第23話 不思議な夢
俺は夢を見ていた。
岩湧く山の頂に立って、眼下に広がるのは木々に覆われた和泉山地の緑の峰々。そしてそれに続いて青く田畑の広がる大阪の平野だった。
そんな緑の海の中に集落はまるで群島のようにポツリポツリと点在して、それらを結ぶ街道はまるで島を結ぶ綱のようだった。
「随分と大きくなったものだ。」
遠い昔を思い出して思わず俺の口からそう言葉が漏れた。
そう、かつてはこの平野に田畑などなく広がっていたのは柴茅の生い茂った荒れ地ばかり。
とても人の住める場所ではなく、人々は僅かに開けた広地に肩を寄り添うようにひっそりと暮らしていた。
そして毎日山へ入り猪鹿を狩り川魚を捕らえ木の実を取って暮らしていたのだ。
ああ、なんて懐かしい。
俺は昔を思い出して空手で弓を引く真似をした。
左手に弓、右手には矢。
胸元から両腕を開くように弦を引き、狙うは牝鹿の喉元。
右指を放ち、「シュ」と矢が空を切り裂く音を口真似すれば、脳裏に牝鹿が倒れる姿が浮かぶ。
これで里の者も三日は餓えずに済む。
そうして仕留めた牝鹿を肩に担げば、里からは栗魚が煮上がったと知らせる鐸の音が山々に響いた。
カンカンカンカンと。
そう、これこそどれだけ月日が流れても忘れる事のない鐸の音。
耳に残る懐かしき鐸の音色。
いや違う!
物思いに更けていた意識が一気に現実に引き戻される。
鳴った。
今、確かに、現実に、あの鐸が鳴った!
「兄様!今の音!」
やっぱり聞き間違いや幻聴なんかじゃない。
山の中で木の実などを取っていた咲も今の鐸の音を聞いて血相を変えて駆けつけば、俺は「様子を見てくる。」と告げて慌てて山を駆け下った。
向かう先は遠い昔に咲と暮らした集落。
長い長い年月は山の姿も川筋さえもすっかり変えてしまったけれど、その場所だけは忘れるはずもなかった。
岩湧く山の頂から人目を避けて藪を漕いで山を下り、天野と呼ばれる山を経て、今は陶器と呼ばれる丘へ辿り着いた。
そこから先ははるか昔、俺たちが暮らした土地だ。
あの頃、俺は里の男たちと弓矢を持って鹿や猪を狩って、咲は里の女たちとともに山へ入り栗や茸を集めて暮らしていた。
そうして日が傾き夜が近づく頃、里の者たちは山に入った者たちに時を知らせるためあの鐸を打ち鳴らしていたのもだった。
あの鐸の音と共にこの地を失ってからどれほどの時が過ぎたのだろう。
思い出に残る山々はすっかりと姿を変えていた。
鬱蒼としていた原林は人の手の行き届いた里山となり、切り拓かれた田畑となり、何もなかった谷筋には家々が立ち並びいくつもの集落が点在していた。
「これほどまでに大きくなったのか。」
この地を去ったときには、まだ家は粗末なものが数えるほどしかなかった。
あれから長い長い間、人が増える様子を、里が広がる様子を遠く山の上から見守っていたけど、実際に足を踏み入れればその実感はいよいよ体感を伴って思わず目頭が熱くなっていた。
かつて鹿を追い猪を狩っていた原林は切り拓かれて田圃になっていた。
ようやく人一人が通れるような山道はしっかりとした街道へと整備されて、掘っ建て小屋同然だった家は茅葺きの立派な家屋に変わっていた。
しかし生い茂る木々も川の流れさえも変わってしまったこの森だけど、木々の合間から見える金剛葛城の山の姿はそのままだった。
足は自然に山の斜面を駆け下って。
木々を潜り抜け、幾つかの沢を渡り、僅かな記憶頼りに、すっかり変わってしまった木々の様子に何度か方向を見失って、藪を掻き分け落ち葉に覆われた道なき道を進んでいくと、やっと目的の場所に着いた。
そこに昔、俺たちが暮らした場所があった。
いや、なかった。と言うべきかも知れない。
かつて邑のみんなで木々を切り倒して作った家々はとうに朽ち果て土に還り、その上に芽吹いた木が太く青々と生い茂り、そんな風に広場を中心に数戸の家が並んだその場所は、今や鬱蒼と木々が生い茂る原林となって、当時を語るものなど何一つ残されてはいなかったからだ。
「それもそうか。」
俺がこの地を立ち去ってもう長い時間が経っているんだ。
その間にあの掘っ建て小屋なんかはとうに朽ち果ててもおかしくないし、他に後に残るような立派な建物など何もなかった。
ただかつての面影をこの原林に重ね合わせれば、ただ村の真ん中にあった大岩だけが、雨風に曝され苔にまみれた姿で耐え残っているだけだった。
しかし、それでもこの地この場所に間違いはなかった。
遙かな昔、俺を咲と人々が共に暮らしていた邑は。
そして、あの鐸が鳴るのは場所は。
「鐸は確かあの岩の下に……」
最後に鐸を見たのはこの村を出る直前のこと。
遙かな時間の彼方にボンヤリと霞が掛かる記憶を紐解いて、それでもやはりあの鐸はあの岩の下に封じたはずだと思い出す。
その鐸がどうして今頃になって鳴ったのか。
まさか誰かが掘り起こしたのか。
俺は生い茂る原林の茂みから足を踏み出すと、その時また鐸がカーンと音を鳴らした。
「あら、鬼の鐘を鳴らして、本当に人が出てくるなんて。
貴方は本当に人なの?それとも人に化けた鬼なのかしら?」
鐸の音と共に大岩の陰から姿を現したのは、銅鐸を手に持った女性の姿だった。
「いや、其方の言葉の意味が分からぬ。
鬼などとは……。」
その女性は俺のことを鬼とか言いながらも怯える様子もなく、頬に笑みを浮かべて俺の言葉を聞いていた。。
「でも貴方、この村の者ではないでしょ?
見たことのない……近くの村の人でもなさそう。」
「ああ、俺は天野山の近くの村に住んでおる者だ。
お恥ずかしい話。
俺は弓矢がからっきしダメで、猪を見つけて射かけたは良いが急所を外してしまってな。
止めを刺そう山深くに入ったはいいが、不覚にも山に迷ってしまって……」
こんな言い訳が通用するとは思わないけど、バカ正直に正体を語るよりマシだ。
俺はとっさに嘘を付いてその場をやり過ごそうとしたけど、その女性はそんな嘘などお見通しと言うように更にカーンと銅鐸を鳴らして言葉を続けた。
「天野山から。
随分と遠くから道にお迷いなられたのですね。
ああ、そういえば天野山には鬼の棲む村があるそうですが、ご存知ない?」
「貴方はどうしても私を鬼にしたいようだ。」
「冗談ですわ。
お気に障りましたら、ご免なさい。」
全くつかみ所のない女性だ。
こんな女性がなぜあの銅鐸を持っているのか。
なんと言ったらいいか。なんと聞いたらいいか。見当が付かずに、ただその銅鐸をしげしげと見つめていると女性は一言、「お忘れなさいな。」と告げてきた。
「忘れる?何を?どうして?」
「やっぱりあなたはこの近くの者ではないようですね。ご存知ない。
この場所は昔、鬼が棲んでいて、無闇に立ち入ると鬼に取り憑かれるとかなんとか。
それで近くの村の者はこの近くには立ち寄りませんのよ。」
「それでは貴方は何故ここにいるのだ。」
決して鳴らないはずの銅鐸がなって、銅鐸は鬼の鐘で、この地は鬼が棲んでいたという。
鬼なんて言葉がどこから出てきたのかも分からない。
けど、鬼が棲むと言われる場所で、鬼の鐘と言われる鐸を掴み上げて微笑んでいる女性こそが鬼のように思えた。
奔放で気ままで、何物にも縛られない女鬼。
そんなことを考えているのが伝わったのか、女性は「私は鬼じゃありませんよ。変わり者ですけど。」とコロコロと笑い声をあげた。
「だって、鬼なんていないんですもの。
凶事や災害、事故に怪我。
なんでもかんでも都合の悪いことは全部鬼のせいにして、ただただ身内ばかりが納得しているだけですわ。
私の祖母は横山の向こう九鬼の村から嫁いで来たそうで、村でなにかある度に鬼の村から嫁を取るからだ。と後ろ指指されたそうですわ。
でも九鬼にも父鬼にも鬼なんていませんの。」
「それで貴方も鬼など信じぬと。」
「ええ。」
「ではその鐸。それは?」
「ああ、この鐘ですか?変わった鐘でしょ?
先日、ちょっとした事情でこの地へ足を踏み入れて、その時に見つけましたの。
村の者は皆、これは鬼の鐘だ。と、早く捨てろ。壊してしまえ。と、口を揃えて言いましたけど、ほらご覧下さい、この表面の絵。
籠を持ってる人の絵。弓矢を持ってる人の絵に見えません?
ほら山菜狩りをする人と猪狩りをする人じゃないかしら。
そんな風に考えますと、私たちは先祖代々この地で暮らしてますでしょ?
この絵は遠い祖先の姿。ご先祖様が作った鐘だと思いますと、ただただ壊すのは忍びなくて。
それでこうして元にあった場所に戻しておこうと思いまして。
……それより、貴方、この鐘のことをご存じ?」
妖美とはこんな事を言うんだろう。
首を傾げて親しげに笑みを浮かべる女性の眼は、その表情とは裏腹に全く笑いを浮かべてなかった。
「い、いや。
この地が禁足地であったことも知らぬのだ。
その鐸の事など知っているはずがない。」
正体がバレる。
俺は慌てて否定すると、「そう」と冷たい瞳を俺に向けたまま手に持った銅鐸を俺の方へと突き出した。
「なら不思議。
どうして貴方はこの鐘を鐸などと仰ったのでしょうね。
私、鐸などという言葉は初めて聞きましたわ。」
差し出された鐸は、丁度バケツをひっくり返したみたいな、小さなお寺の鐘のようだった。
その鐘の天辺には虹のようなアーチが掛かっていてそれが鐘の両側に下辺まで続いている。
それはあの歴史の教科書にも載っている銅鐸に間違いなかった。
「いや、それは……
実は私の村にも同じ物が伝わっていて、ただ秘物ゆえ、あまり人に語ってはならぬと言われておるのだ。」
「分かりましたわ。
そう言うことにしておきましょ。」
全く納得していない表情を浮かべてその女性は話を終うと、「私、泉と申します。貴方の名は?」と尋ねてきた。
「……桜」
名前のことなんか考えてなかった。
正体を知られたくなかったし、どう誤魔化そうかと名前の一部を伏せて言うと「女性みたいなお名前ですわね。」と優しい眼差しを向けて、どうやら名前を誤魔化したこともお見通しのようだった。
「それでは桜様。
この鐸をしまうのを手伝って下さいません?
私が持っていてはいずれ村の人に見付かって壊されそうですから。」
俺はその泉の言葉に頷いた。
そうだあの鐸はもうこの世にあってはいけないもの。
今後こそ簡単には表に出ないようしないと。
そうして俺と泉は、泉の持ってきた鍬で穴を掘り、その中へ木箱に納めた銅鐸を埋めた。
「これでよろしいかしら。」
掘り返した土を木箱に被せて、すっかり元の通りに埋め戻した所を鍬でパシパシと叩き固めて泉は額の汗を拭った。
いや、これでは不十分だ。
ただ土を被せただけなら犬や猪が掘り返すかもしれない。
「泉殿。
少しの間、目を閉じて頂けないか?」
怪訝な表情の泉の肩を掴んで無理矢理に後ろを向かせると、俺は適当に「オンムタラバサランソワカ。オンナカタバカランソワカ」と呪詛を唱えて、苔むした大岩に手を押し当てると力を込めて、大岩をズリズリと埋めた銅鐸の上へと動かした。
これで誰も掘り返すなんてできるはずがない。
「これで十全だろう。」
俺の声を合図に振り返った泉が目を見開いて驚いていた。
そりゃそうだ。
到底人の力で動かせようのない大岩をズリ動かしたんだから。
「貴方……。本当に……。」
「いや、これがこの鐸の力。
それ故に秘物であり、みだらに人目に付けてはならぬ訳なのです。」
そこにはあの今まで英明だった泉の姿はなかった。
思いもよらない出来事に思考力は奪われて、俺の言うデタラメに疑うことなく頷いた泉の姿はどこか咲に似ていた。
その日から俺は度々里に下りて泉と会うようになった。
泉はとても頭の切れる人間で、薄々俺が人ではないことに勘付いて探りを入れるような事を言って来て俺をドキマギさせたけど、別に本気で聞いてる訳ではなかった。
ただそう言って俺をからかっているだけだった。
でもそういう時に見せる笑顔に俺は徐々に引き寄せられていた。
そうしていつの間にか泉は俺の中でとても大切な人間になっていった。
泉と会うまでは、俺は一度も里に下りるようなことはなかったのに、泉と出会ってからは我慢が出来ずに、鹿が捕れたから猪が捕れたからと理由を付けては泉に会いに行くようになって、いつの間にか毎日里へ下りるようになっていた。
そして、俺は遂に心を決めた。
これから後は泉と添い遂げると。
それは、咲と別れるという事でもあった。
咲が泣いていた。
岩湧く山の頂で瀬戸の海に沈む太陽の黄金色の光の中で涙を流していた。
「兄様は、卑怯じゃ。」
泣き声を噛み潰した声でそう俺を罵る咲に返す言葉はなかった。
そう、俺は卑怯だ。
決して咲が断れない言葉を選んで、俺は咲に別れを告げたんだ。
「すまぬな。」
もうそれ以上の言葉は浮かんでは来なかった。
どんな風に言っても咲を説得できるなんて思ってもいなかったし、だからと言ってこの想いを曲げる事は出来るはずもなかった。
それくらいに俺は泉という女を愛していたのだ。




