第30話 咲という鬼
明くる日、もう儂の覚悟は決まってた。
あの鬼をもう一度封印する。
とうの昔に腹を括ってたはずの決意を確かめるのに一晩中かかって、遂には一睡も出来んまま朝を迎えた一日は、それでも興奮してるのか、少しも眠気を感じんままに夕方を迎えた。
まずは咲がホンマに鬼なんかどうかを確認する。
一晩中考えた手順を確認して、儂はあの鬼が化けたという咲が家におらんタイミングを見計って泉さんの家へ電話を掛けた。
「突然の電話で申し訳ない。
先日、うちの三琴が泉さんとこの咲ちゃんに世話になったって聞いて電話させて貰ったんやわ。
三琴が怪我して咲ちゃんに手当てして貰ったとか。
なんかハンカチまで汚してもうて。
大層かな?とは思ったんやけど、やっぱり一言お礼だけでも言わんと。と思ってな。
咲ちゃんは今、家に居てるんかな?」
そう切り出した儂の話に泉さんの奥さんは「そんなんよろしいのに。咲はまだ学校から帰ってへんわ。どっかに寄り道でもしてるんちゃうかな?
折角、わざわざお電話頂いたのに申し訳ありません。」と何の疑いも持たずに返事をしてきた。
「それで咲ちゃんは翔くんと同じ学校やねんてな。
儂も今まで全然知らんと、昨日三琴から聞いてビックリしたんやわ。
クラスまで一緒やねんてな?」
「そうなんよ。
学校の先生の考える事やからねぇ。
仲の良い時は良えけど、ケンカしてる時はどないしてるか、心配で。」
笑いながら喋ってる様子に本当に心配してる様子は伝わって来んかった。
「いやいやケンカするほど仲が良いなんて言うから。
翔くんと咲ちゃんは昔から仲が良かったさかい。」
「いえいえ、吾田さんにはいつもお世話ばっかりで。」
「いえいえこちらこそ。
咲ちゃんには三琴がいつも世話になって。
またお礼も言っといて下さい。」
「いえいえ、ほんまにお気遣いなく。」
そんな風に電話越しに何度かお辞儀して電話を切ると、儂は煙草の煙を吐き出した。
そうか……。やっぱり間違いはなさそうやな。
泉さんとこの家族は、みんな鬼に化かされてる。
儂は昨日あの後、一晩、色んな事を考えた。
儂も別の意味で咲という子が鬼やとは考えたくなかったんや。
三琴の言う事がホンマで、儂が思い違いをしてるんか?
何かの事情があって、咲ちゃんを隠して育ててたんか?
それとも咲ちゃんは親戚か誰かの子で里子に取ったんやろか?
色んな事を考えたけど、どの憶測も今のこの状況を上手く説明するには足らんかった。
もしかしたら直接電話をすれば何か事情が分かるかも知れんと思ったけど、期待していた答えは返って来んかった。
儂が咲ちゃんの名前を出しても何の疑問も持たんかった。
翔くんとクラスが一緒や言うても何か事情を説明する事はせんかった。翔くんと咲ちゃんが昔から仲が良かった。と言うても否定せんかった。
それどころか、昔、泉さんが片蔵に住んでた時から三琴と翔くんと咲ちゃんが一緒に遊んでたかのような口ぶりやった。
結局分かったのは泉さんとこの奥さんも鬼に化かされてるという事だけやった。
いや、そもそも確認なんか必要なかった。
五十年前の事は今でもハッキリと覚えとる。
あの地鎮祭の時に現れた女の子。
二度目の地鎮祭の時に「この地を去るか否か」と凄んだ女鬼。
例えどんなに時間が経ってもあの姿を忘れる訳がない。
せやから分かる。会えば分かる。鬼と遭えば儂が間違えるはずはない。
儂は覚悟を決めて白木拵えの鬼切り頼光を片手に蔵を出ると、駐車場に駐めてあった軽トラへと向かった。
街は逢魔ヶ時の夕闇に染まってた。
儂は駐車場に駐めた軽トラに乗り込むとエンジンを掛けヘッドライトを付けてソロリと車を動かした。
ジャリジャリと聞こえる砂利の駐車場の砂を踏むタイヤの音。
目の前の街灯の明りの点った村の道路には、何台もの車が勢いよく通り過ぎていった。
おそらくは仕事を終えて家に帰る人の車。
そんな毎日訪れる日常の一コマの中で、果たして何人の人間が『今日と同じ明日は訪れない』と知っとるやろか。何人の人が『明日も今日と同じ日が来るやなんてただの思い込みや』と知っとるんやろか。
知っとるか?あの時もそうやったんやで。
儂もあの子、あの鬼が現れるまで、『明日は今日と同じ日が訪れる』と当たり前のように思ってた。
けど、あの鬼が現れて、横山さんが儂の所にこの鬼切り頼光を持って来て、それでそんな当たり前はただの思い込みやと思い知らされたんや。
あの時、それまで風はそよいで雲は流れ透き通るような青空が広がってた空は、アッという間に黒く分厚い雨雲に閉ざされてどエラい雨が降り始めた。
ここいらは石津川の堤が破れてエラいことになったんやで。
この郵便局のあたりで溢れだした濁流は田圃の稲も人の家の軒先も全部飲み込んで遙か向こうの多治速比売神社の参道まで水浸しになったんや。
それが、もし今あんな雨が降ったらこの泉北はどうなる?
あの時みたいな大雨が降って、方々で山は崩れて川は溢れたらどうなる?
この泉北は今はあの時みたいな辺鄙な田舎やない。
十四万人の人が暮らすニュータウンや。
あの時みたいに「エラいこっちゃな……」と絶句するだけでは済まん。
どれだけ人が被害を受けて、どんな事になるんか想像もつかん。
もしそうなればこの泉北はもうお終いや。
せやから、せやから、この儂がもう一遍あの鬼を封じんとアカンねや。
汗ばむ手の平に力を込めてハンドルを握りしめた時、助手席に置いた鬼切り頼光がカタカタと音を鳴らした。
それは、交差点のアスファルトの継ぎ目の振動に揺れただけやったかも知れん。けど、儂には鬼切り頼光が怖れに震える儂の心に応えてくれたように感じたんや。
交差点を曲がり、泉北郵便局の前を通り過ぎ、消防署の前から泉北一号線の高架に乗ると途端に車のスピードは落ちた。
渋滞や。
この先の光明池まで赤いテールランプが綺麗に並び高架の道路を埋め尽くしていた。
「こら敵わんな。」
渋滞に捕まって遅々として動かん車に「こうしている内に咲という子に化けた鬼は家に帰ってまうんやないか。」そう思って、気は焦りヤキモキしたけど、車の動きに合せてカタリカタリと音を鳴らす鬼切り頼光の声を聞いている内に、次第に、まぁそうなっても仕方が無いな。と心は落ち着きを取り戻してきた。
なにしろ儂は今から鬼退治をするんや。
急いだらアカン。慌てたらアカン。
これでもし咲という子に、咲に化けた鬼に会われへんかったとしても、それは、今は機ではなかったということや。
鬼退治は明日でも明後日になっても良え。
儂は車が止るタイミングに合わせてライターを取り出して、煙草に火を付け深く煙を吸い込んだ。
儂が新檜尾台の住宅街に着いた頃には、もう日は落ちて辺りは薄暗くなっとった。
これからいよいよこの鬼切り頼光で鬼を封印するんや。
儂は生唾をゴクリと飲み込んで助手席の刀袋を手繰り寄せると、ゆっくりと車を人目の付きにくい住宅街の端にある公園の方へと寄せた。
そこはに駅へと向かう緑道の入口があった。
多分、駅から咲に化けた鬼が帰ってくるならここを通るやろ。
儂はその時に備えて刀袋から白木拵えの鬼切り頼光を取り出し、ギュッと胸元に抱いた。
早く現れてくれ。いや、鬼なんか現れんといてくれ。
正反対の感情が胸の内に渦巻いて心を掻き乱す。
そうして祈るようにギュッと閉じた瞼を開いた時や。
消し忘れたヘッドライトの灯りの中に一人の女の子が立ってたんや。
年格好の割に背の低い幼げな背格好。
腰まで伸びた艶やかな黒髪。
可愛らしい丸っこい顔に、パッチリした眼。
服装こそは違ったけど、間違いない。
あれは鬼や。
五十年前にこの泉北に、儂の前に姿を現した鬼や。
儂は鬼切り頼光を片手に軽トラから降りると、その手に持った鬼切り頼光がカタカタカタと儂の手を揺らした。
分かっとる。
あとはこの鬼切り頼光をあの子の胸に突き立てたら良いんや。
口の中がカラカラに乾く。
足にはまるで力が入らず、まるで雲の上を歩いてるようで、儂はなんとかそれを堪えて軽トラのライトが照らす光の中へ足を踏み入れると、目の前には五十年前と何も変わらない姿の女の子がおった。
「泉……咲……ちゃん。やな?」
震える声を抑えて、儂はそう聞く事が精一杯やった。
せやけどその女の子はそんな異様な雰囲気に気付きもせんと、キョトンと首を傾げると、「ああ、みこちんのお祖父ちゃん!」と軽く会釈をしたきた。
その子のちょこんと下げた顔が上がる。
そして儂とその子の目と目が合った時や。
まるで頭の中を直接触れられたみたいな悪寒が走って、天と地が入れ替わったかのような目眩に襲われた。
その瞬間、覚えてるハズのない。あるハズのない記憶が湧き起こってきた。
三琴と同い年の咲ちゃん。
翔くんの双子の妹の咲ちゃん。
同じ幼稚園で三人仲良く駆け回る記憶。
小学校の運動会で三琴と手を繋いで踊ってた記憶。
稲刈りの終わった田圃の中を走り回ってた記憶。
女の子同士、家に泊まりに来た事もあった。
「ああ……。咲……ちゃん……か。」
昔馴染みの泉さんの娘さんのことを思い出した瞬間、儂の頭の中に氷混じりの冷風が吹いたような痛みに襲われたんや。
左手に持った鬼切り頼光がガタガタと揺れる。
その度に儂の頭の中に冷風が吹き荒れて、植え付けられた偽りの記憶を剥ぎ取っていく。
咲ちゃんがおる記憶とおらへん記憶。
偽りの記憶とホンマの記憶が混ぜ込ぜになって、モノクロの映画のフィルムが早送りと巻き戻しを繰り返すみたいに点滅を繰り返す。
「やっぱりお前は人やない。鬼や!」
なんとか正気を保ってるうちにあの鬼を封印せんな、このままでは儂まで鬼に化かされる。
儂は覚悟を決めて鬼切り頼光を白木の鞘から引き抜くと、その場に鞘を投げ捨てて刀の柄に両手を添えた。
その時や、今までズッシリと重かった鬼切り頼光がまるで稲穂を持つかのように軽く、重さがなくなったんや。
いや、それだけやない。
鬼切り頼光は儂の思いや力具合と関係なく、勝手に動いてその切っ先を鬼の喉元に定めるとピッタと儂の正眼で動きを止めた。
「お、お祖父ちゃん……その刀は……」
震える怯えた声を出す咲ちゃんの言葉を、最後まで聞き遂げる余裕は、もう儂にはなかった。
「別にあんたに恨みがある訳やない。
あんたが悪い訳でもない。
けど、もうこの世の中にあんたはおってはならん存在なんや。」
理不尽や。全く理不尽や。儂もこの子も何もかんも。
せやけど、この泉北を、この平穏を守るためにはこうするしかない。
儂とあんたがこの理不尽を被るしかないんや。
「堪忍や!」
儂の叫び声とともに、鬼切り頼光は高らかにその切っ先を天に向け、大上段から鬼の額に向けてその切っ先を振り下ろした。
「嫌ぁー!!」
鬼は両腕で頭を抱えたが、そんなもんで刀の切っ先を防げるハズもない。
両腕は切り落とされ、刀は深々と額の奥までめり込んだ。そんな鬼の姿を思い浮かべたその瞬間、「おのれぃ!またも吾田の痴れ者か。」と、その声は五十年前と同じように儂の頭の中に鳴り響いた。
その瞬間、鬼が現れた。
今まで長く艶やかやった黒髪は血の色のような鮮やかな朱色に染まり、服もあの時と同じ雅やかな唐服に変わっていた。
そしてその鬼の小さな身体はまるで剣の達人のように間合いを読んで、振り下ろされる切っ先をギリギリに躱すと、刀はそんな鬼の前髪を数本断ち切っただけで額に生まれた小さな角にも僅かに届かなかった。
鬼は大きく肩を上下さて、深く呼吸を繰り返すと炎のような真っ赤な瞳で鋭く儂を睨み付ける。
「吾田の子よ、またも此方を裏切るか。二度ならず三度まで……」
……油断や。
鬼は切っ先を躱すと恨みの籠もった眼差しを儂に向けてきた。
けど、鬼切り頼光の切っ先はその勢いを全く殺さずにその身をアスファルトに叩き付けるとその反動で弾け飛ぶように下段から切り上げた。
全く予期せぬ視界の外から切り上げ。
それでも鬼は上体を逸らして切っ先から身を躱そうとする。
その切っ先が鬼のスレスレの空を切り胸元を空振りしようとした瞬間、
そのまま顎先を掠め天高く振り抜けるハズだった切っ先は、その勢いをあり得ない力で向きを変え、無防備に突き出された鬼の胸元に突き刺ささった。
「これで……終いや。」
服を裂き肌を裂き骨を砕き、そして脈打つ心臓をブツリと貫く手応えがあった。
そして鬼切り頼光は小さな鬼の身体の真ん中を貫いた。
血に濡れた切っ先が胸元から背中へと突き出る。
それでも簡単に息の絶えん鬼は血反吐を吐きながら「兄様……兄様……」とうわ言を繰り返し、終に力を尽きた鬼はその姿を人の形をした古木へと変えた。
これで……良え……。これで良かったんや。
もう何も考えん。考えられへん。
全てを終えて儂は、その鬼切り頼光が深く刺さった古木を抱きかかえてトラックの荷台に載せたんや。




