第25話 目覚め
「……授け給え。」
まだ浅い眠りの中にいた俺の耳にそんな自分の寝惚けた声が入ってきた。
なんだろう。
薄く開けた瞼の隙間から朝の柔らかな光が差し込んで、意識はゆっくりと動き出す。
白い部屋の天井。クーラーの風に靡く緑のカーテン。昨日脱いで椅子に掛けっぱなしにしていたズボン。
部屋中をグルっと見渡して、目に映る物の全てがぼんやりと滲んで見える事に気がついた。
なんだこれ?
目尻から流れる一筋の涙。
「ん?」と何度か瞬きして、初めて自分が泣いてることに気が付いた。
目尻の涙を指の背で拭ってみても、涙はハラハラと湧き出し続けて頬を濡らし続ける。
あの夢のせい……なのか?
俺はベッドの上で大の字に仰向けになって、涙に滲む天井を眺めながら今見た夢を一つ一つ思い出していった。
それはさっきまで見ていた夢。
遠い遠い古い時代に俺と咲が山の中で暮らしていた夢だ。
その山頂からは眺める大阪平野は、ただ遠く遠くまで森や林、田圃や畑の広がる緑の平野で、そこには団地やマンション、ビルなんか一つもなかった。
そんな大昔の山の中で、俺と咲はひっそりと鹿や猪、川魚なんかを獲って暮らしていたんだ。
そんな時、突然響き渡った銅鐸の音。
その音を聞いた俺と咲は慌てて顔を見合わせて、俺はその音の元を探りに山を下りたんだ。
そこで俺は泉という女の人と出会った。
その女性は綺麗で知性的で、出逢った瞬間から胸がドキドキして、交わす言葉も微笑む笑顔も時々見せる虚を突かれた時の可愛らしい驚きの顔も、全てに愛らしさを感じて、俺はどんどんその泉の事が好きになっていって、
そして……泉と添い遂げる為に、咲に別れを告げたんだ。
それまで、ずっとずっと長い間を一緒に暮らしてきた咲に別れを告げるのが、咲を悲しませるのが辛くて苦しくて、
でもそれでも泉への想いを止めることは出来なくて、
終には涙を流して言葉を紡いだ俺を、咲は優しく微笑んで、両手で俺の首元を包み込むと、そっと俺を胸元に抱き寄せてくれた。
柔らかな咲の肌と甘い香り。
その中で俺は咲に別れと祈りを告げたんだ。
それにしても不思議な夢だと思う。
夢なんて目が覚めればいつも水に落としたインクみたいに瞬く間に薄まってその輪郭も色合いも消えていってしまうのに、今朝見た夢は本当にあった事みたいに今でも鮮明に頭にこびり付いて離れなかった。
咲と山の中で暮らしていた時の事も、
銅鐸の音を聞いて泉と出逢った時の事も、
泉と咲とどちらと一緒に暮らすべきか思い悩んだ時の事も、
そして、涙を流しながら咲に別れを告げた時の事も、
何もかもが今も鮮明に頭にこびり付いて離れない。
俺はついさっきまで見ていた夢を思い出して、今度は腕で涙を拭って、一つ深呼吸して、そうしてようやく涙は収まった。
けど、胸にはポッカリと穴が空いたまま、夢の続きの悲しみは胸に残ったままだった。
でも、悪い夢じゃない……よな?
涙を流す俺をその胸元に抱いて、咲は泉と暮らすと決めた俺を祝福してくれた。
それはただただ悲しいだけの夢じゃなかった。
悲しくて、優しくて、お互いに思いやりに溢れている、そんな夢だ。
あの後、夢の中の俺は、咲はどうなったんだろう?幸せになったんだろうか?
寝ている内の自分の頭で考え出した夢なのに、その続きが気になって、幸せになってくれれば良いな。と左手を握りしめた。
その手は昨日ハルカスで、咲と手を繋いだ手。
あの時の咲の小さくて柔らかくて温かな手の感触を思い出して、俺はもう一度目尻を手の甲で拭うと、ベッドから身体を起こした。
部屋の時計を見れば針は六時半を指している。
いつもより少し早い時間だけど、あの夢を見た後には流石に二度寝する気も起きない。
そんな訳で俺は布団から出ると、椅子に掛けたままの制服を着て、今日の時間割を確認して鞄に教科書とノートを放り込んでいく。
まぁ、こんなもんか。
一通りの支度を終えてから部屋を出て、いつものように一階に降りると洗面所からはドライヤーの音が聞こえてきた。
「あ、お兄ちゃん。おはよう。ちょっと待ってね。すぐ終わるから。」
咲の言葉と一緒に漂ってくるのは咲の髪の甘い香り。
いつもとは違う早起きの時間に朝のリズムは違っていて、いつもなら一階に降りるとそのまま使える洗面所が、今は咲が占領していた。
仕方なく台所のテーブルに座ってテレビを見ていると、「珍しいわね。こんな時間に。」と母さんが話しかけてくる。
「うん…ちょっと変な夢を見てさ。目が覚めた。」
「へぇ、どんな夢?」
「な、なんでも。」
そんな母さんの相づちに俺は慌てて話を打ち消す。
あんな夢の内容なんて話しできるはずがない。
こんな話の流れも予想できないなんて。俺はまだ寝惚けてるのか。
そんな事には気も止めず、母さんはキッチンに向かってお弁当の支度をしている。
まぁ、深く追求されずに何よりだ。
母さんとの短い会話を終えて、朝のニュースを眺めて。
それでも洗面所からはドライヤーの音が止まらず聞こえてくる。
「いつまで髪の毛乾かしてんだよ。」
そろそろトイレにも行きたいんだよ、俺は。
「咲ちゃん髪の毛長いからねぇ。
別に気にすることないじゃない。兄妹なんだし。」
ボソっと呟いた言葉に心の中まで読み解いて母さんが言ってくる。
母親……恐るべし。
とはいえ、流石にそろそろ俺も我慢の限界だ。
まぁ、仕方がない。家族なんだし問題はないよな。
俺は台所のガラス戸を開けて洗面所に向かうと、丁度、ドライヤーの音が止んで、咲が洗面所から出てきた。
「時間掛けすぎ。」
そう俺が不機嫌に言うと、「おお、スマンスマン」と奥のトイレから親父が出てきて洗面台で手を洗う。
えっ!
親父、目の前に咲がいるのにトイレに入ってるとか無神経だろ!
って、い、いや、おかしくはないのか。
咄嗟に咲や親父から顔を隠して、入れ替わりにトイレに入る。
そうだ。おかしくはないんだよ。
だって、母さんや親父は咲を自分の娘だと、ずっと一緒に暮らしている家族だと思ってるんだから。
だからたぶん端から見ればおかしいのは俺の方なんだ。
普通の兄妹ならこんなこと意識したりしないんだろう。
そういや竹田にも妹がいて、前に「着替えとか別に気にしたことがない。」とか、そんな話しをしたことがあったよな。
生まれた時から一緒にいる兄妹ならそんなもんなんだろう。
けどなぁ、咲は俺の妹じゃないんだよ。
なんど説明しても誰にも理解されなかった悩みに頭を掻いて、そうだ、お風呂の時間とかも気を付けないとな。と心の底に書き留めた。
用を終えて洗面台で手を洗い、顔を洗い、歯を磨き、寝癖のついた髪の毛を濡れた手でチョイチョイと整える。
大爆発を起こしていた髪の毛が少し跳ねるくらいになって、「こんなもんか」と口に出した時に「そういや咲がいたんだよな。」と思い出した。
「ねぇ、お兄ちゃん……。もう少し身嗜み……気を付けて欲しいな。」
遠慮がちに咲がそう言ったとき、正直「何言ってんだ?」なんて思ったけど、咲は毎朝あれだけの時間を掛けて髪を整えていたんだ。
そんな咲に比べたら、俺なんて寝起きままで何もしていない。
そりゃ、気になるよな。
まだまだ跳ね上がっている髪を掴み上げて、俺は蛇口から水を掬い上げて髪を濡らした後、ブラシとドライヤーで髪を整える。
いつもより丁寧に身嗜みを整えて、
そうして台所に行くと、食卓にはいつもより豪華な朝食が並んでいた。
「今日はね、お母さんと一緒にお弁当を作ったんだよ。
自信作なんだから。」
頭には三角巾、制服の上からエプロンを付けた咲が腕まくりをして小さな力こぶをつくると、母さんも「そうよ。今日は咲ちゃんが手伝ってくれて本当に助かっちゃった。
夕食もお願いしようかしら。」と微笑みかけた。
「もちろん任せてよ。」
ってそれ、このおかず、お弁当のおかずって事かよ。
首を伸ばして覗き見れば、やっぱり食卓に並んだおかずと同じ物がお弁当箱に入っていた。
おいおい、勘弁してくれよ。
食卓に並んだおかずは昨日の残り物とお弁当用に作った物。
全部が全部お弁当と同じじゃないだけまだマシか。
そんな考えが見透かされたのか「お弁当を作るのも大変なんだからワガママ言っちゃ駄目なんだよ。」と咲が俺を叱りつけた。
「そうそう、この大変さ。翔もやってみなさい。」
台所で咲と母さんが悪い顔で微笑み合っていた。
そうだ。やっぱり咲は笑っている方がいい。
今朝見た夢の中の悲しそうな表情を浮かべる咲を思い出して、俺はエプロンを着けたままテーブルに座った咲の頭を撫でてやった。
「何?お兄ちゃん。」
「何でもねぇよ。」
そんな十日前には無かった当たり前の朝の時間を過ごして、俺と咲は親父に続いて「行ってきます。」と家を出た。




