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黒い眼帯のアドリアン

 大きなサヴォイホテルの二階にある「鳳凰の間」に設けられたチューリップのマーケットは、大変な賑わいだった。数百人……いや千人くらいこのワンフロアにいるようにアリスからは見えた。


 ワインをグラス二杯分の入場料を支払って中に入ると、大広間の約半分は飲食エリアとなっており、そこでは対面で様々なタイプの人々がテーブルで酒を飲み食事をしながら、チューリップの球根に関する交渉をしていた。


 大広間の残り半分では、各チューリップの銘柄毎に「買い」と「売り」の金額が記載された大きな黒板を中心にして人が集まっていた。まだ十代のように見える若い少年たちが、指示を受けながら慌ただしく黒板に記載された価格を修正し、それを見た人々が仲買人に大声で注文を飛ばしていた。


「あそこのテーブルが空いているね。一先ず腹ごしらえでもしようか」


 シャルルがアリスを連れて、奥のテーブルに座った。アリスが辺りを見回しながら言った。


「ポールも言っていましたが、花や球根は……どこにも見当たりませんね。ここでは誰もが皆、春にチューリップの球根がもらえるという紙のやり取りだけをされているのですか?」

「そうだね。チューリップの売買が活発になったからこれでも成立するんだと思うけど、なんだか味気ないよね」

「どうしてこれほどまでにチューリップは人気があるのですか?」

「チューリップ自体がとても素敵な花ということもあるけれど、多分その特性にあるんだと思う。それにしても、最近の人気は少し異常だけどね」

「特性……?」

「チューリップは、極稀に変化するんだ。例えば、突然変異で普通のチューリップに柄が入ってとても高価な『無窮の皇帝』になったりすることがある。さらにチューリップはうまく育てると元々の球根の周りに新しくいくつか小さな球根ができて、元の球根が『無窮の皇帝』であれば、新しい球根も『無窮の皇帝』になるんだ。だから、みんな一獲千金を夢見てチューリップの球根にお金を払うんだと思う。一種のギャンブルかな」


(なるほど、それが人々の射幸心を煽るのですね)


「今買っている人たちのほとんどは、本当にチューリップが好きな人たちじゃないよ。今どんどん値段が上がっているから、買って少ししたら売り抜けて利益を得ようと思っている人たちさ。きっと本当に球根が手渡されたら、どうしたらいいか分からなくなってしまうんじゃないかな。警備を付けられるお金持ちはいいけど、普通の人は馬が何頭も買える価値がある球根をその辺りの土に適当に植える訳にはいかないだろう?たちまち誰かに掘り起こされてしまうよ」


 アリスは、シャルルの話を興味深く聞いていた。シャルルはフロアを見渡して言った。


「ここではカウンターで食事を受け取る必要があるようだね。アリスは何か食べられない物はあるかい?飲み物はいつもの牛乳でいいよね。僕が取ってこよう」

「いえ、好き嫌いはありませんが、ここは私が……」


 アリスが半分立ち上がりながら慌てて言った。


「大丈夫、もう杖があれば歩けるから。このホテルのポトフが大好きなんだ。昔父がよく連れて来てくれてね。懐かしいな。アリスも気に入ってくれると嬉しいよ」


 シャルルはにっこりとほほ笑むと、杖をつきながら料理を注文しにカウンターまでゆっくりと歩いていった。


(本当に凄い盛り上がりね……)


 フロアは多くの人々の活気で包まれていた。黒板の前に陣取った人々は、お酒を手に一喜一憂していた。アリスが黒板の方を遠目に見ながら佇んでいると、ドスン、という大きい音と共にぶっきらぼうな声が聞こえた。


「よぉ、この辺りで見ねぇ姉ちゃんだな」


 アリスが前を向くと、スキンヘッドに黒い口髭と顎髭を蓄え、黒い眼帯を付けた大柄な男が、シャルルの席に座って葉巻を吸っていた。目は氷のように冷たく、射るような視線でアリスの方を見ていた。


「で、どのチューリップが欲しいんだ?」

「いえ、私は見学に来ただけでして。ちなみにそこは連れの席なのですが……」


 アリスは男の席を指差して言った。男はカモが来たと思ってやってきたところであしらわれたことに腹が立ったのか、あからさまに苛立った顔をした。


「てめぇ、誰だか分かって口聞いてんのかコラァ」


 男は大声を上げて立ち上がると、つかつかと歩み寄りアリスの腕を掴んだ。


「チューリップを買わない奴はお呼びじゃねえんだよ。ここから出て行きな。おう、よく見たらなかなか良い顔してんじゃねえか。ちょっと外に出ようか」


 男の顔が近づき、アルコールの匂いがアリスの鼻を突いた。男は近くで見ると、でこぼこの醜い顔をしていた。男がアリスの腕をねじり上げると、アリスは肘に強い痛みを感じた。


「や、やめてください……!」


 周囲の人々は、腫れ物に触るような目で見て見ぬふりをしていた。アリスは腕を強く引っ張られてそのまま椅子から引きずり降ろされると、地面に這いつくばった。


 その時ガタン、という音がした。テーブルの上には、プレートに乗ったポトフ、グリルされた野菜やパンが乱れていた。その直後に声が聞こえた。


「そこまでだ」


 シャルルが、そのか細い腕で男の腕を掴んでいた。


「……ああ?なんだてめぇは。このアドリアン様に用があんのか?ヒョロ男のくせに」


 男は軽々とシャルルの枝のような腕を振り払うと、今度はシャルルの胸ぐらを勢いよく掴んでシャルルごと持ち上げ、シャルルの持っていた杖は床を転がった。男はシャルルの胸ぐらを掴んだまま、反対の手で持っていた葉巻の先をシャルルの顔の前に近づけた。シャルルは、無言のまま鋭い目つきで男を睨みつけていた。煙の上がる葉巻の先はもうシャルルの顔を焼く寸前のところまで来ていた。先ほどの喧騒が嘘のように周囲は急に静かになり、人々はことの成り行きを見つめていた。そのまま数秒が経過した。やがてシャルルが毅然とした態度で口を開いた。


「私の家族に手を出さないでもらおうか」


 その後しばらく男とシャルルの睨み合いが続いた後、男はつまらなそうな表情を浮かべて舌打ちをし、持っていた葉巻をポトフの器の中に投げ捨てると、シャルルの胸を掴んでいた手を放し、ぷいっと身を翻した。シャルルは勢いでその場に倒れ、男はつかつかと歩いて去っていった。


 アリスは急いでシャルルに駆け寄ると、その身体を起こして言った。


「大丈夫ですかシャルル様……!」

「ああ、僕は大丈夫だ。アリスこそ大丈夫だったかい?僕が目を離していたばかりに、辛い想いをさせてしまってすまない……」

「ええ、私は大丈夫です……」


 アリスはチラリとテーブルの上を見て言った。ポトフには葉巻が浮かび、飲み物のカップが倒れ、牛乳がテーブルから床へと滴っていた。


「シャルル様の好きなポトフ、食べられなくなってしまいましたね……」

「そんなことはどうでもいいさ。アリスが無事で良かった……君の身に何かあったら僕は」


 シャルルは、人目もはばからずアリスをその場で抱きしめた。シャルルの細い身体を通じて、その心臓の鼓動がアリスの胸を伝った。アリスは顔が真っ赤になった。


「シャ……シャルル様……!ちょ、ちょっと……!」


(だ、大胆過ぎますわ……!でも、き、嫌いではありませんわ!)


 その時、アリスの近くを通りがかったウエイターの女性がアリスにそっと耳打ちした。


「さっきの人は、バシュラール家お抱えのナンバーワントレーダー、アドリアンですよ。このチューリップ取引所で一番幅を利かせている男です。彼が買った球根の値段が下がったことはなく、百発百中なんです。ここでは誰も彼に逆らうことはできません。気を付けた方がいいですよ」


(百発百中……?そんなことあり得るのかしら)


 アリスはその言葉を聞いて、ゆっくりと頭を回転させ始めた。

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