒラさせて、飽きれた、というジェスチャーをしてから言った。


「まぁいいわ。どうせ私のお金もあぶく銭だし……。じゃあポール、代わりに一緒に登山に行ってくれるわね?」

「え、もう許してくれるのエマ?……でも登山?なんでまた」


 ポールはぽかんとした表情を浮かべた。


「私が登山の楽しさを教えてあげるわ!冬キャンよ!バック・トゥ・ネイチャーよっ!」


 エマは、目を輝かせながら言った。温室育ちのポールは未知の世界とエマの勢いに戦々恐々とした。


***


 冬が過ぎ、やがて春がやって来ると、屋敷の花壇はチューリップが咲き乱れた。ポールが市場の暴落により売り損ねた球根たちが一斉に花を咲かせたのである。シャルルとアリスは、並んで花壇の前に立ち、その様子に見入っていた。


「アリス。どうだい、初めて見るチューリップは?」

「とても素敵ですわ……。球根の紙切れよりも、ずっと」


 アリスは、顔を上げてシャルルの横顔をそっと見た。シャルルは凛々しい表情で、チューリップを観賞しながら物思いにふけっていた。


「お父様のことを考えていらっしゃるのですか?」

「ああ、亡くなった父にもこの景色を見せてあげたかったな、と思ってね。父はチューリップが大好きだったんだ。アリスも今のうちにお父様を大切にするといいよ。時間はあるようで無いからね」


 アリスは、エマール家の屋敷に一人で暮らす父親のことに想いを馳せた。


「いつか私の父が元気になったら……チューリップを見せに、ここに連れてきてもよろしいでしょうか?」

「もちろんさ。ポールもエマも、きっとみんな大歓迎するよ。何なら、いずれこの屋敷で一緒に暮らしたらいいじゃないか」


 シャルルはアリスの方を振り向くと、優しい笑顔をして言った。アリスはシャルルと目が合ってドキッとした。顔が至近距離にあり、シャルルの唇が、今にも触れてしまいそうなところにあった。アリスはシャルルの肘の袖をギュッと掴んだ。


「私本当に……シャルル様とお会いすることができて良かったです」

「アリス、本当に来てくれてありがとう。君にはずっと、ここにいてほしいんだ」


 次の瞬間、シャルルの唇が優しくアリスの唇に触れ、チューリップの微かな甘い香りが二人を包み込んだ。アリスの全身を電流が駆け抜け、心臓は飛び出しそうなほど脈打っていた。


「……あの、シャルル様!今、ポトフを作っているんです。お口に合うか分からないのですが」

「本当かいアリス?とても楽しみだよ!後で一緒に食べよう」


 アリスはウジェーヌへの復讐を果たすために、利用できそうなアルノー家に近づいた人間である。家族と呼んでくれる温かい屋敷の住人たちを騙し続けていることに、アリスは常日頃罪の意識を感じていた。いずれ目的を果たしたら、シャルルに全てを明かし、アルノー家を出て行こうと心に決めていた。それでも、こうしてシャルルと一緒にいる時だけは、復讐のことを忘れていたい、と思った。


(私、本当に幸せですわ、シャルル様。今この瞬間がずっと続いてくれればいいのに)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ