第7話 俺の妹
もう我慢できなかった。
苛立ちと悔しさと悲しみに涙がこみ上げてくる。
涙に歪んだアルバムを乱暴にバタンと閉じると、母さんが不思議そうな顔をして俺の様子を窺っていた。
きっと、きっと母さんは、何で俺がこんな気持ちになっているのか理解も出来ないんだろう。
母さんの中ではアイツがいるのが正解で、「アイツなんていない」って言っている俺の方が間違っている。そういうことなんだ。
どうして俺が腹を立てているかも分からない困惑した表情で俺の様子を窺う母さんが、堪らなく嫌で、怖くて、俺は家を飛び出した。
まるで夢だ。目の覚めない悪い夢を見てるみたいだ。
居るはずのない妹が居る。俺の前に居る。
でも、俺に妹なんて居なかった。絶対、確かに居なかった。
でも、アイツは居る。他の誰もが居ると言う。俺の妹だと言う。
俺が間違っているのか。
例えば俺が変な記憶喪失にでもなって、妹のことだけスッポリ忘れてしまっている。とか。
いや、そんなハズはない。
だって、なかった。
アルバムの中にアイツが写ってる写真なんて1枚もなかった。
もしかして、母さんが言ったことが本当で、小さい頃のアイツは病弱で、それで1枚も写真に写っていなかったのか?
そんな馬鹿なことがあるかよ!
いくら病弱でも入学式や卒業式の写真くらいあるだろ?
それが1枚もなかったんだ。
だから俺は正しい。アイツはいない。いなかったんだ。
でも、それならアイツは何なんだ。
どうして俺の家にいるんだ?
どうしてみんな不思議に思わないんだ?
どうして俺の妹だなんて信じているんだ?
アブラ蝉の大合唱が頭の中に響く中、同じ事をグルグル考えながら、俺は当てもなく、緑道を歩き続けた。
木洩れ日の中を潜り、公園を横切り、陸橋を渡り、その間ずっと俺は考え続けた。
俺は正しいのか?間違っているのか?
生い茂る木々が重苦しく緑道に覆い被さっていた。
木漏れ日一つ通さない木々のトンネルは薄暗くて、まるで出口の見えない俺の心境そのものだった。
上り坂はきつく、一歩一歩を踏みしめて歩く。
俺の足は一歩一歩確実に前に進むけれど、頭の中はグルグルと同じ所を行き来していた。
どうして?どうして?どうして?
遂に上り坂は終わり、木々のトンネルも影を薄く変えていく。
そしてトンネルを抜けた瞬間、容赦なく夏の日差しは降り襲ってきて、真っ白に目の眩んだその先に、視野一杯の広い広い青空が俺を待ち構えていた。
まるでダム湖のように満々と水を湛える光明池。
静かにさざめくその水面には、夏の青い空が映し出されていて、その奥にある緑の山々のその先で、白く大きな入道雲がドンと俺を眺めてた。
その巨大な巨大な入道雲を見ていると、気が付かないフリをしていた問題の答えが浮かんできた。
これは夢だ。そう覚めない悪夢だ。
でも、覚めない夢と現実に何の違いがあるのだろう?
昔、蝶になった夢を見た詩人が、「俺が蝶になった夢を見たのか、蝶が人になっている夢を見ているのか?」なんて呟いた、胡蝶の夢とかいう話しを国語の時間に習ったけど。
まったくその通りだ。
そんなもの区別はつかない。
だから関係ない。
アイツがいたか、いなかったか、なんて。
それより大切なのは、
アイツがいるか、いないのか、なんだ。
アイツは現実にいて、俺以外のみんなもアイツが俺の妹だと思い込んでいる。
だとすると、俺もアイツを妹だと認めるしかない。
真実がどうかなんてどうでもいい。
現実がそうなんだから。
自分に嘘をついて、アイツは俺の妹だ。と認めれば全てが丸く収まる。
アイツと喧嘩して、親父に怒鳴られたり、母さんを悲しませたりしなくてすむ。
家にアイツの荷物が無いことも、学校にアイツの机が無いことも、アルバムにアイツの写真がないことも、母さんみたいに訳の分からない言い訳で理由を作ってやればいい。
そうして、自分に嘘をつく。
それだけで、それだけで、それだけなんだ。
って、クソ!なんで俺が、俺の方が嘘を付かなきゃいけないんだよ。
俺はドンと構える入道雲に背を向けて、元来た道を歩き始めた。
早足で坂道を下り、陸橋を渡り、駅前の人通りの中をすり抜けて。
このまま真っ直ぐ家に帰ろうか。それとももう少し遠回りでもするかな?
光明池の駅の改札の前を通り過ぎて、帰宅ラッシュの人混みに紛れて歩くペースを少し落とす。
早く家に帰って部屋でゆっくりした。
もう少し気が落ち着くまで歩いていたい。
いや、家に帰るとアイツが居る。
もう避けることはできないと覚悟はしていた。
家に帰るとアイツはいる。
そして俺はアイツと仲良くしなきゃいけない。
…無理だ。
昨日までいなかった。そんな、どんな奴かも知れない奴といきなり仲良くなんて無理だ。
「お兄ちゃん」なんて言われる事を想像するだけでゾッと、いや腹の奥がギュッと縮んで吐きそうになる。
自然と足は遠回りの道を選んでいた。
家に帰るとアイツが居る。
アイツとは仲良くしなきゃいけない。
アイツが俺の事を「お兄ちゃん」と呼ぶ事にも慣れなきゃいけない。
考えただけで気分が悪くなる。せめてもう少し気持ちを整理しないとむかつきが治らない。
駅から緑道の陸橋を渡り、真っ直ぐには行かず、右に曲がり公園の中へ入っていく。
夏の長い日も次第に西へ傾いて、黄金色に照らされた木々は長い影を伸ばしていた。
子どもたちはとっくに家に帰ったんだろう。
誰も居ない公園の広場の片隅のベンチに俺は腰を下ろした。
仕方ない。よな。
いつまでも兄妹喧嘩を続けるわけにはいかない。
そもそもアイツを妹として認める事自体に抵抗があるけど、もうそんな事は言ってられない。
もう日も落ちる。家に帰らなきゃいけない。
これからは親父と母さんと…アイツと4人で暮らす事になる。
それに慣れなきゃいけない。
木々の葉は暗く光を失って、その向こうの雲は紅色に輝き、空は紫に染まっていた。
公園の街灯に灯りが点った頃、俺は遂に観念して腰を上げた。
さて帰るか。
そんな一歩を踏み出したとき、「お兄ちゃん」と声がした。
振り返るとアイツの姿があった。
相変わらず俺のジャージを着て、両手にはパンパンに膨らんだ買い物袋をいくつも下げて。
黄昏の夕陽が背中からアイツの輪郭だけを照らし出して、顔色は窺えなかったけど声は少し震えていた。
けど、俺はアイツに何て答えて良いか分からなかった。
よう。どうも。こんにちは。
咲。咲ちゃん。お前。
アイツのことを何て呼んだら良いのか分からない。
なんて声をかければいいか分からずに、言い澱んでいるうちに、「お兄ちゃん、ゴメンなさい。」とアイツの方から頭を下げて言葉を続けた。
「ゴメンなさい。お兄ちゃん。
もうね、勝手にお兄ちゃんの服とか食器とか使わないから、もう怒らないで。
ほら、今ね、駅前のお店で食器とか歯ブラシとか、服もパジャマも靴も、咲の使う分、全部買ってきたんだよ。」
アイツはそう言って手に下げた紙袋をガサリと持ち上げた。
違う。違う。そういうことじゃないだろ。
もう我慢の限界だった。
「おかしいだろ。変だろ。分かんねぇのかよ。
お前の分の食器?歯ブラシ?服?パジャマ?
おかしいだろ。
今まであの家で暮らしてきたんだろ?
俺の妹なんだろ?
じゃあなんで、服とか靴とか歯ブラシとか、お前の物が何一つ家に無いんだよ?
おかしいだろ?
おかしいと思わねぇのかよ。」
ツバが飛んだとか、そんな事はどうでもいい。
後ずさりする咲の肩を掴んで、顔を近づけ、肩を揺さぶって俺は一気にまくし立てた。
興奮して、言えば言うほど力が入って、手は首元に迫って、喉元を押し潰そうする俺の手にソッと咲の冷たい小さな手が重なったとき、俺はハッと気が付いた。
アイツは泣いていた。
頬に一筋の涙を流して、泣き顔とも笑い顔とも分からない表情で真っ直ぐに俺を見ると、しゃくりあげそうな声を堪えて、「おか…しいよね。」と声を絞り出した。
「やっぱり、おかしいよね。変だよね。
私の家なのに、私の物が一つもないなんて、変、だよね。
ねぇ、私、本当にあの家に居たの?
本当に私、あの家の家族なの?」
アイツは涙を浮かべて俺の答えを待っていた。
喉元に迫った俺の手を払い退けようともせず手を添えて、まるで「殺してくれても良いよ。」と無防備に、全てを俺に委ねて答えを待っていた。
「知る…かよ…。」
何を、何から、どう言えば良いのか。
言いたい事、聞きたい事が多すぎて頭の中で溢れ返って混絡がっていた。
言いたい事があるのに言葉が出てこなくて、それが歯痒くて、もどかしくて、悔しくて。叫びたい、泣きたい、暴れ出したい俺の気持ちを、俺の手の上に重ねたアイツの小さくて柔らかな手が繋ぎ止めていた。
「そんな事、俺が聞きたいんだよ。
俺に聞くなよ。
みんなお前は俺の妹だって言ってんだよ。
俺がどんなにお前なんて知らないって言ったって、
家にお前の荷物が無くたって、
学校にお前の机が無くたって、
写真にお前の姿が無くたって、
みんなそんな事、知らないフリして、無視してさ、
お前は俺の妹だって。ずっと前から一緒に暮らしてるってさ。
みんなそう言ってんだよ。
なのに、なんだよお前。
なんでお前が、
お前がおかしいって事に気付いてんだよ。」
言って、涙が溢れ出てきた。
誰も、誰も、母さんさえも分かって分かってくれなかった事を、コイツは分かってくれている。
コイツが居なかったって事をコイツにだけは理解してくれたって、それで嬉しいなんておかしな話だけど、それでも俺は嬉しかった。
やっと俺の言ってる事を分かってくれる人がいたんだ。
「それで、お前は誰なんだよ。
なんだウチにいるんだよ?」
声は震えて泣き声だった。
恥ずかしいなんて思ったけど、それよりも先に言わなきゃ気が済まなかった。
こんな訳の分からない事態。
その原因なんて想像も出来なくて、空恐ろしかったから、
「実はね。何も覚えてないの。」と言った咲の言葉に、逆に俺はホッとした。
だから、その後に「それでもお兄ちゃんだけは、間違いなくお兄ちゃんなの。それだけは間違いないの。」と続けた咲の言葉を、俺は何も考えず聞き流した。