第3話 妹のいない昨日
白いカーテン。消毒液の匂い。運動場からの学生たちの掛け声。
俺は保健室のベッドの中にいた。
制服を着たまま糊の効いたシーツの中に入っても、とてもじゃないけど落ち着かない。
けど、かといって家で寝る時のように制服を脱いで下着になるわけにもいかない。
何度も寝返りを打っている内に「大人しくしていなさい。」とカーテンの向こうから強く優しい保健の先生の声が聞こえた。
あの後、教室で胃の中の物を豪快に吐き出した俺は、里中の肩を借りて保健室へと転がり込んだんだ。
保健の先生は「熱中症かしら。」と手際良くおでこや首もとに手を当てたり、体温計で体温を測ったりしてくれた。
結果は異常なし。
当たり前だ。
それでも「大事を取って。」と先生は水枕を用意してくれて、「一限目は休みなさい。」と、ベッドを用意してくれた。
気分はずいぶん落ち着いた。
一限目の始まりを告げるチャイムが鳴り、もう目の前にあの咲はいない。
それだけで胃のむかつきも額の脂汗も消えてなくなっていた。
それにしても信じられない。
あの咲の事だ。
確かに間違いなく、俺に妹なんていない。
なのに誰も咲がいることを不思議に思わない。信じて疑わない。
昨日、朝起きたときにはあんなヤツはいなかった。
階段を下りて、歯を磨いて、親父と黙ったままテレビを見ながら朝ご飯を食べた。
間違いない。俺と親父と母さんと三人だった。
学校へ登校したのはいつものメンバー。
今朝と同じ顔ぶれだ。
確か、PSVRを買うかどうか。そんな話をしてたよな。
その時にもアイツはいなかった。
授業の時は分からないけど、席は…、一番後ろの席は、今朝と同じ三つだった。
それから…そう、三琴のヤツを誘ってカラオケに行こうとしてたんだっけ。
「ごめん。吾田さんいる?」
そう声をかけて入ったのは一つ隣の教室だった。
俺のクラスのホームルームが長引いて、隣のクラスの生徒はもうまばらにしか残ってなかったけど、その中に吾田三琴はいた。
「ああ、翔。何の用?」
「翔って言うなって。」
慌てて周りを見ても誰もこっちを見てなかった。
「何、そんなに慌ててるのよ。
かーくんって言わないだけマシでしょ?」
「当たり前だ!」
ついつい怒鳴って周りを見ても、幸い誰も聞いてなかったようだった。
いや、いつものことだから、もう誰も慣れっこになってるのかもしれない。
「で、吾田。
これから里中たちとカラオケ行くんだけど、一緒に行かない?」
「えっカラオケ!?行く!!
って、駄目だ。
今日は家の用事なの。ごめんまた今度誘って。」
向日葵みたいな三琴の笑顔がパッと花咲いて、そしてしぼんだ。
それって反則だ。
三琴とは小さい頃から付き合いで、アイツの笑顔なんて見飽きるくらい見てるけど、そんな風にされると見飽きた笑顔が儚くて、なんとか笑顔に戻したくなる。
「じゃあ里中には今度にしようって言っとくよ。
それより家の用事って神社のお祀り?」
「まぁね。そうよ。」
「じゃあさ、見に行っても良い?」
「えっ」と三琴の俯いていた顔がこっちを向いた。
「ほら、身近な日本の伝統文化?ってやつ?
やっぱり、大事にしなきゃいけないと思うんだよ、おれは。」
「何よそれ~。」と笑顔が戻った三琴のヤツ、俺の肩を思いっ切り叩きやがった。
俺と三琴は幼馴染みだ。
俺が光明池に引っ越しするまでは家も近所で、よく一緒に遊んでいた。
そんな三琴が巫女さんになったのは六年前の事。
元々、三琴の家はこの土地に古くから有る神社の神主の家系で、小さいときから神社のお祀り事なんかのお手伝いはしていた。
それが十二才のときに巫女装束を着せられて本格的にお祀り事をするようになったんだ。
真っ白い小袖に真っ赤な掛け襟、緋袴。
いつも見ていた三琴の姿が、いつもと全然違ってて、ドキリとしたのは一生の不覚だ。
それからちょっとして、俺は光明池に引っ越して三琴と会うこともなくなったから、高校で「かーくん。」と呼ばれた時はビックリした。
本当にビックリした。色んな意味で。
「もう里中にはLINEしといたから。」
靴を履き替えるのに一旦別れた俺たちは校門の前で落ち合った。
ホームルームが終わってから少しした後の学校からは、校庭をランニングするサッカー部の掛け声や、間延びしたブラスバンドの演奏が聞こえ来て、通学路には俺たちと同じくバスに乗り遅れて、駅まで歩く学生がバラバラと数人いるだけだった。
「別に気を遣わなくたって良かったのに。」
「どうせならみんな一緒の方がいいじゃん。」
言った言葉は半分は本当、半分は嘘だ。
確かにカラオケ行くならみんな一緒の方が良い。
でもそれ以上に、俺は三琴の言うお祀りを見たかったんだ。
『巫女の動きの一つ一つにはね、神様へのありがとう。とか、お願いします。とか、一つ一つ意味があるんだよ。』
巫女になったばかりの三琴が楽しそうに俺に教えてくれたこと。
その言葉を聞いて俺は、神社やお寺へ行くのも好きになった。
いや神事や行事を見るのが好きになったんだ。
「でさ、今日のお祀りってどういうお祀りなの。」
当然お祀りには一つ一つ意味がある。そして神主や巫女の動作仕草には当然そのお祀りの意味に沿った意味がある。
そうしたことを意識したとき、初めて神主や巫女の動作の本当の美しさが見える。と俺は思うんだ。
「それがねぇ~。」
別に俺はそんなに答えられない事を聞いたつもりはなかった。
ところが、三琴は俺の言葉に溜め息混じりに返事した。
「あの和田川沿いに小さな神社があるの知ってる?
赤坂公園の近くなんだけど。」
「知ってる、知ってる。家の近くだ。」
そう、そこは俺の家の近く。
いつもどうしてこんなところに神社があるのかなんて不思議に思っていたけど、そうか美琴の家に縁のある神社だったんだ。
「そこがね。
廃社になることになったのよ。」
「廃社?
えっ潰しちゃうの?」
「そう、元々あそこは市の土地で、無断で神社を建ててたんだって。
それで神社を潰すか土地を買いとるかで揉めちゃって。」
「えっ!?
なんで三琴の家が揉めてるの?」
多分その揉め事が美琴の溜め息の原因なんだろう。
元々俺は今日のお祀りについて聞いたのに、知らない内に話がすり替わって、思わず三琴の悩み相談になってきた。
「それがね。
その和田川の神社。
昔にお祖父ちゃんが建てたんだって。
その時に土地の話とか、役所の人と簡単な約束書きと口約束を交わしたって言ってるんだけど、その神社を建てたのも昔の話で今みたいにキッチリと書類とか作ってなかったみたい。
お祖父ちゃんは約束があるからって、弁護士とかと相談してたんだけど、やっぱり書類がないのが厳しいみたいで。
それで、その土地を市に返すか買い取るかって事になっちゃって。」
「ああ、それは難儀だね。」と言って、どんだけ上っ面な返事だよ。とは思った。
でも仕方がない。正直、さっぱり実感が湧かない。
三琴の家が大変なことになってるのは分かるけど、市役所とか書類とか、まして弁護士とか、そんな話はテレビドラマの話だと思っていた。
怒らせちゃったかな?
なんて三琴の顔を見ると、やっぱり美琴は口を尖らせて、「そうじゃないのよ。」と言葉を続けた。
あれ?そうじゃないの?
「揉めたのはその後の話。
それで『神社の土地を返すか買い取るかして下さい』って言われて、それでお祖父ちゃんが『買い取る』って言っちゃったのよ。」
半分、もう他人事のように話をする三琴。
流石にこれは俺にも大変さが分かる。
和田川の神社は、俺の家の近くにあって、その広さは普通の家くらいのある。
そんな気軽に買ったりできるはずがない。
「そうなのよ。
市の人も事情が事情だからっていくらかは安くしてくれたらしいんだけど、それでもスッゴイ高くて。
そしたらお祖父ちゃん、『家を売る』とか言い始めてね。
お父さんはお祖父ちゃんに取っ組み掛かるし、お母さんは泣き出すし。大変。大変。」
ここまで話しした三琴の口調ははもう完全に他人事だった。
余程、思い出したくないんだろうな。
でも、それはそうだ。いくら神社を守るためだと言っても家を売るなんて信じられない。
もし俺の親父が『仕事のために家を売る』なんて言い出したらデタラメだ。
「それで、どうするの?
引っ越しするの?」
さっきテレビドラマみたいに思っていた話が、急にリアルになってきた。
「いやいや。まさか。まさか。
お父さんとお母さんが夜通しでお祖父ちゃんを説得して、結局、土地を市に返して、神社を廃社する事になったのよ。」
もう済んだ話だと美琴は顔の前でパタパタと手を振ると苦笑いを浮かべた。
そうだ、そういえば三琴は昔からお祖父ちゃんっ子でよくお祖父ちゃんに甘えてたっけ。
そんなお祖父ちゃんとお父さんが取っ組み合いをケンカをしたって言うなら、それも大変だ。
あんまりにも深刻な家庭事情を聞かされて、もう何と言っていいか分からない俺に、美琴は「そんな訳で、」と話を続けた。
「今日は、和田川の神社を廃社にするのに、そこの神様と御神体を遷座して、ウチの神社でお祀りする事になったの。
神様のお引越ね。」
最後の最後に今日のお祀りの内容について教えてくれた三琴は、なるほど、俺の質問を忘れていた訳ではなかった。
結構重い話に気を取られて、気が付けばもう駅は目の前だった。
人の多い電車の中では家の話なんか出来るはずもなく、昨日見たクイズ番組の話なんかをしているうちに電車は泉ヶ丘駅に着いた。
「お祀りは和田川の神社でするから、翔もいったん家に帰って着替えてきたら?
私もすぐにそっちに行く訳じゃないから。」
詳しくはLINEで打ち合わせることにして三琴は泉ヶ丘で電車を降りた。
空には季節遅れの入道雲が浮かんでいた。
そんな何の異変もない、いつもの昨日の事だった。