チューリップバブル
バブル――その甘美な響きを持った名称は、しばしば投機が投機を呼ぶ狂乱の時代の代名詞として用いられ、その時代の終わりに餌食となった敗者を嘲笑うために用いられ、あるいは圧倒的な勝者を認めたくない者たちによって用いられる。
ここに、史上最も謎めいた、最も馬鹿馬鹿しいバブルが始まろうとしていた。チューリップの球根一つで家が買える――後世の人々はこの時代を振り返ってこう言った。チューリップバブル、と。
「うひょー!ついに買っちまったぜ!」
ポールがアルノー家の屋敷の庭園を興奮しながら走り回っていた。アリスは庭園に落ちた葉っぱや木の枝、花びらを掃き掃除しているところだった。
「あら、ポールさん。一体どうされたのですか?そんなに興奮されて」
ポールはアリスに話しかけられると、走って近づいて言った。
「チューリップだよ、チューリップ!」
「はぁ……」
「アリスは知らないのかい?今この国の北部ではチューリップっていう花の球根の価格がモリモリ上がってきてるんだぜ!」
「その球根は、どこに行ったら買えるのですか?」
「街の大き目の宿に行けば、どこだってチューリップのオークションや個人売買の場所を提供してるのさ」
「そこで、ポールさんは球根を購入されたのですね。是非見てみたいです!」
ポールはチッチッチと舌を鳴らし、ポケットから紙を取り出してアリスに見せた。
「これだよ、これ!」
アリスは首をかしげた。
「はぁ、私には紙のようにしか見えないのですが……」
「球根はまだ土の中にあるんだ。来年の春に球根を受け取れるっていう証明書なんだぜ。業界では『風の取引』って言われてる」
(本当にまるで空気を取引しているようですわね)
「こちらをポールさんはいくらで購入されたのですか?」
「五十万ルーク!内緒だぜ?めちゃくちゃいい人がいてさ、格安で譲ってもらえたんだ」
「ご……五十万ですか」
ポールは嬉しくてたまらなそうだった。
「お、あそこにいるのはギャンブルの神様エマじゃないか!おーいエマーー!」
ポールは手を振りながら、エマの方へ向かって風のように去っていった。
「チューリップですか……」
アリスはその週末の土曜日、アルノー家屋敷の地下書庫でランプを灯し、チューリップに関する文献を読んでいた。屋敷の書庫は頑丈な本棚が壁に沿って並び、中央に読書用の大型の机と椅子がある。アリスはしんと静まったこの書庫が好きだった。普段聞こえる音はアリスが捲るページの音だけだった。
アリスが手に取った、ざらざらとした革の装丁がされたチューリップの分厚い図鑑には、異国情緒溢れる色とりどりのチューリップの絵が並んでいた。アリスがその美しさに魅了されていると、背後からコツ、コツ、という音と合わせて足音が聞こえ、やがて肩をトントン、と叩かれた。
「チューリップに興味があるのかい、アリス?」
すらりとした高身長のシャルルが杖をついて立っていた。他の誰かだろうと思っていたアリスはドキッとして固まった。
「あ、は、はい……シャルル様ごきげんよう……」
「あはは、ごめんね。びっくりさせちゃったかな」
シャルルは杖を机に立てかけるとアリスの隣に座った。アリスがシャルルの顔を見ると、相変わらずの美しい顔に鼓動が早まった。見てすぐに分かるほど、シャルルの血色は良くなっているように見えた。
「お加減はいかがですか?シャルル様」
「すこぶるいいよ。シンシティでみんなと楽しい時が過ごせたおかげかな」
「書庫にいらっしゃるのは珍しいですね」
アリスは暇さえあれば書庫に来て本を読んでいたが、ここでシャルルに会ったことは一度もなかった。
「ああ、さっき君が書庫に入って行くのが見えたからね。後で行こうと思っていたんだ」
(シャルル様が私に会いに来ようと……?)
アリスの頬が赤く染まった。
「アリスがうちで働くようになってから、本当に屋敷の雰囲気が明るくなったんだ。お礼を言いたくて」
「いえ、私は何も感謝されるようなことはしておりませんわ。でもありがとうございます」
シャルルはアリスが読んでいたチューリップの図鑑に目を落として言った。
「チューリップ、昔父が買って来て庭に植えてくれたんだ。とても綺麗な花だよね。異国からの花で貴重なんだけど、今ほど高くは無かったな」
シャルルは目を細めて図鑑に近づき見入った。シャルルの顔がアリスの顔に触れそうな位置に来て、アリスは息を飲み込んだ。
「これは『無窮の皇帝』という品種のチューリップだね。ローゼンといって赤い色に白の縞模様が入っていてとても美しいんだ」
シャルルはアリスが読んでいた図鑑に描かれた、大きなチューリップの絵を見て言った。
「シャルル様、お詳しいですのね。私は先ほどポールがチューリップの球根を買ったというので興味を持ったんです」
「あはは、ポールらしいね。でもアリス、今買うのはあまりお勧めしないよ」
「それは、どうしてですか?」
「百聞は一見に如かず、とも言うよ。アリスに時間があるなら、今日これから一緒にマーケットを見に行ってみようか」
「は、はい……!」
(これってもしかしてデートかしら……?)
シャルルはアリスの手を取ると、アルノー家屋敷から歩いて十分ほどのところにある、街で一番のチューリップマーケットがあるホテルへと向かった。シャルルはまだ一日三回の薬が手放せなかったものの、杖をつきながらであれば歩けるほどにまで回復していた。ただ、まだ体力が無くしっかりとは歩けなかったので、時折アリスにもたれかかるようにアリスと繋いだ手に体重がかかって、それがアリスには微笑ましかった。




