第35話 残された縁
咲がいない洗面台で咲の言葉を思い出して、昨日と同じように髪を整えて、歯を磨こうと歯ブラシ置き場に目をやった時、そこには赤と青と緑の3本の歯ブラシしか並んでいなかった。
赤い歯ブラシは母さんの歯ブラシ。
青い歯ブラシは親父の歯ブラシ。
緑の歯ブラシは俺の歯ブラシ。
あれ!?咲のピンクの歯ブラシは?
見間違えとか気のせいじゃない。
昨日まで一緒に並んでいた咲のピンクの歯ブラシがそこにはなかった。
なんでだ?
不思議に思って歯を磨きながらキョロキョロと咲の歯ブラシを探してみると、洗面台の脇にあるゴミ箱に目がとまった。
あ…った。
あった。咲の歯ブラシはあった、ゴミ箱の中に。
ティッシュや風呂場のゴミが突っ込まれているその中に咲のピンクの歯ブラシの柄が顔をのぞかいていた。
……嫌な……すごく嫌な予感がする。
「母さん!」
思わず叫びながら台所に行くと、母さんは流し台に向かって忙しそうに弁当を作って、親父はテレビのニュースを見ながら朝食を食べていた。
いつも通り……だ。
いつも通りにテーブルに準備されていた朝食は2人分。
いつも通りにその端に用意されている弁当箱も2つ。
何もかも咲が来る前のいつも通りがそこにあった。
「なんで……なんで咲の歯ブラシがゴミ箱に入ってんだよ!」
思わず叫び声になった俺の言葉にビックリした母さんがこっちを振り向いて首を傾げると、「ああ」と合点のいった返事を寄越した。
「ああ、あれね。
由香ちゃんにって歯ブラシ買っておいたんだけど……。
翔じゃないの?間違って使っちゃったの。
まぁうっかり袋から出しておいたのも悪いんだけど……。
誰かが間違って使っちゃったみたいで、それを由香ちゃんに使ってもらう訳にはいかないじゃない?
だから勿体ないけど捨てちゃったのよ。」
「違うだろ!ピンクの歯ブラシは咲の歯ブラシ。
咲が家に来た日。家に自分の物が何も無いからって、ダイエーで買ってきたヤツだろ!」
そうだ。歯ブラシだけじゃ無い。可愛いウサギのお箸やお茶碗、湯飲みだって、あの日咲がダイエーで買い揃えたものだ。
だけど今朝の食卓テーブルには咲のお茶碗も湯飲みのお箸も用意されてなくて、食器棚の奥の方に邪魔者のように蔵われていた。
「もう翔いい加減にして!
なによ昨日からサキ、サキって……。」
……俺は……分かってなかったんだ。
昨日一晩眠れないほどに「咲はどこに行ったんだ」なんて考えてたけど、咲が消えるってこと、みんなの記憶からいなくなるってことを、本当の意味で肌身に感じるほどには理解していなかった。
咲が、咲の存在が、頭の中から消えてしまうんだ。
咲という存在は初めからいなくて、だから咲の物もあるはずがなくて、
それで辻褄の合うように記憶が書き換えられていく。
あの歯ブラシのようにお茶碗のように湯飲みのようにお箸のように、
誰の物かも分からないようになって、蔵われて捨てられてしまう。
それでもし、咲の物が全部蔵われて、捨てられたら。
この世界に咲がいた証拠が痕跡が無くなってしまう。
もう誰も咲の事を憶えていない世界の中で、
咲がこの世界から消えてしまうんじゃないか?
血の気が引いた。
胸が苦しく痛く心臓が激しく鼓動を繰り返す。
咲がこの世界から消えてしまう。
そうだ、ある日突然どこかから現れた咲が、ある日突然どこかに消えてしまう。
何も面妖しい事は……無い。
「翔!聞いてるの!」
「母さんこそ!どうして咲の事を憶えてないんだよ!」
分かってる。
こんな事言ったって無駄だって。意味が無いって。
母さんも親父も、みんなもう咲の事を憶えていないって。
でも、だからこそ、俺は、俺だけは咲の事を忘れちゃいけない、咲はいたんだって言い続けなきゃいけない。
だって、もう咲の事を憶えているのは俺だけで、俺だけが咲とこの世界を結びつけている縁なんだ。
決意を込めた目で見据えた母さんの声は裏返っていた。震えていた。
「かけるぅ」
力なく母さんの手から滑り抜けた玉子が床に落ちてクシャッと割れる。
でも母さんはそんな事には一切気を向けないで、まるで幽霊を見たかのように目を見開いて俺の顔を見ていた。
「まぁ、母さんも翔も落ち着け。
なぁ。
朝からそんな大声を出されたら心臓に悪いだろう。」
そんな母さんと俺に向けて、今まで黙っていた親父がゴホンと咳払いしながら声を掛けてきた。
「咲さんはな、しばらく家には来ないそうだ。」
「は?」
「昨日の遅くに連絡があって、翔には直接言い辛いから。と、俺に連絡があったよ。」
「それマジかよ!」
「あ…ああ、そうだ。
直接言えなくてゴメンなさい。と。
咲さんは今、自分の家に戻っているそうだ。」
「マジか!本当なんだな。」
違和感はあった。
いや、違和感しかなかった。
今まで咲と一週間一緒に暮らしてきて、親父は一度だって咲の事を「咲さん」なんて呼んではいなかった。
それでも俺は咲の事を知っている、咲の事を覚えているという親父に向かって、本当か?どうして憶えているんだよ?と追究することは出来なかった。
「帰ったら詳しく教えてくれよ。」
止まない胸騒ぎに急かされて、俺は朝飯を食べる間も惜しくて慌てて学校へ向かった。
「あなた……咲さんって……あなたまで……」
「いや、今は翔を刺激するな。とアドバイスを貰った。
専門の医者に見て貰った方が良いそうだ。」




