バブル崩壊の足音
アドリアンはトレーダーとして優秀な、頭の切れる男だった。今回の作戦も、彼の経験から来るものだった。その経験は、「投資は情報の早さが全て」ということである。アドリアンは、首都シサルピーヌにある最大のマーケットを起点にしてチューリップの値段が決まることを知っていた。この街のトレーダーは、翌日の朝刊でシサルピーヌの前日の球根価格を見て売買をするのである。
アドリアンは、この街のマーケットが閉まる時間より前に、当日の首都シサルピーヌにおけるマーケット情報を手に入れる方法がないか考えた。シサルピーヌでの取引の多くは午前中に行われ、午後はあまり価格に変動がないことも経験則で知っていた。だから取引開始直後から午前の情報が得られればそれでいい。
シサルピーヌは二百キロメートル程離れている。馬を飛ばしてもサヴォイホテルのマーケットが閉じるまでには間に合わない。アドリアンが考えた末辿り着いたのは、伝書鳩だった。伝書鳩であれば二百キロメートルの距離を二時間程度で飛べる。九時に開いたシサルピーヌのマーケット情報を十一時に飛ばせば、午後一時にはどの銘柄の球根がシサルピーヌで大きく値を上げたのか把握できる。それらの銘柄をこの街で安く買い集めておけば、翌日にシサルピーヌの価格が知れ渡った際に必ず上昇する、ということである。
アドリアンの自宅には伝書鳩用の大型の鳥かごがあり、いつも午後一時頃にシサルピーヌからの伝書鳩が何羽か飛来してきて鳥かごに入る。週に一度、いつも伝書鳩の世話をしている男がそれらの鳩をまとめてシサルピーヌのアドリアンの別邸へと連れて行く。アドリアンはある日、伝書鳩の世話係の男に言った。
「おい、俺らの使っている伝書鳩は、ほかの伝書鳩と比べて速いのか?」
「速いなんてものではありませんぜ旦那。バシュラール家のネットワークを駆使して手に入れた血統書付きの伝書鳩たちですぜ?」
「じゃあ質問を変えるぞ、俺らの伝書鳩よりも速い伝書鳩がいると思うか?」
伝書鳩の世話係をしている男は、首を振って言った。
「そんなことあり得ませんぜ、旦那。世界最速クラスの伝書鳩たちです。何かご不満でも?」
「いや、いいんだ。分かった」
アドリアンは醜い顔をしかめながら考えていた。可能性の一つは、ポールがどこかでアドリアンの手法に気付き、より速い伝書鳩を使って同じことをしているということだった。その可能性が無くなった今、アドリアンはもう一つの考えに行き着いていた。
(野郎ども、俺様を裏切りやがったな……!!)
アドリアンはその週末、シサルピーヌの別邸へと向かった。伝書鳩でアドリアンに情報を送っている仲間たちに会うためである。アドリアンが別邸に到着すると、玄関で二人の弟分が出迎えた。十年来の兄貴としてアドリアンを慕ってきた者たちである。彼らが相場の情報をメモし、伝書鳩に括り付けてアドリアンに送る役目を担っていた。
「兄貴、お帰りなさいませ!」
アドリアンは一言も発しないまま、両手で二人の胸ぐらを掴んだあと、ドスの効いた声で言った。
「いくらもらった?裏切りやがったのはどっちだ?」
アドリアンの弟分二人は、驚きの表情を浮かべながらお互いに顔を見合わせた。
「兄貴、一体何をおっしゃっているのか分からんのですが……」
アドリアンはさらに腕に力を込めると、二人の背中を玄関横の壁へと押し付けた。
「どちらかがやったのは分かってる。相場の情報を俺様に届くより先に横流ししやがって!」
「馬鹿な、そんなこと誓ってしてませんぜ、兄貴。なぁ、お前」
「お、おう、ビビリの俺らがそんなことするわけないでしょうが!」
アドリアンは手にさらに力を込めて言った。
「いいか、俺様がもし証拠を掴んだら、生きて外を歩けると思うなよ……」
二人は心底震え上がった。目が血走るアドリアンに身体を壁に押し付けられながら、何度も唾を飲み込み、ただ時間が早く過ぎ去ってほしいと願った。
「週明け、朝一番にマーケット情報を見て九時十分には伝書鳩を飛ばせ!」
翌週の月曜日、アドリアンの自宅にはいつもより早く、十一時過ぎには伝書鳩が飛来した。アドリアンはメモをつかみ取るとすぐにサヴォイホテルのマーケットへと向かったが、ポールはすでにそこにいてニヤリと笑っていた。
「今日はこれから『提督』の球根を買うんだろ、魔術師さん?」
アドリアンの視界がグニャリと歪んだ。アドリアンは弟分に裏切られたことについて半信半疑だったが、ようやく結論付けた。
(やはり、このアホ面はどうにかしてシサルピーヌにいる俺の弟分を買収しやがったんだ。今まで長い間、あれだけ可愛がってやったのに恩を仇で返しやがって。もうあいつ等の情報を信用することはできねぇ……!)
アドリアンは僅か一か月ほどの間に、莫大だったその資産を急速に減らしていった。元の作戦から逸脱した売買を始め、連戦連敗の日々を重ねた。その一方で「チューリップの秘術師」ポールは、マーケットの他のトレーダーたちにバンバンおごって豪遊しながらも、連戦連勝により資産を大きく増やしていった。ポールはトレードを通じて稼いだ金で買い進めていた「無窮の皇帝」の球根受取書を数えながら考えた。「無窮の皇帝」はこの頃、家一軒買えるほどのとんでもない価格まで上昇していた。
(「無窮の皇帝」一つで五千万ルークとすると……おいおい、もう少しでギャンブルの神様エマに資産額で追いつけるじゃないか!!)
ポールはその頃、アルノー家の執事の仕事がおろそかになっていた。
アドリアンは、すでに弟分たちが伝書鳩を通じて送ってくる手紙を全く信用しないようになっていた。ある日アドリアンは手紙を読むと、その場でビリビリと破り捨てた。アドリアンの顔は怒りで真っ赤に染まっていた。
「あの野郎ども、俺に大損こかせてついに破産させる気だな!!」
その手紙には、こう書いてあった。
(兄貴、大変です。ついにマーケットに買い方が一人も来なくなりました。全てのチューリップに値段が付きません。暴落どころではありません。いくらでもいいから、今すぐに手持ち全てのチューリップ資産を投げ売りしてください)




