大勝負当日、そして……
「賭け金十億ルーク」のニュースはそれまでのエマの話題に輪をかけて衝撃的だった。エマが実は名家の令嬢で、亡くなった親から資産を引き継いでいただの、メイドの仮面を被った希代のギャンブラーでシンシティ中のカジノを荒らし回っていただの、ないことないこと噂が立った。
新聞はエマの一挙手一投足を追いかけ、エマがシンシティパレスから外出する時はいつもファンが押し寄せて黒山の人だかりとなった。ブックメーカーは「エマが勝つ」「エマが負ける」という賭けに対する総賭け金が、あらゆるスポーツなどの歴代の賭け金を超え、過去の賭けの中で最高金額になったと発表した。もはやエマは社会現象となっていた。
支配人は不安で頭がどうにかなりそうだった。「その日が来ないでくれ」と思いながら、その一方で「無事にその日が早く過ぎてくれ」とも思っていた。夜中に借金取りに追われる夢を見て、翌朝汗をびっしょりとかいて目を覚ますことも一度や二度ではなかった。
「それで……十億ルークは本物だったのか?」
「はい、現金できっちり十億ルーク、偽札はありませんでした」
支配人の最後の希望も儚く消え去った。後は当日神に祈るほかできることはなかった。
勝負の当日、シンシティパレスには特設ステージと特設観客席が設けられ、厳重な警備が敷かれた。カジノフロアは安全のため全て休業となり、近隣からエマの世紀の勝負を一目見ようと、新聞記者をはじめとして、ブックメーカーで賭けたギャンブラーたちや、ファンたちが大挙して押し寄せた。
関係者席には、車いすのシャルルを含め、ただの旅行で来たはずのアルノー家の面々がいた。アリスは一番隅の目立たない席に座っていた。
シンシティパレスの支配人は、アリスの横のVIP席に座る男を見てぎょっとした。あの悪役面は、以前新聞で見たことのある顔だった。
(あいつはバラチエ金融の代表の……!資金の出所はあそこだったのか!!)
支配人は合点がいった。確かにバラチエ金融であれば十億ルークは用意することができるかもしれない。しかし、何でただのメイドにそんな大金を貸すのか?疑問は尽きなかった。支配人は技術者に監視役の第三者も加えて、ルーレットを調整した。
「大丈夫です支配人。イカサマの可能性は万に一つもありません」
それを聞いても、支配人は底知れぬ不安がぬぐえなかった。
勝負の時は刻一刻と迫っていた。エマは一張羅のメイド服を身に纏い、ルーレット台の前の席に座った。ディーラーがやってきて、純金製の特製チップを十枚、エマの前に置いた。一枚一億ルークである。もちろんディーラーも小細工ができぬよう、ルーレットの台は、ディーラーがボタンを押すことでボールが自動的に同じ強さで射出されるようになっていた。ボールが射出されてからベット終了の鐘が鳴る五秒ほどの間は、エマはチップを動かして好きな場所に賭けることができる。
皆が緊張に包まれながらエマを見守る中、ついにボールが射出された……!
一秒……二秒……三秒……まだエマは動かなかった。一度目で賭ける必要はない。エマは最後まで動かず、ボールは赤の三のポケットへと吸い込まれた。ボールが落ちた途端、周囲から一斉に息をする音が聞こえた。皆息を止めて見守っていたのである。
さらに二度目が射出された。まだエマは動かない。今度のボールは赤の十九へと落ちた。さらに三度目……!まだエマは動かない!ボールは赤の三十四へと落ちた。
ボールがポケットに落ちる度、周囲の空気が一瞬弛緩するのが分かるほど、その場は緊張で包まれていた。ルーレット台のすぐ横で見ていた支配人は極度の緊張を通り越してもはや諦めの境地に達した。
(クソが!もうどうにでもなれだ!でも、三十六倍だけは勘弁してくれ……!)
「エマ!流れが来てるぞ!」
その時関係者席から声が聞こえた。ポールだった。例の出目のメモを振りながらエマに言った。
「三連続で赤が来てる……!」
次の瞬間、四度目のボールが射出された。エマがついに動いた。エマの両手に押された十枚全てのチップは、数字の上を滑っていった。途中チップが僅かに止まり、同時に支配人の心臓も止まりそうになった。支配人の頭に「破滅」「人生終了」「死」の文字が浮かんだ。
(お願い!三十六倍の可能性がある、数字への一点賭けだけはヤメテ!!)
***
エマは、チップを動かしながら、アリスとの会話を思い出していた。しかし何度その場面を思い出しても、アリスの意図はよく分からなかった。
「それでそれで?そろそろアリスの作戦を聞かせてもらってもいいんじゃないの?何か必勝法があるんでしょう?」
「うーん、そうですわね。エマさん、まずはじめの何回かは賭けるのを見送ってくださいますか」
「うんうん。……それはどうして?」
「だって、その方が盛り上がると思いませんか?」
「盛り上がる?それって重要……?」
「これが世紀の大勝負だからですわ。せっかくですから楽しまないと!」
エマは首をかしげた。
「まぁいいけど……それで、どこに賭ければいいの?」
「うーん、そうですわね。赤か黒、どちらかに賭けてくださいませ」
「分かったわ、赤か黒ね……って、え?てゆか赤か黒しかなくない?」
「その時、エマさんが好きな色の方に」
エマは目を丸くしてゴクリと唾を飲んだ。
(分かったわアリス。私にはあなたが何のことを言っているのかサッパリ分からないけど、何か言えない作戦があるのね!あなたを信じるわ、アリス)
***
エマは、数字を通り越して、チップを全てテーブルの奥、赤のところに進めていった。赤への一点賭けである。当たれば二倍。観客たちは一斉に息を飲み、支配人からは安堵のため息が漏れた。
エマは思った。
(きっと、さっきのポールの声が合図だったのね!そうだったのねアリス!)
ボールは勢いを弱め、やがて落ちる場所を探し始めた。周囲の観客は皆、固唾を飲んで見守っていた。ボールは一回、二回と跳ね、とうとうポケットに収まった。
(赤、二十一)
その瞬間、周囲は大歓声に包まれた。そこは興奮のるつぼと化した。エマが立ち上がり、笑顔で観客席に一礼すると、さらにカジノフロア全体が揺れるほどの一回り大きな歓声が響き渡った。
シャルルは嬉しそうに拍手し、バラチエ金融の代表は、うんうん、と頷いた。ポールや他の使用人たちは大喜びで駆け寄り、エマを胴上げした。支配人は、損失は出したものの破滅に到るほどのダメージを受けなかったことに安堵した。
アリスは歓声が鳴り止まぬ中、横に座るバラチエ金融の代表に、そっと耳打ちした。
「借りたお金は、後ほどきっちりと利息を加えてお返しいたしますわ」
「……で、一体どんなトリックを使ったんだ?」
「私には何のことか……分かりませんわ。勝った理由はきっと、『流れ』がきていたからですわ」
「『流れ』だって……?もし負けていたらどうするつもりだったんだ?」
アリスはにっこりとほほ笑んで言った。
「私、勝てないかもしれない勝負はいたしませんわ」
***
シンシティパレスの支配人は後日、諸々の請求書を見て目を白黒とさせていた。あの日の一週間前からの警備費用や当日のカジノの機会損失など、その他費用も全て含めると、十一億ルークもの赤字が発生していた。さらに負け分を加えて二十一億ルークである。
だが、支配人は喜びの方が悲しみに勝っていた。三百六十億ルークという途方もない負債を負う危険はもう無くなった。破滅の危機をついに脱したのである。バシュラール家には大目玉をくらうだろうが、ひとまず死線を超えたことを神に感謝した。
しかし、あのエマとかいうメイドはなぜあんな狂ったギャンブルをしたのだろう?あの世紀の大勝負を前にして、全く緊張している様子も無かった。超能力者か何かだったのだろうか。その疑問は永遠に解けることはなかった。
***
アリス一行は、旅を終えて屋敷に帰ってきた。あの後、帰るまでの数日はエマのおごりで贅沢三昧だった。シャルルも楽しそうにしていて、アリスにはそれがとても嬉しかった。
エマは超有名人になる夢が叶い、帰ってからもずっと満面の笑顔である。エマは大金持ちになったが、元々孤児だったこともあり、「私にはアルノー家が唯一の家族だから」と言って、アルノー家のメイドはずっと続けると言う。
ポールは憧れの対象となったエマをなんとかロマンティックなデートに誘おうと、必死になってエマの尻を追いかけまわしていた。
***
(十億ルークは少しやり過ぎたかしら?バシュラール家のウジェーヌにはもっと幸せになってもらわないといけないのだけれど……)
旅の余韻がまだ残るある日、アリスはそんなことを考えて歩きながら、ブックメーカーのオフィスに到着した。奥の社長室へと通されると、社長が満面の笑みでアリスを待っていた。
「お待ちしておりました!いや~我が社史上最高の凄い売上になりましたよ。こちらが契約書に沿った利益分配金の明細書になります。十六億ルークです。バラチエ様にご紹介いただいたあなたが今回の企画を持ち込んでくださったおかげで、大変に盛り上がりましたよ。もちろん厳密な秘密保持契約の通り外に情報が漏れることはありませんのでどうぞご安心を」
アリスは一礼して言った。
「ありがとうございます」
アリスは明細書に目を落とすと、上から下までじっくりと読んだ。
「ただの余興の保険のつもりだったのですが……ここまでいくとは少し想定外でしたわ。ありがたく頂戴いたします。それでは私はこれで」
アリスは立ち上がると、くるりと背を向けた。
「アルノー家の重鎮アリス様、今後ともどうかごひいきに!」
アリスは振り向くと、にっこりとほほ笑んで社長に言った。
「私、重鎮などではございません。……ただのしがない使用人ですわ」
アリスは今回得たお金でエマール家の以前の屋敷を買い戻し、父親のルイはかつての屋敷へと引っ越すこととなった。
数ある小説の中ご覧いただき、本日の連続投稿に最後までお付き合いくださり、本当にありがとうございました!元気があれば明日12月30日も連続投稿の予定です。
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