第21話 逢魔ヶ時
結局、父鬼には鬼はいなかった。
光明池から長い時間バスに揺られて父鬼まで行って、父鬼の集落を歩き回ってみても、丑虎の鈴はカラともコロとも鳴らなかった。
それから光明池へ帰るバスが国分峠のトンネルを抜けた頃には、夕日は西に傾いて、道沿いの田んぼを工場を家を黄金色に照らし出していた。
「意外と遅くなっちゃった。」
誰も乗っていないバスの一番後ろにポツンと座った三琴は、山陰に見え隠れする夕日を眺めながら、そう呟いた。
でも、今日は無駄な一日じゃなかった。
そう、今日の朝、家を出るときには『鬼なんていない』。そう考えていた。
ただ、お祖父ちゃんに合せて、お祖父ちゃんが和田川のお社のことを諦めるために、諦めさせるために、私は鬼を捜し始めたんだ。
それが本気で鬼を捜すようになるなんて。
でも、あの泉ケ丘駅で鬼と出遭ったことを思い出すと、もう昔話だとかオカルトだとか言ってられない。
『鬼は本当にいる』
お伽話や昔話でもない、この現代に現実に鬼がいるんだ。
その真実を知って、もう鬼を捜すのを止めるなんて出来るはずがない。
私も、鬼に取り憑かれた。
ふとそんな言葉が思い浮かんだ。
お祖父ちゃんの話に出て来た、鬼切頼光の刀を持って「鬼が居るか居らんかハッキリさせたい。」と言った、横山さん。
その横山さんと一緒に鬼を退治したお祖父ちゃん。
そのお祖父ちゃんは、勝手に和田川の畔にお社を建てて鬼を封印して、それから五十年後、そのお社を取り壊すなんて話が出たときには、「家を売ってでもお社を守る」と言い切った。
きっと何も知らない人から見れば『何かに取り憑かれた』かのように見えるに違いない。
そう、鬼に取り憑かれたんだ。
そして私も。
もう私も鬼がいることを無視できない。
これからは鬼の影に脅えて、その恐怖を消し去るために鬼を捜す毎日が始まるんだ。
そして、見つけて封印する。
元の平和な生活に戻る為には、それしかないんだ。
バスが光明池駅に帰ってきた時には、もう街は夕闇に包まれて街灯にはオレンジの灯りが点り始めていた。
マンションの合間から見える空は、昼と夜の狭間の薄紫色で、地平線の彼方に沈んだ太陽の残光を受けて雲は茜色に燃えていた。
これは逢魔ヶ時だ。
夕暮れ時、誰彼時、そして逢魔ヶ時。
この時間の呼び方はいくつかあるけれど、私はその中の逢魔ヶ時という呼び名が、今この時間に一番相応しい気がした。
昼と夜、現世と隠世が曖昧に入り混じったこの時間。
逢魔ヶ時の、全てが紫に染め上がった街の中で、家路を急ぐ人たちは誰もが無言で早足にバスロータリーへ向かうと列を作ってバスの到着を待っていた。
何か嫌な予感がする。
「何が」なんて言えやしない。ただの直感だ。
でも、この逢魔ヶ時の紫の空の下にいると、本当になんだかとてつもなく嫌な事が起こるような気がしてならない。
帰ろう、今日は家に帰ろう。
お昼には、帰りがけにもう一度丑虎の鈴が鳴らないか見て回ろう。とか考えていたけど、もうそんな心の余裕はなくなっていた。
バスから降りて、行列を作っていたサラリーマンたちの合間を縫ってサンピアの前を通り抜けて光明池駅への階段を上る。
途中、甘い丹波屋のおはぎの匂いにツバを飲み込んで、駅の改札口に着くとちょうど下りの電車が到着したのか、ホームからの階段からは次々と人が下りてきて通路一杯に続々と改札口から出てきた。
「ちょっとすみません。」
モタモタしてるとぶつかりそうになる人の波を掻き分けて、なんとか改札口を通って、あとは電車に乗って帰るだけ。なんてホッと一息付いてた時、リュックに付けた丑虎の鈴が小さくカラコロカラコロと音を鳴らした。
えっ!?
一瞬、何が何だか分からなかった。
改札口で立ち竦む私の両側を「邪魔」だと言わんばかりに人々が分け通り過ぎていく。
この中に鬼が……いるの?
辺りを見渡せば、ホームから下りてくる仕事帰りのサラリーマン、ハイキングの帰りの老人達、大きなヌイグルミを抱いた子供と家族連れ。
何百人もの人たちが目の前を通り過ぎていく。
嘘?本当にこの中に鬼がいるの?
右に左に顔を振り周囲を見渡しても怪しい人なんていない。
けど、その間にも丑虎の鈴はカラコロカラコロカラコロカラコロと弾け飛びそうな勢いで音を鳴らす。
女の子、女の子。髪の長い女の子。
手掛りになりそうな物は、そんな頼りにならないお祖父ちゃんの話だけ。
でも、いる。確実に、この中にいる。
丑虎の鈴の鈴は一層勢いを増して鳴り続ける。
どうしよう?どうしたら良いの?
背中にはヌットリと脂汗が吹き出して、手足は震え、ロクに回らない頭で周囲を見渡して考える。
早く見つけないと……。
思わず掴んだ丑虎の鈴が更に一層激しく音を鳴らすと、遂にはパチンと鈴に亀裂が入った。
「よう三琴。なにしてんの?」
その声が届いたのは丑虎の鈴が弾け飛んだ瞬間だった。
文字通り心臓が跳ね上がり、腰が抜けてへたり込みそうになるのをなんとか堪えて、振り向くと目の前に翔がいた。
「か、翔?」
「三琴、光明池に来てたんだ?何してたの?カラオケ?」
こんな時になに呑気な事を言ってるのよ!
思わず罵倒しそうになるのをグッと堪えて「いいからほっといて!」と会話を断ち切る。
お喋りなんかしてる場合じゃないの。鬼が近くにいるの。
「なんだよ。怒ってるのか?機嫌悪いの?」
「五月っ蠅い(うるつさい)。」
馬鹿正直に「鬼を探している」なんて言える訳がない。
言ったところで信じて貰えっこない。話がややこしくなるだけだ。
「まぁ、そういうなら……さ。
まぁ、ともかく気が落ち着いたら何か言ってよ。
話しをするだけでも気が楽になることもあるしさ。
お祖父ちゃんの件なんだろ?違うかも知れないけど。
聞くだけのことなら俺でも出来るし。
相談に乗る。なんて言えないかも知れないけど、話くらいは聞くぜ?
まぁ、今日は暗くなってきたし、気を付けて帰れよ。」
見当違いな気遣いで翔が私に優しい声を掛ける。
あ!
その翔の言葉の中に大きな間違いを見つけた。
気を付けて帰るのは私じゃない。翔の方だ。
「翔。今日は真っ直ぐ家に帰って。
できるだけ人の多い道を通って、暗い道なんてダメ。」
そうだ、今、ここに鬼がいるんだ。
私は鬼が居ることを知っている。丑虎の鈴もある。むしろ私は鬼を探しているわけだし。
でも、翔は違う。
何も知らず、何も気付かずに、突然鬼に襲われるかも知れない。
「いい、絶対だからね。
それから家に帰ったら、ちゃんと戸締まりすること。」
「ああ、分かった。けど、どうした?」
翔が怪訝な顔を向ける。
そっか、そうだよね。
何も知らずに急にこんな事言われても変に思うだけだよね。
「お願いだから、約束して。」
「わ、分かったよ。
その代わり、今度ゆっくり話し聞かせてくれよ。」
戸惑いながらも翔は頷いて、「じゃあね」と私が言ったのに翔はその場で立ち尽くしたままだった。
「なにしてんのよ!早く帰りなさいよ!」
もう駅の中に人はほとんどいない。
はやく鬼を追いかけないと鬼を見失うのに。
今はまだ手の平の中で壊れかけた丑虎の鈴が震えている。
でも早く追いかけないとまた丑虎の鈴は鳴り止んで、鬼を取り逃がすかも知れない。
そんな私の気も知らないで翔は呑気に頬を掻きながら「分かってるって。咲が来たら帰るよ。」と言って階段脇のお手洗いの方へ向かって手を振った。
そこには「お兄ちゃん、お待たせ。」と小走りにこちらに駆けつける咲ちゃんがいて、その瞬間、私の手の中で丑虎の鈴がパンと弾けて割れ飛んだ。
いるんだ。間違いなくいる。
あの泉ヶ丘で擦れ違った時と同じように心臓が締め付けられるかのように痛む。背中の冷や汗が止まらないで、足下は沼に嵌まったみたいに力が入らない。
けど周りを見渡してももう人は疎らで人に化けた鬼なんていそうにもない。
痛む心臓の鼓動がバクバクと音を立てて頭の中が真っ白に染まっていく。
だめだ。もう立ってもいられない。
「おい、三琴!なんだよ?どうしたんだ!大丈夫か?」
その場にへたり込んだ私を翔が抱きかかえるように支えてくれて、そばのベンチへ連れて行ってくれた。
「貧血……か?ちょっと落ち着くまでそこに座ってろよな。
なにか飲み物いる?」
「ううん、いい。」
「みこっち……、血が出てるよ?」
咲ちゃんに言われて初めて気が付いた。
多分、丑虎の鈴が弾けて割れた時だ。
握った手の平から一筋の血が流れていて、手の平を開くと中にはバラバラに砕け散った丑虎の鈴が血に塗れていた。
「と、とりあえずコレ。
ちゃんと石鹸で手を洗ったから汚れてないと思うよ。
あと、お兄ちゃん。薬局行って消毒液とガーゼ買って来て!」
手渡された柔らかな咲ちゃんの湿ったハンカチを傷口に当てると、咲ちゃんに言われて翔は慌てて薬局へと駆け出した。




