第4話 和田川の神社
三琴から連絡が来たのは俺が家に帰り着いてしばらくしたあとだった。
「今から車で行くから。」と言った三琴の声が沈んでいたのが気になって、俺は急いで家を飛び出した。
和田川の神社はこの泉北ニュータウンの外れにある。
俺の家からは緑道を、光明池駅とは反対の方向に向かって、終端のその先だ。
自転車に跨がって、住宅街の角を曲がり、緑道に入ると勢いよく坂道を下っていく。
夏の木々が生い繁る緑道をキィーキィー自転車のブレーキを掛けながら、家に帰る途中の学生やジョギング中のおっちゃんの脇をすり抜けて、ほとんどペダルを漕ぐこともなく緑道の終端まで来ると、大通りの向こう側にニュータウンの一番端の住宅街が見えてきた。
立ち並ぶ住宅街の合間から生い茂る神社の木々が見える。
ただ、神社は住宅街からは回り込んで和田川沿いの砂利道からしか入れない。
幼い頃、「冒険だ!」なんて、はしゃいでニュータウンの外れまで来てこの神社を見つけたとき、「世紀の大発見だ!」なんて興奮したのは、住宅街の真ん中にあるのに一人だけひねくれ者のように住宅街の中の道路に背を向けている不思議な神社を見つけたからだ。
もうそんな年じゃない俺は、今さら何の疑問も抱かずに住宅街には入らずに大通りを左に曲がり、和田川沿いの砂利道に自転車を止めた。
見慣れたとはいえ不思議な光景だ。
住宅街の家々は和田川には背を向けて、家の裏側の小さな窓の付いたノッペリとした壁が並んでいるのに、その神社だけが砂利道側に鳥居を設けて口を開けていた。
俺は鳥居の隣に自転車を止めて、久しぶりにその神社の境内に入った。
庭付き一軒家ほどの、神社と言うには少し小さい境内は隅々まで手入れが届いていて、白い玉砂利が綺麗に敷き詰められていた。
神社の隅を緑に彩る木々ではやかましく蝉が大合唱を繰り返していて、俺は日差しを避けるため木陰に入ってその木にもたれ掛かった。
ここってこんなに小さかったんだなぁ。
初めてこの神社に来たのは小学生の頃。
昔はこのお社も大きく見えて、その周りを友達とグルグル鬼ごっことかして走り回ってたっけ。
そんな大きなお社も今見ると、ちょっとした小屋くらいの大きさだ。
俺も大きくなったってことかな?
そんな風なことをボンヤリ思い出していたら、丁度三琴たちを乗せた車も神社の前に到着した。
櫻井神社と書かれた白い軽トラ車。
その後ろに三琴の家の車が続いていた。
家から神主の衣装を着てきたのか、神主姿のままで三琴のお爺さんが軽トラ車から出てくると、後ろの車からは三琴と三琴の親父さんが姿を現した。
緋色の袴に白小袖。
巫女の姿の美琴にいつかと同じようにドキリとすると、後に続いて車から降りてきた親父さんに「こんにちは」なんて気軽に声を掛けようとして、その言葉は喉元で飲み込んだ。
どうやらそんな雰囲気じゃない。
そういえばこの神社が元で家を売る売らないの大喧嘩したって言ってたな。桑原桑原。
車から降りてきた美琴の親父さんとお爺さんは、遠目でも分かるくらいに不機嫌で目も合せずにいた。
そんな二人の間に立って沈んだ顔の三琴。
なんとか元気を出させてやろうと思って大袈裟に手を振ると、親父さんに睨まれた。
神主と巫女姿の三人に続いて、同じく巫女の格好をした三琴のお母さんが家の車から降りて来ると、親父さんとお爺ちゃんが口も聞かずに、だけど息を合わせて軽トラ車の荷台から台を降ろした。
そう、台だ。神田のお祭りの御神輿みたいな台。
ただ御神輿みたいに上にお社があったりはしない。
黒く綺麗な漆で塗られた大きな台だ。
ああ、あの上にご神体を置くんだな。なんて考えていると、思った通りに親父さんとお爺ちゃんはその台を神社のお社の前へと運んだ。
その間に三琴とお母さんもワゴン車から木組みの簡素なテーブルを取り出して、その上にラジカセを置いていた。
そろそろ始まるのかな?なんて思って、俺は美琴たちの邪魔にならないように遠巻きに、それでも神社のお社が見やすい場所へと移動した。
木陰から出て真夏の日差しに当たれば、あっという間に額に汗が浮かんでくる。
そんな中、小袖や狩衣を着た美琴たちは大変だろうなぁ。なんて思っているうちに、三琴がラジカセのボタンを押して、神社でよく聞く雅楽の音色が流れ始めた。
いよいよ遷座の儀が始まった。
「かしこみかしこみ…」と親父さんが祝詞を読み上げると、お爺ちゃんが柏手を打ち礼をした後、お社の扉を開いた。
お社の中には更に小さなお社がある。
宮殿というその小さなお社は、いわば神様の家で中には御神体が納められている。
お爺ちゃんと親父さんは恭しくお社の中に足を踏み入れると、膝をついてそっとその宮殿の扉を開いた。
中の様子は暗くてよく見えなかった。
ただ、お爺ちゃんも親父さんもなるべく御神体を直接見ないように頭を下げているようで、
お社の外にいる美琴とお母さんも台の前で御神体に被せる白い布を持ったまま、俯いて足下を見ていた。
これは流石に目を逸らした方が良いのかな?
でも、ちょっとだけ。
そう、魔が差したんだ。
顔を下げる振りをして上目遣いにお社の奥を見る。
お爺ちゃんが扉を開いた宮殿の奥に手を差し込み、いよいよ御神体を宮殿から引き出した。
どんな御神体が出てくるのか。
不謹慎にもワクワクしながら御神体を待ち構えていると、全身がヌルッとした冷気に襲われた。
見るんじゃなかった。見るんじゃなかった。見るんじゃなかった。
とっさに目を逸らして顔を下げたけど、心臓は破裂しそうなぐらいバクバク波打っていた。
何だよ。何だよアレ。
必死に忘れようとしてもアレの姿は目に焼き付いて離れない。
目に飛び込んできた御神体はミイラだった。
干からびて骨と皮だけになった手足。
黒い繭のように手足を折り曲げた黒茶の身体。
喉元には刃が突き立てられて、頭からは灰色になった髪がバサッと身体に被さっていた。
そして、黒く沈んだ眼窩の奥の、あるはずのない瞳がジロリと動いて、目と目が合ったような気がした。
ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ。
慌てて目を逸らす俺。
額からは生温い脂汗が流れていた。
何事もなかったかのように雅楽を奏でるラジカセ。
三琴たち四人は、そんな俺の様子なんか気にも留めずに遷座の儀式を続けていた。
なんで??どうして三琴たちはそんなに平然としているんだよ。
ミイラだぞ。それも人のミイラだぞ。
御神体は目に入れない。
さっき宮殿からミイラを出したときもお爺ちゃんは眼を伏せていた。
御神体を見ていなかった。
だから、今の今でも御神体が何なのか知らないのか。分からないのか。
そんな馬鹿な事あるかよ。
じゃあ、三琴たちは御神体がミイラだって知っているのか。
知っているから平然と儀式を続けてられるのか。
そんな訳…ない、よな?
ギュッと眼を閉じた奥で、思考がグルグル渦を巻く。
どうしよう。どうしよう。
いっそ逃げ出そうか。
そうだ、それがいい。
後で何か言われたら、家の用事を思い出した。とでも言っておこう。
もう堪らなくなって、目を閉じたまま回れ右と踵を返したとき、何かがトンと肩を叩いた。
「…!!!」
もう声も出なかった。
止まるかと思った心臓は、一転ドドドドドと脈打って、息は切れ、脂汗が止まらなかった。
いや、違う。落ち着け。これは違う。
服の上から冷たい水が染み渡るのが分かる。
そうだ、これは雨粒だ。
そう理解するよりも雨足は早く、鼓動が鎮まるより早く、パチンコ玉のような大粒の雨が、髪を、服を、ズボンを濡らし始めていた。
早くどこかに雨宿りを。
それは最近ニュースにもなっているようなゲリラ豪雨だった。
アッと言う間に空は真っ黒な雨雲に覆われて、大粒の雨粒が灰色に視界を奪い始めていた。
突然のことに頭の中からさっきのミイラのことはすっかりなくなって、どこか屋根のある所と顔を上げたとき、雷が落ちた。
ゴロゴロでもバリバリとでもなく、パッンと乾いた轟音と同時に目の前が真っ白に輝いていた。
とっさに目を閉じた向こうから今度はドンという重い音と「お爺ちゃん!」という三琴の叫び声が聞こえてきた。
えっ!?
何が起こってるかなんて、もう一遍にアレコレ有りすぎて、理解出来るはずがなかった。
慌てて三琴の方へ目をやって、そしてアッと気が付いた。
ミイラだ。どうしよう。
そんな不安はあっと言う間に吹き飛んだ。
落雷に驚いたのか、手を滑らせたお爺ちゃんの足元には一抱えもありそうな大きな古木がゴロリと横たわっていた。
その古木には眼窩のような洞が2つあって。
幹から枝分かれした4本の枝は、膝を抱えた子供のように折れ曲がって生えていた。
なんだ。なんだ。なんだ。ただの木かよ。
そうだ、少し前に話題になった走る大根みたいなもんか。
確かにパッと見れば気味が悪いくらい人のようにも見える古木。
いや、だからこそ御神体としてお祀りしたのかも知れない。
自分でも納得できる説明を思い付けば、もう動悸も落ち着いて、ようやくびしょ濡れになった服が気持ち悪いと感じられるようになった。