第36話 鬼の正体
学校から帰ってきて、私は制服を着替えるのさえ気怠くて、そのままの格好で学習机の椅子に座り込んだ。
疲れた。今日は疲れた。
それもそのはず、昨日お祖父ちゃんに言われた言葉が、お父さんやお母さんが言った言葉が耳に残って授業どころじゃなかった。
『鬼は……泉咲や。』
昨日聞いたお祖父ちゃんの言葉が耳から離れない。
『守さんところに娘なんかおらんかったやろ。
誰かと勘違いしてんとちゃうか?』
キョトンとした顔で、さも当たり前のことを言い返したようなお父さんの表情が忘れられない。
でも……咲ちゃんが……鬼……なんて……。
ううん……そんなはずはない。
咲ちゃんが鬼なはずがない。
だって、咲ちゃんとはずっと一緒にいた。
一緒の保育園に通って、一緒に遊びに行って、海にも山にもピクニックにも一緒に行った。
神社の境内で遊んで怒られて、お泊まり会だってしたのに……。
なのに、お祖父ちゃんもお父さんもお母さんも咲ちゃんの事を知らないって……。
『三琴、お前は鬼に化かされてる。』
そう言ったお祖父ちゃんの言葉が重く胸にのし掛かる。
私は……鬼に化かされる。
咲ちゃんと手を繋いで保育園に言った記憶も、
春の遠足で二人で舞い散る桜の花びらを追いかけ回した思い出も、
一緒に頑張って金剛山に登ったことも、
お泊まり会をして布団の中で秘密のお喋りをしたことも、
今まで咲ちゃんと一緒にいた時間、記憶、思い出が全部、本当にあったことだって信じ込まされた偽物ってこと。
それが化かされたってこと。
正直信じられない、信じられるはずがない。
こんなにも沢山の思い出が、大好きな咲ちゃんとの思い出が全部偽物だなんて信じられない。堪えられない。
ましてや咲ちゃんが鬼だなんて、あり得るはずがない。
だって咲ちゃんはとっても大人しくて優しくって人を大切にする子なんだよ。
この間、私が怪我をしたときだって、すっごく心配してくれて手当をしてくれたんだよ。
今日だって学校でコッソリ咲ちゃんの様子を見に行ったけど、変なところはなかったよ。
みんなの輪の中に入って楽しそうにお喋りしてた。
そう学校のみんなだって咲ちゃんの事を悪く言う人なんていない。
そうよ、学校のみんな。
学校で誰も咲ちゃんの事を知らないなんて言う人はいない。
咲ちゃんなんていなかったって言う人はいない。
だから、咲ちゃんが鬼だなんて、きっとお祖父ちゃんの早合点だ。
そう撫で下ろしかけた胸にチクリと小さな心掛かりが突き刺さった。
『俺に妹なんていないよな!』
そうだ、あの時、翔は確かにそう言っていた。
翔は咲ちゃんはいないって言ってたんだ。
いないはずの妹がいるって。
でもその瞬間に教室に咲ちゃんが入ってきて、
それで私は、また翔が咲ちゃんに意地悪しようとしてるって思ったんだ
けど……、もしあの時、翔は本当のことを言ってたんだとしたら……。
翔が鬼に化かされる前で、それで私に相談しに来てたとしたら……。
……分からない。
何を信じたら良いのか分からない。
何を考えたら良いのか分からない。
何をしたら良いのか分からない。
考えがまとまらなくて、
幾度も幾度も同じ事を考え続けて、
力なく背もたれにのし掛かると、小学校の頃から使い続けて古くなった椅子がギシっと悲鳴を上げた。
お祖父ちゃんは今、何をしてるんだろう。
昨日、夕飯の後、それでもやっぱり咲ちゃんが鬼だなんて信じられなくて、お祖父ちゃんに「どうしよう?」って相談しに行ったら、お祖父ちゃんには「もう何もせんでえぇ」と言われてしまった。
「ここから先は儂の仕事や。三琴は何もせんといつも通りにしてたらえぇ」
そう言われてしまった。
その言うお祖父ちゃんの顔は何か思い詰めた表情で、私はもうそれ以上何も言えなくなってしまった。
でも「何もしなくていい」だなんて、そんなことできるはずがない。
だって私は知ってしまった。
この世に鬼がいるって知ってしまった。
それに私はまだ信じられない。
咲ちゃんの正体が鬼だなんて信じられない。
でも結局私は何も出来なかった。
お祖父ちゃんの言う事を信じることも、咲ちゃんの事を信じることもできなかった。
そうして迷ってどうしていいか分からない内に戸惑っている内に、お祖父ちゃんは鬼切り頼光の刀を持って出掛けてしまった。
部屋の窓から見上げた空は、沈んでしまった太陽の残光が赤く燃えていて徐々に夜の闇が混じった青紫色に染まって、雲は太陽の残光に照らされて焔のような朱色に染まっていた。
「逢魔ヶ時だ……。」
青紫の空に不気味に浮かぶ赤紫の雲。
それはこの世とあの世が混ざり合う逢魔ヶ時の空模様だった。
何か胸騒ぎがする。凄く嫌な予感がする。
ポケットの中にはあの時割れてしまった丑寅の鈴があった。
割れてしまってもまだ何か御利益があるかも知れないと学校に持って行った丑寅の鈴。
そのうち嫌な予感は増々大きくなって確信に変わり、思わず制服のポケットに入れたままの丑寅の鈴を握りしめた。
そのとき、急な立ち眩みのような、視界にノイズが入ったような、凍てつく冷風と灼熱の熱風に一度に晒されたかのような悪寒に襲われた。
目が回る。
部屋が回る。
視界が回る。
世界が回る。
椅子から転がり落ちて床に這いつくばっても目眩は治まらない。
まるで世界で一番過激な絶叫マシーンに乗せられて、グルグルグルグルグルングルンと縦に横に上に下に振り回されてるみたい。
ダメ。気分が……悪く……な……る……。
グッ、グゥヴゥェエ。
喉の奥から酸っぱい物が迫り上がって、我慢できずに胃の中の物を吐き出した。




